母は癌で亡くなり、半年後愛猫も癌で亡くなり、弟は知的障がい者。父親は疲れきっており。僕は今31歳。

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母は癌で亡くなり、半年後愛猫も癌で亡くなり、弟は知的障がい者。父親は疲れきっており。僕は今31歳。⑨

2021-05-17 17:58:20 | 日記
自宅につき、母親に何を食べる?問いかけた。
蕎麦食べる。声のトーンは普通だったが力はないように感じた。
それは、そうだ。先ほどの医者の言葉はもう治療できない、と、とれるニュアンスだったからだ。

母親と共にご飯を食べるのは3日ぶりだった。食欲はなくなっていたのは明らかだった。母親は、少し男性的な食べ方をするタイプだった

ご飯をかっ込むまではいかないが、食べっぷりいいな、と思えるような食べ方だ。

だが、今目の前の母親はそんな姿を一切み見せない。

そして、ご飯を食べた母親はテレビを見ていた。あの時本当に見ていたのだろうから、、いや、見ていなかっただろう。

きっと、自分のこれからの事を考えたんだろうと思う。
笑顔はない。

どうすればいいのだろうか、、、闇雲の中考えた。まずは体に良いものを食べさせないといけない。
そもそも母親は、菓子パンや食パンを好んで食べていた。
野菜を食べることもあまりなく、肉が大好きだ。
僕が小学生のときから、自宅に野菜が食卓に出てきたことはあまりなかった。
友達の家で大量に野菜が出て来たとき驚いたほどだ。

野菜を食べさせしたいが、そんな大量の野菜を食べれる状態でもない。
サプリか、、、と。
ふと、思い出す知人の言葉。病気したあとスピルリナ飲んでいた。と聞いたことがあった。
スピルリナとは、スーパーフードだ。良質なたんぱく質にビタミンが多く含まれている。
またスーパーフードの王様とも呼ばれている。野菜より効率的に身体にいいものが摂取できる。

僕はスピルリナを販売しているところ調べ車で向かった。



道中。
僕は、僕自信に奇跡は起こると言い続けていた。そして、心を紛らわすためにお笑い番組をバックグラウンド再生させた。

勝手直ぐに母親に食べさせようとした。が、ダメだった。

また書きますー。

母は癌で亡くなり、半年後愛猫も癌で亡くなり、弟は知的障がい者。父親は疲れきっており。僕は今31歳。⑧

2021-05-16 13:22:22 | 日記
行きの保土ヶ谷バイパスは、上の空だったことは覚えている。

頭に過るのは母親の表情だ、どのように感じて、どのように今思っているのか。
弟は作業所に送り、父親と二人で癌センターに向かった。

コロナというものは、とてつもなく厄介であり、親族でさえ患者に簡単に合わせてくれない。

母親の検査入院中、僕は2回か届け物を渡しにいったのだが、母親が入院しているところの階まで行き、そこで看護師に荷物を渡す。
コロナじゃなかったら会えたのだが、、、何処か遠くに行ったような存在に感じた。

癌センターにつき看護師に呼ばれ、僕と父親は母親の病室に入った。
久しぶりに再開した母親は、これまでの以上に顔が黄色っぽくなっていた。

笑顔はなく、何かを覚悟した表情だった。
母親と会って直ぐに担当医が来た。


単刀直入の言葉だった。


膵臓癌です。
既に癌を切れる状ではなく、抗がん剤も打てる状態ではない。と、。

ビルルビンという数値だったと思うが、その数値がとてつもなく高かった。

高いまま、抗がん剤を打つと肝臓に想像もできない負担が掛かるとのことだった。最早切ることが癌に対して、どうするか、、。数値を下げて抗がん剤を打つしかない。

と、いう状態だった。

母親は厳しい表情はしていなかったが、先生の話しをただ聞いていた。

担当医から週一回検査しましょう。
そして、、様子をみましょう。とのことだ。

いわば、お手上げということだ。

母親は退院し、自宅に一緒に帰った。


また書きますー。



母は癌で亡くなり、半年後愛猫も癌で亡くなり、弟は知的障がい者。父親は疲れきっており。僕は今31歳。⑦

2021-05-15 18:20:26 | 日記
どんな声をかければいいのか、わからない。
自宅に帰ると、居ても立ってもいられず外に出た。
無心にただただ歩いてた。目的もなく歩いて自分の心の整理をすることに努めていたのだ。


これからどのようになっていくのか、どのうようにすればいいのか、ひたすら考えていた。

少し精神的に落ち着いたところで自宅に帰ったのだ。
家に帰ると、ドヨーンとした空気だった。膵癌を携帯で調べれば調べるほど、いい表現が書かれていない。

人は、自らが病人だと分かると病人のような振る舞いをしてしまう。
母親もまたそうだった。鬱病のようになってしまったのだ。

あんなにいつもしゃべる人が、無口になると、いたたまれない。

癌センターで、二回目の検査をおこなった。
少し余談だか、癌センターは常に混んでいる。これに関しては驚いたことは覚えている。

一日に千人以上の規模だ。
凄く人数である。あの病院の中で傷ついてる人もいれば、会報、完治をして喜んでいるものもいる。

癌は二人に一人なると言われ、ビジネス的に考えるビックビジネスだな、と感じたのを覚えている。


母親は検査入院することなった。
2泊3日だったと思う。これで母親の病気がハッキリと分かる。

ふと、思い出すと3日間母親が居なかったことはこれまでなかった。
きっと、家族一同初めての経験だった。

弟の問題が一番にあった。
役割分担は直ぐに決まった。


弟は朝僕が送り、父親がお迎え。


いつもよりも父親が早く帰ることになる。
僕は朝一の仕事を変更させた。


この辺りからだったと思うが、大吉が僕の膝で寝るようになったのだ。
大吉がこれまで、そのようなリアクションをしたことがなかった。
母親に対して何かを感じ取ったのか、そこからというものいつも僕の膝の上でゴロゴロしていた。

あっという間に3日がたった。
父親とともに、朝母親の元にむかった。


また書きますーー

母は癌で亡くなり、半年後愛猫も癌で亡くなり、弟は知的障がい者。父親は疲れきっており。僕は今31歳。⑥

2021-05-14 17:54:29 | 日記
正直、癌センターに行くのは嫌だった。胸の奥から感じた警鐘的なものだったのかもしれない。

癌センターにつき、血液検査をし精密検査を行った。母親の背中は何処か辛そうに見えたのは覚えている。

精密検査に入った母親を見届けた。
あの不思議な感覚は、何と説明していいか分からなかったが、僕自身ずっと緊張していたような感覚だった。

傍らの父親は無言だ。
弟は事の事態をそこまで理解してはいなかっただろうが、父親と僕の雰囲気を見て何かを感じ取り、おとなしくしていた。


精密検査が終わり、数十分後母親が呼ばれた。
そして家族で診察室に入ったのだ

何ともないでくれ、僕の人生の中で本気で祈った瞬間はこれ以上なかった。

母親の後ろに並ぶように僕ら三人は立った

先生はハッキリと言ったのだ。


膵癌の可能性があります。
ボーダーラインです。と。

聞いことはあった、膵癌は癌の王様だ。
沈黙の癌であり、気付いたときは既にそうとう進行していることが多々。

しかもボーダーライン。


治療できるか、できないかは分からない状態だ。



頭が真っ白というのは、この事をさすのかと思ったくらい、言葉の衝撃は重く、言葉が見つからなかった。

膵臓の回りには、様々な血管がある。
その中枢には門脈といものがあるのだ。

この門脈に癌が進行していたら最悪。
門脈は生命を維持するための血管であり、いわば血管の心臓ともいえる場所だ。

傷つけることができない。


ふと、過った。
母さん死ぬのか、と。

僕は母親の顔を窺うことができなかった。
ぼーっとしていた。

テレビから流れるコロナなんてちっぽけと思った。

帰りの車は、一言も話すことができなかった。



また書きますー。


母は癌で亡くなり、半年後愛猫も癌で亡くなり、弟は知的障がい者。父親は疲れきっており。僕は今31歳。⑤

2021-05-13 18:18:14 | 日記
去年今頃は、母親は救急車に運ばれたくらいだったと思う。

一年とは早いようで何だかんだ、長く感じる。特に今年はそのように思った。



母親の異変に気が付いたのは、去年の3月頃だった。
母親の顔色がおかしかったのだ。色白の母親だが、突然黄色っぽい肌になっていた。

最初の5日くらいは、あれ、と。何か黄色っぽくなってない?と、言われ、
確かに、なー。
と、思っていた。
若干黄色かかったような色だった。


人間というのは、不思議なもので、これヤバいかもと本能的に感じとることができたのだ。

案の定だ。次第に肌は黄色となっていた。

掛かり付けの近所の医者に行き、精密検査をしてもらうことになった。

医者の見解は、直ぐに癌センターに行け、ということだった

みぞおち奥に黒い影がある。
家族全員危ない、と直ぐに理解したのだ。

そこに輪をかけるようにコロナだ。ダブルパンチだった!

だが、今ほどコロナを気にしてはなかった。世間はコロナを気にしていたが、僕はほとんどコロナを気にするのことはなかった。

母さん、、、何かヤバいような気がしてならない。

そんな思いの中仕事をしていた。
お客さんの前で仕事する分には笑顔を振る舞いていたのだが、実際は上の空だった。

パニックになっていたのだ。


一週間後、僕らは家族は神奈川の癌センターに行った。



また書きますー。