



人は目の前にあるものの一割しか見ていないという。自分が見るべきものを脳で選択しているという。常に「こうありたい自分」を想像していれば、「そうなる自分」にふさわしいものが目に映るのです。
見るとおりの者、それが人間である。神を見るならば神になり、塵をみるならば塵になる。(J.マーフィー)
二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。一人は泥を見た。一人は星を見た。(フレデリック・ランブリッジ)
アルチュール・ランボーという詩人がいて、詩人は「見者」にならなければならない、として、彼はありとあらゆるものを見て、経験して、詩を書こうとしました。中学生の時にランボーを読んだ私は、汚濁のなかの清や聖というものに憧れていたような気がします。ほんとうに、そのようななかにしか、真実の「美」はないようにも思われました。音楽でいえば、パンクやヘビメタのような、あえて「汚い言葉」を使うようなものにもとても心を惹かれたりして。でも、彼らは、ほんとうは、汚いとみせかけて、とても清らかなことをうたっていたりするのですが・・・。ギャンブルとか、場末の裏通りとかに好んで出没したりしていたのです(今もたまに行きますが)。
・・・ともかく、今までは、そのような「屈折」しているものが好きでした。(そのせいか四度も結婚してしまいました(笑)…とやっと、笑えます)。いまも、そのようなおもいや好みは完全に消えたわけではありません。しかし、これからは、もっとわかりやすい、ストレートなきれいなもの、美しいものものを求めて、触れて生きてゆきたいと思っています。(いい匂いできれいな薔薇園とか可愛いくて甘いアイスクリームとか)。
長く生きているうちにいろいろなものを見ました。「屈折」」のなかで、みた光もあるけれど、それはそれで、これからは、なるべく、わかりやすいもので、立証し、生きてゆきたいです。そのことを短歌や文章を通じて、或いは話すことで、多くの人に伝えてみたい、そのことを仕事にしてゆきたい、という想いがあるからです。私のように「屈折」しなくても、なるべくまっすぐに、楽しい毎日、美しい人生をを、たくさんの人に送って欲しいから、そのことをわかりやすく簡単に、伝えるためにもです。だから、ここにアップする写真も「ベタ」な「きれいなお花」などです。以前はカメラで、有刺鉄線とか、瀕死の蝶とか、獲物を食いちぎる猛禽、とかを映していたのですが・・・。これからは、きれいで、やさしいもの、可愛くて、楽しいもの、を主に写メで撮りますね。そうすれば私もお花(華)になれる!
われの生(よ)は地上に落ちしいくつもの星のかけらを集めるために(森水晶『星の夜』「あとがき」)
私が描きたかったものは「絶望」でなく「夢」や「希望」、「光」や「虹」のようなもの。私が歌いたいのは「生きる喜び」、「うつくしい人生」についてです。(森水晶『それから』「あとがき」)
それでもこの世は生きる価値のあるうつくしい場所と君は笑った(森水晶『羽』一章「羽」)
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