広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより20年12月用

「読む会」だより(20年12月用)文責IZ
(ご連絡)広島市内でのコロナ感染急拡大のため、12月20日に予定していました「読む会」は急遽中止とさせていただきました。収束が見えない状態ですので、当面「たより」だけの発行になるかもしれません。再開については、「たより」でお知らせします。
(前回の議論など)
11月15日に開かれた「読む会」では、貨幣のもつ価値尺度機能について、「要するに貨幣になると、金には“より以上の”使用価値ができるということか」という質問が出ました。チューターは、“より以上”と言うよりも、その自然属性とは全く異なる“新たな”使用価値をもつということだろう。たとえば金は貨幣として任意の諸商品と直接交換可能であるという性格を(したがってまた一般的交換手段となるという機能・役割を)もつが、それは社会的属性であって自然属性ではない。このような物の使用価値が獲得する社会的な属性のことを、マルクスは「経済的形態規定」と呼んでいるように思われる、と答えました。

ちなみにマルクスは、その晩年の草稿『ワーグナー傍注』において次のように語っています。
・「他方では、この暗い人は、私の場合にはすでに商品の分析において、商品が現れる二重の仕方にとどまらないで、ただちにその先へ進んで次のことを示しているということを見落としている。すなわち、@
<1>商品のこの<使用価値と交換価値との>二重存在のうちに、この商品をその生産物とする労働の二重の性格が、つまり有用労働、すなわち使用価値をつくる具体的な労働様式、および抽象的労働、どんな「有用な」仕方で支出されるかにかかわらない労働力の支出としての労働という二重の性格が表示されるということ(のちの生産過程の叙述はこれを基礎としている)、@
<2>商品の価値形態の、最終的にはその貨幣形態の、それゆえに貨幣の発展においては、ある商品の価値が他の商品の使用価値に、すなわち他の商品の現物形態に表示されるということ、@
<3>剰余価値そのものは労働力の「特殊的な」、もっぱらそれだけに具わっている使用価値から引きだされるということ、等々、@
それゆえ私にあっては使用価値はいままでの経済学におけるのとまったく違った仕方で重要な役割を演じていること、しかし注意すべきことだが、使用価値が考察されるのは、その考察が「使用価値」と「価値」の概念または語についてあれこれと理屈をこねることからではなく、与えられた経済的形象の分析から生まれてくる場合につねに限られているということ、以上である。」(全集版、P371)

前回、貨幣の価値尺度機能とは、商品に内在的な価値(社会的支出労働時間)を、商品相互の関係において外在的な金の大きさ(すなわち価格)として“現象”させることだ、と述べました。これまでに幾度か価値と交換価値との違いについて質問を受けていますが、この点から言えば、交換価値とは、価値そのものではなくて、発展すれば「価格」として現れる外在的な価値の現象“形態”のことだ、と言えるでしょう。(第1章第3節が「価値形態または交換価値」とあるのは、このような意味だと思われます。)
前回、見落としていましたが、久留間は『レキシコン』貨幣篇の「価値の尺度」第1項目のタイトルを、次のように記しています。
「金の貨幣としての第1の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、すなわち、諸商品価値を同名の大きさとして、つまり価格として表わすことにある。こうして、金は諸価値の一般的な尺度として機能するのであり、また、ただこの機能によってのみ、独自な等価物商品である金がまず貨幣になるのである」。貨幣の価値尺度機能と価格との理解にとって参考になる指摘だと思われます。
なお、以下ならびに前出の訳文は、注記のないかぎりレキシコン訳。ボールド・イタリック部分はマルクスの強調部分。アンダーラインは久留間のもの。波型アンダーライン、取り消し線、<>内、●印はレポータのもの。
(価格の理解のためにつづき)
価格や価値を“実現する”とはどういうことか、という問題に入る前に、貨幣や価格についてもう少し理解を深めておく必要があるように思います。
久留間は、前掲書の第12項目「計算貨幣としての貨幣の機能」や、第14項目「商品の価値は、価格としての定在においてはじめて、実現されなければならないものとして現れる」のなかで、『批判要綱』や『批判』、『資本論』からの引用をいくつか挙げながら、価値尺度としての貨幣と商品のもつ価格との関係について、注意を促しているように思われます。(なお、『批判要綱』からの引用は長文になるため、「貨幣にかんする章」のうちの当該部分全体を【参考資料】として付録にしました。一読ください。)

なおその前に、まずあらかじめ起こるであろう疑問に答えておこうと思います。
それはこれまでに幾度か質問のあった「観念的なもの」についての理解についてです。マルクスは同じく『批判要綱』の「貨幣にかんする章」のはじめのほうで次のように触れています。
・「私が1エレの亜麻布イコールその交換価値、つまりイコール1/x労働時間とおこう。同様に私は、1ポンドのパン、イコールその交換価値、イコール1/xまたは2/x労働時間とおこう。私は商品はいずれもある第三者にイコールであり、すなわち自分自身とは等しくないとする。両者<亜麻布とパン>と違ったこの第三者<交換価値>は、ある関係を表現するから、まず頭のなかに、表象のうちに、存在する。ちょうど諸関係が一般に、関係する主体とは区別して確定されなければならない場合、考えることができるだけであるように。」(高木訳、P64)
このマルクスの説明が一番わかりやすいように思います(ずいぶん昔にアンダーラインを引いていましたが、忘れていました)。「観念的なもの」は、たんに頭のなかの空想や妄想だけを意味するのではありません。諸事象のあいだの“関係”を範疇として固定する場合には、観念的なものとして頭に固定し反映するほかはありません(その反映が正しいかどうかは、経験や実践で検証されるほかありませんが)。観念的なものは、むろん“物”として存在するのではありませんが、諸事象の連関や発展を拒否するのは、皮相な唯物論であって科学ではありません。
また、「措定する」(あるものを一定の規定をもったものとして取り上げる、といったような意味)というのも難しい言葉です。これも取り上げようとする関係が物相互の自然的な関係でない場合、頭の中で観念として固定されたものどうしの関連付けになるからではないかと、今のところチューターは考えています。

(補足b)現実に一商品・金の物体の大きさが、その使用価値から区別されて、価値(社会的労働時間)の尺度となる貨幣として、すなわち一般的等価物・一般的商品として社会的に認められたならば、今度は、諸商品は一定量の貨幣と同等なものとして、「価格」すなわち観念的な貨幣という姿において、その価値(社会的労働時間)をその使用価値から区別して表現できることになり、実際に相互に価値として関係できることになる。こうして諸商品は、現実の貨幣・金と並んで、価格をもった商品すなわち観念的な貨幣・金として、流通に現れる。
マルクスは『批判要綱』において次のように語っています。(以下の引用も同じ)
・「商品は交換価値として規定されているものである。交換価値としては、商品は、一定の割合で(それに含まれている労働時間に応じて)他のすべての価値(商品)にたいする等価物である。しかし商品は、直接的にはそれのこうした規定性と一致していない。交換価値としては、商品は、それの自然的定在における自分自身とは異なっている。商品をそうした交換価値として措定するためには、ある媒介が必要である。だからこそ、交換価値は貨幣のかたちで、なにか別のものとして商品に対立するのである。」
商品の使用価値の形態すなわちその自然的な形態は、特殊な労働(例えば裁縫)が対象化された特殊な姿(例えば上着)しかもっていません。だから、いくらそれらが社会的に必要な労働であり社会的に必要な使用価値であったとしても、無差別な社会的労働の対象化という価値の姿を自分自身がもつわけにはいきません。つまり「交換価値としては、商品は、それの自然的定在における自分自身とは異なっている」のです。では、どのようにして商品は、その価値としての姿をもつことが可能になったのでしょうか。
それは、一商品を商品世界から排除し、その商品を価値の姿だとみなし──そのためにはその一商品は、諸商品にとって直接的交換可能性をもつ一般的等価物として認められていなければなりませんが──、そのうえでその排除した貨幣商品と関係し、自らを観念的な貨幣(すなわち価格)として表示することによってでした。つまり「商品をそうした交換価値として措定するためには、ある媒介が必要である。だからこそ、交換価値は貨幣のかたちで、なにか別のものとして商品に対立する」のでした。
直接には価値の姿をもちえない商品は、自らを二重化し、商品と貨幣商品とに分離するのですが、それは、貨幣商品をその使用価値とは異なる価値の存在物と見なしたうえで、つまりその物(使用価値)の大きさが一般的・社会的労働時間を表現していると規定したうえで、そうした貨幣を媒介にして、自らの価値(社会的労働時間)を表現できるようにするためでした。
しかしこの場合、商品の価値が貨幣を「媒介」にして、「なにか別のもの」として表現されるということは、ある商品の価値が、それとは別の存在である金・物質として存在するということと同じではありません。そうではなくて商品の価値は「そのうえで」、価格、すなわち自分とは異なる存在である貨幣・金の一定量と自分とを観念的に等置する、という媒介・関係をもつによってはじめて、自分自身をその使用価値としての姿とは「なにか別のもの」として表現できるのです。というのも商品は元来、使用価値であると同時に価値であるという二重物なのですから、商品の価値表現もまた、自分自身の二重の存在の表現でもなければならないからです。

マルクスはこうも述べています。
・「尺度としての貨幣ならびに価格としての商品というこの当面の規定は、現実の貨幣と計算貨幣との区別によって、最も簡単に明示される。尺度としては貨幣はつねに計算貨幣として役立ち、また価格としては商品はつねに、ただ観念的にのみ貨幣に転化されている。……
最初に貨幣が交換価値を表現するのに対して、いまや商品は、価格として、つまり観念的に措定され、頭のなかで実現された交換価値として、貨幣の一定額を、すなわち一定比率での貨幣を表現するのである。価格としては、さまざまな形態にあるすべての商品が貨幣の代表者であるが、他方、以前には貨幣が、自立した交換価値として、すべての商品の代表者であった。貨幣が現実に商品として措定されたのちに、商品は観念的に貨幣として措定されるのである」

・「貨幣が商品の外部に自立的な存在をもつことによって、商品の価格は貨幣にたいする諸交換価値ないし諸商品の外的な連関として現れる。商品がそれの社会的実体からみれば交換価値であったのとは異なり、商品は価格ではない。この規定性は商品と直接に合致するものではなくて、それと貨幣との比較によって媒介されているのである。商品は交換価値であるが、それは一つの価格をもつのである。……@
いまや商品は価格において、一方では自分の外部にあるものとしての貨幣に連関し、第二に、観念的にはそれ自身が貨幣として措定されている、というのは、貨幣は商品とは別の実在性をもっているからである。価格は商品の一属性であり、この規定においては、商品は貨幣として表象されるのである。……現実の貨幣とならんで、いまや商品は、観念的に措定された貨幣として存在しているのである」

現実に一商品・金の物体の大きさが、その使用価値から区別されて、価値(社会的労働時間)の尺度となる貨幣として、すなわち一般的等価物・一般的商品として社会的に認められたならば、今度は、諸商品は一定量の貨幣と同等なものとして、「価格」すなわち観念的な貨幣という姿において、その価値(社会的労働時間)としての大きさを表現できることになり、実際に相互に価値として関係できることになるのです。価値尺度としての貨幣が成立することによって、はじめて諸商品は現実に貨幣の姿をとった価値(社会的労働時間)として相互に関連し、また相互に交換可能な姿をもつことで、無差別な社会的労働の結晶であるというその社会的な規定にふさわしい、“社会的な”物になることができるのです。

・「重要なことは、価格では交換価値が貨幣と比較されるのだ、ということである。貨幣が、商品から自立した分離された交換価値として措定されたのちに、こんどは個々の商品が、特殊的な交換価値が、貨幣にふたたび等置される、すなわち一定分量の貨幣に等置され、貨幣として表現され、貨幣に翻訳されるのである。@
諸商品は、貨幣に等置されることによって、概念からみれば交換価値としてすでにそうであったように、ふたたび相互に関連させられており、その結果それらは、一定の比率で合致しあい比較しあうのである」

しかし言うまでもありませんが、商品は価格をもつだけではただ価値(社会的労働時間)としての表現をもつだけにすぎません。すなわち商品の価格は、他の商品と同じ表現をもつことで、他の商品と一定の比率で交換可能だという可能性の(あるいは交換されなくてはならないという必然性の)表示であって、商品が現実に他の商品との任意な交換可能性をもつためには、実際に貨幣に置き換わらなくてはなりません。この問題は、次の実現の問題のところで扱います。

第5章「労働過程と価値増殖過程」 第1節「労働過程」の説明は、次回以降に先延ばしとさせていただきます。ご了承ください。
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