璋子の日記

Beside you

映画を観る幸せ

2006年10月08日 09時05分01秒 | Movie(更新休止)

尊厳死、おかしな言葉(日本語)だといつも思います。
翻訳語だからそうなるのでしょう。
「death with diginity」といった英語表現が、安楽死(「easy death」「mercy death」)論争が起こったときに生まれ、それを日本語に翻訳するにあたって生まれた言葉だから、無理もないですが。

昨夜見た映画でこの「尊厳死」問題が取り上げられているせいで、
この映画が世俗の価値観、死生観、そして宗教的倫理観に照らしての論争を招いてしまったことを思い出し、映画ファンとして改めて残念に思われてなりませんでした。その思いから、このブログを書くことに。



日本では旧来あまり馴染みのない考え方ながら、英語圏では、いえキリスト教圏では、近代以降何事につけとにかく分類分析がなされるようになりました。
それが近年の日本でも広がって、いまや後戻りのできない弊害さえ生んでおりますけれど。
身近な例で言えば、病院の受診科のあの分類。何でも専門分野に細切れに分けるようになった・・・・患部や臓器を見て人間を見ない医療がまかり通っている。細切れミンチにされていくようで、わたくしなどは細分化志向の分類が怖いくらい・・・
そのように、欧米では、死も、自然死、病死、事故死、安楽死、尊厳死・・・脳死、心臓死と延々と分類されてしまっています。
そうした死を巡っての言葉の影には、「権利」という概念がいつも付きまといます。これも無理もありません。「権利」も「義務」も近代以降の法概念として生まれたのだから。つまり、こうした概念や言葉とともにさまざまな観念を生んできた西欧近代以降の歴史に根ざした問題として尊厳死もあるということを申し上げたかったのです。

そうした一つの「死」、映画の主人公の死はそうした死であるということを踏まえたとき、映画「海を飛ぶ夢」に対して映画として観る贅沢が味わえるのではないかと思われ、今日のこのブログを書き始めました。


ちょっと、そういう意味での映画から脱線しますが、
映画の≪内容≫について、ちょっと感じたことをお話してみます。

尊厳死について考えるとき語るとき、わたくしたちは、心静かに考えつづけることができるだろうかと自問。
「生きる権利」「死ぬ権利」として生や死が語られることはあっても、
そして、「生きる義務」として生や死が語られることはあっても、
宗教観や倫理観を超えて、平時では死を義務として考えることはほとんどないのでは。「権利」といった近代法上の観念を用いて何かを考えるなら、
同じ次元で「義務」も同時に考えないと担板漢になってしまうように思われます。

死を義務と考えるとき、それは自決、自死に通じていく。
わたくしは、映画『海を飛ぶ夢』の中の主人公の姿勢、その台詞を噛み締めたとき、武士道における生死観あるいは「葉隠」における報恩の思想、それらと主人公の言葉がかなり重なってしまいました。無論、主人公も、死を義務だという風に考えてはいませんが、到達点が似てるなあと。

仏教に慣れ親しんだ環境で生まれ育ちながらキリスト教学と聖書学を学んだ者として、わたくしは映画の主人公の到達した領域に個人的に驚嘆せざるを得ないものを感じた次第です。
キリスト教では自殺は認めませんが、「傲慢」もまた大罪とされています。自決を考えるだけで傲慢とされる。そういう意味ですでに主人公は「傲慢」を宿しているわけで、それだけでも彼は地獄行きです。だからこそ、原作となった手記は「地獄からの手紙」だったのでしょう。

かの地の人が、キリスト教圏の歴史文化、生死に対する教えや考えから自由になるというのは、相当に厳しい。一神教ゆえに無神教も生まれ、それが宗教の両翼となる。そういう意味で、かの地で宗教から自由になるのは死を意味する。
そこに、わたくしは尊厳死を選んだラモン・サンペドロという実在した原作者の思いを切実に感じてしまいました。

と同時に、
日本の武士たちがある状況に置かれたときに到達したであろう境地に、
似ているなあと。



自殺にしろ、尊厳死にしろ、キリスト教(宗教)と近代法との問題を超えたところに、この映画の映画たる由縁はあるんじゃないかと。
無論、映画の≪内容≫は一人の男性の、個人的な人生そのもの。個人の生き方だからこそ、共感も疎外感も感じ、20歳で四肢麻痺となり家族の献身的な介護と世話を受けて生きてきた男性が、50歳近くなって人生をどう捉えたのか、そういった人生に寄り添って時間を過ごすことになりますが・・・・

個人としての尊厳を「自由」というものに求めた主人公の、その「自由」が「自死する自由」にまで行き着いたとき、確かにそれを「傲慢」と見る方の思いも考えもあるでしょうが、誤解を恐れずに言えば、キリスト教での「傲慢」は、日本では「誇り」に通じていく資質や領域でもあったりする。「葉隠」の中に見る「報恩」の到達点でもあり「達観」でもあり、それは「愛」にも到達する。
これって、イエスの説く「愛」そのものではないか・・・とわたくしなどは思ってしまうほど。イエスの磔刑も、見方を変えれば自死ではなかったかと。

主人公が語る「愛」は、まるで日本人の武士のそれに通じるので、わたくしは驚愕しました。
「私を真に理解し愛するなら、私の意志(=自死)を尊重するはずだ」
という数度出てくる台詞。
これなど、武士が妻に求めるもの、そのものではないかと。

クリスチャンの方は無論そうはお考えにならないでしょうが、イエスの台詞であってもおかしくない。日本人のわたくしにはそのように好き嫌いを超えて了解できるものがありました。
腹切、心中といった文化を持ち、自殺も自死も自決もOKの日本。
「死」を「生」と表裏一体で感じ考えることが「自然に」できる日本人なら、むしろ、この映画を映画として鑑賞できるのでは。
かの地の人がこちらに近づいているときに、
こちらがその場にいないのでは、あまりに寂しいなあと。


映画のテーマに対して切実なものをお感じになられる方たちは、映画を映画としてご覧になられるのは難しいと言われるかもしれません。
そういう方には、わたくしの思いはご理解いただけないかもしれないけれど、
映画は映画なのだということを理解いただけば、この映画の中にある≪美しさ≫を味わっていただけるのではないかなあと痛切に感じた次第です。
はっとするような≪映像の美しさ≫ゆえに、わたくしは主人公の男の人生に寄り添う時間が持てました。

もっとも、
何を≪美しい≫と感じるかは極めて個人的なものですが。

映画を映画として観ずに映画の内容を否定肯定する論議って、
どうしても騒がしく感じられてしまう・・・・
そのせいか、こうしたことを書いてしまいました。

映画は・・・・、倫理でも道徳でも政治でもない。
無論、リアルな生活や人生でもない。
わたくしは映画は楽しんで観るか、映画として味わって観たい。なぜって、どんな映画であれ、そこにはっとするような≪映像美≫を見たとき、映画の世界に入っていけるし映画を観る幸せを感じるから。多くは人生のように暇つぶしで、そうした映像に出会うことなど滅多にはありませんけれど。


ちなみに、昨夜観た映画は他に、
TAKESHIS’」「2001人の狂宴」の2本。(←ホラースプラッター映画)
http://www.office-kitano.co.jp/takeshis/




 



 

 















 


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