奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

遠江の後藤氏

2023-09-12 16:40:28 | 郷土史
【後藤氏】 
 太田亮『姓氏家系大辞典』には「遠江後藤氏」は、後藤氏嫡流とする。後藤氏は源頼義の家臣で坂戸判官・後藤内と号した則明を元祖とし、類代河内源氏の家人でした。則明六代の孫基清は、承久の乱で長男基成とともに京方に味方し、一方二男基綱は幕府軍に就き、結局敗れた父基清と兄基成を六条河原で自ら斬首した。基清は猶子で、実父は佐藤仲清、同腹の兄は義清すなわち西行法師です。こうした関係から、基綱の家系は鎌倉幕府の評定衆・引付頭を務める武とともに歌の家系でした。ただ遠江後藤氏の室町時代以前の系譜を正確にはたどることはできないでしょう。
 遠江の後藤氏は室町時代における文献上の初見は、文安年間(1444~49)成立した「文安年中御番帳」「二番 後藤能登入道」および同じ二番衆に「詰衆 後藤左京亮」が記載されています。「詰衆」は将軍足利義教(在位1429~1441)が将軍に近侍し非常時に備えるため、総番中から選んだのが始まりとされます。後藤能登入道と後藤左京亮は親子または親族でしょう。
また宝徳二年から享徳四年(1450~55)成立の「永享以来御番帳」(以上番帳成立年代は福田豊彦氏による)には「二番 後藤左京亮」があります。
「康正二年造内裏段銭幷国役引付」(1456)に「後藤能登入道」が、「二貫二百廿五文、遠州小税田宮口段銭」・「弐貫弐百五十文、遠州所々段銭」とあり、遠州所々および宮口(現浜北区宮口)などの幕府御料所を預け置かれ、段銭徴収し、京済していました。
『見聞諸家紋』(「東山殿御紋帳」応仁元年~文明二年<1467~70>成立)第二十二張に違い鷹の羽に宝結とする紋が図示され、「後藤左京亮」とあります。
その後「文明十二・三年比御相伴衆」(1480~81)の記録に、「走衆」「後藤佐渡守」、「慈照院義政公 東山江御移之已後御供衆」文明十五~延徳二年(1483~90)「走衆」「後藤佐渡守」、「東山殿祗候人数」(同上)に「後藤佐渡守」とあります。後藤佐渡が後藤能登入道あるいは後藤左京亮に代わり家督を継いだのです。
「二番 後藤左京亮」は浜松市北区三ヶ日町釣神明宮に「創立年度不詳ナレド文明九年(1477)願主左京亮藤原親綱二ヨリ作事サル」とあり、出典は不明ですが多分古棟札によったと思われるので、実名「親綱」でしょう。釣神明宮は地番釣ですが、後藤氏居城日比沢城側に位置します。日比沢は後藤氏の本拠となったところですので、さきの伝承はあながち嘘とは言えません。
「走衆」は将軍出御のとき徒歩で随行し警固・先駈けを務めたものです。あらかじめその役目のために集められた十数人の中から、六人組を選び、将軍出行の際左右に分かれ供奉するのです。文字通り走るため身体頑強なものおよび背格好の同じものを抽出したといいます。職制としては将軍足利義政(在位1449~1473)のころ、とくに寛正期(1460~1466)ころ確立したとされます。奉公衆は番頭のもとで六日間の小番に従事し、申次・近習詰番など御所内諸番役・将軍外出時の帯刀などの警固が任務でした。将軍足利義政(在位1449~1473)のころには、御所内勤番者も、御伴衆・御部屋衆・番頭・申次衆・近衆・小番・走衆・御末衆と勤務内容によって格付けされ、次第に格差を伴う身分となっていったといいます。(以上各事典参考)
「長享元年九月十二日常徳院殿様江州動座着到」(1487)に「二番 後藤九郎」が記載され、「走衆」の「後藤佐渡守」は記載されていません。しかし、『蔭涼軒日録』長享二年(1488)四月二十日条に「後藤佐渡守来云、一昨日自遠州入洛、昨日御成致御供(以下略)」とあり、また同書延徳二年(1490)二月二日条に「後藤佐渡守持遠江之唐納豆小箱一ケ来、乃試之則有二異味一、東山相公平生御嗜好之故、小土器一ケ、毎々進上之云々、勧以盃、」とあります。

 この頃までを見ていくと、奉公衆二番を家織とする後藤氏に能登入道および左京亮親綱が存在していたことになります。この二人の関係は不明ですが、おそらく親子でしょう。その左京亮が文明年間に死没し、後嗣に「走衆」を家織とする後藤佐渡守がなったのです。
同じ二番衆に佐久城主一族大屋氏がいるので、何らかの関係があってこの地に来たのか、あるいは本坂・日比沢が「康正二年造内裏段銭幷国役引付」の「遠州所々」に入るとも考えられ、御料所の可能性もあります。奉公衆自体は明応の政変1493)で事実上崩壊します。
 きます。この後「永禄六年諸役人帳」(1563)記載「二番後藤治部少輔広綱」が存在しますが、このころ日比沢後藤氏は今川氏に属し、城郭を構えていますので、多分真泰と同族で、真泰が奉公衆をやめた後、後を継いだのでしょう。
 後藤九郎真泰は幼名亀千代といいました。弘治三年(1557)六月十八日付「今川義元判物」で、池田庄(豊田郡)領家方検地増分知行を命じられ、さらに同年七月二十三日、義元により池田庄検地および日比沢・本坂堀廻知行を命じられます。この文書で、九郎は「真泰」と言われています。義元戦死の桶狭間の戦いの少し前、永禄三年1560)二月三日「今川氏真判物写」で、義元の発給文書とほぼ同じ内容で、日比沢・本坂堀廻知行についても書かれています。
真泰は同年五月十九日、桶狭間で戦死します。そのあと、十二月十一日付「今川氏真判物写」では、戦死した真泰に代わって、子の亀寿に父同様の知行地を安堵しています。さらに同年十二月十一日氏真は、「雖為浜名知行有由来」と断ったうえで、釣松葉崎を給与されています。松葉崎は日比沢東の段丘端で、猪鼻湖に接し津があり、本坂道も通っています。また浜名本宗家の地贄代(鵺代)から浜名所々に住む親族・被官のところへ行く唯一の道筋にあり、交通の要所でした。それを断ち切られたのです。浜名氏本宗家がすでに没落し力がなく、佐久城大屋(浜名)氏もそれほど勢力がなかったためです。
この文書まで宛所は後藤亀寿殿で、二年後の永禄五年(1562)十二月十一日の書状では、「後藤佐渡殿」となっています。そして翌年九月十四日書状では、彼の実名が「真正」であることがわかります。最後の史料は永禄七年正月四日「今川氏真判物」で、「常盤知行安間」を新知として与えられています。これは安間の常盤地行分を宛がうということで、実際に現地を支配したのではありません。宛所は「後藤佐渡守殿」です。安間は現浜松市東区の天竜川側です。能登入道(1444頃~1456)ー左京亮親綱(1450頃~1470頃)ー九郎真泰(1487~1560死)ー亀寿のち真正(1560~1562)<ー某ー実勝>(数字は史料記載年度、<>は「日比沢後藤氏系図」)と続きます。ただ近世の「日比沢後藤系図」では亀千代を先祖とします。そして今川氏真に仕えた浜名最後の日比沢城主は後藤佐渡守直正で、逸話では家康家来に射殺されたことになっています。その子弥次兵衛某は最初今川氏真に仕え、のち徳川氏に仕えています。これは幼少のころに氏真に仕え、のち父の死後家康に附属したということです。もう一つ言えるのは、今川氏真代に至るまで所領および知行高宛行等の文書はすべて今川氏から直接発給されており、浜名氏のものは現存する文書にはありません。したがって、後藤氏も浜名氏と並ぶ国人の一人であり、浜名氏被官ではなかったということです。ただ大屋系浜名氏の娘を娶るなど非常に近しい関係だったのは事実でしょう。

江戸時代に浜名氏といえば佐久城主系を指すのが常識であったのに、全く無名の「浜名三郎元行」(三郎は浜名嫡流代々の仮名)が記載されているのか不思議です。
また、父後藤佐渡守直正が不敬の罪で家康に射殺されたのに、どのようにしてその家臣となったのか。遠州表案内云々は山家三方衆からの引き写しで虚偽だとしても、早くに家康方に就いた角兵衛よりも高い禄高を得たのか等々疑問がありますが、遠州における「後藤氏」を大雑把にまとめてみました。

<参考> 
「日比沢後藤氏系図」(意訳を含め略、正確な記述は原典を)
後藤九郎真泰
幼名亀千代、永禄三年五月十九日桶狭間にて今川義元と共に討ち死に。
後藤佐渡守直正
先祖亀千代以来直正迄代々遠州・三州の内を領し今川家に附属。
参考(「尾奈大矢氏(浜名氏)系図」大屋系浜名氏の佐久城主浜名頼広の妹は「一本日比沢村後藤佐渡守室 おはんぜう」)
後藤弥次兵衛某
今川氏真に仕え後東照公召て禄之。
後藤弥次兵衛実勝
南隆院(紀伊徳川頼宜)に附属、禄五百石賜ふ、大阪役に従ひ後元和五年国替節紀州御供、其後高千石に加増勘定奉行、承応元年(1652)十二月二十九日病死。

「本坂後藤氏系図」(略)
後藤角蔵実久(又角兵衛)
代々本坂に罷在、権現様岡崎御座の節御目見得云。永禄七年九月十三日御証文を賜ひ遠州表御案内。其後遠州日比沢城に差し置かる、追て江戸に屋敷を賜ひ、武州笠井川越にて三百石を食む。後遠州本坂に帰り、元和五年八月総領兵庫に従い紀州に移り住む。

後藤角兵衛某(初兵庫)
父実久家督相続、遠州本坂・大原新田知行三百石を食む。幼年より権現様に近侍、後遠州本坂御関所御用を勤む。追て南隆院様(南龍院、紀伊徳川氏初代徳川頼宣)に附けら れ、元和五年八月紀州御供仕、三百石下置かれ、同六年正月八日病死。


 説明はしませんが、上述系図及び註には多くの誤解が潜んでいます。寛政八年(1796)提出「先祖書(幷)親類書」には弥次兵衛実勝-甚太郎実俊ー甚太郎実賢等々と続きます。文化元年(1804)・文久三年(1863)補には、先祖角兵衛実久ー角兵衛ー角兵衛実綱ー角兵衛実英等々連綿繋いでいます。また分流を多数出しています。また紀州入国後初めての「(御入国之節姓名紀)元和五年紀伊徳川家分限帳」には「大番五番 後藤角兵衛 三百石」だけが見え、日比沢後藤氏は「寛永廿一年(1644)之御案紙」に「後藤弥次兵衛殿」とあります。禄高四百石、小十人頭が後文久頃の記録です。
 いずれにしても、確かな資料が抜け落ちていることもあって、断片的な系譜になってしまいました。









最新の画像もっと見る

コメントを投稿