辰巳和弘氏は 平凡社刊『日本の地名 静岡県』における「渭伊神社」の項は誤りで、事実は逆であると言います。『日本の地名 静岡県』は、現龍潭寺の地にあった井伊氏の氏神「八幡宮」が、享禄のころ、もともと現在地にあった「渭伊神社」の地に移遷してきたというものです。移遷時期はともかく、場所に関しては風土記伝ほか多くが同じ説です。辰巳氏が引用したのは「平井文書」だと言います。この文書は未見ですが、同説は「兵頭文書」・『井伊家伝記』も述べています。
『日本の地名 静岡県』は「山本文書」を参考にしていると考えられます。幕末から明治にかけて活躍した山本金木には「井伊八幡宮御遷座記・龍潭寺建立記」なる文書があります。それには「十二代将軍足利義晴の享禄(1528~1532),天文初メ(1532)八幡宮を殿村(現神宮寺)の薬師山に遷座成シ奉りぬ」とあり、さらにそれについて「渭伊神社ハ此時遷座にアラズ、往古ヨリ今ノ社地ナルベシ」とあります。ただこの中で、遷座した八幡宮が「延喜年代已前に此井伊谷に勧請」されたとも読める文がありますが、これは式内渭伊神社のことです。遠州国学を学んでいた金木が間違えることはありません。この書の後註によれば、山本金木は文政九年(1826)雄踏宇布見金山彦神社神主賀茂日向長男として生まれ、父親が井伊谷山本家の出の縁で、十五歳で渭伊神社(正八幡宮)神主家を相続しました。山本家はその三代前筑前の代に当時神道を統率していた京都吉田家から遠江国神祇道示諭方に任じられ、豊前・大隅と歴代継承してきました。つまり金木は筋金入りの神道家でした。
式内社の比定は主に室町時代後期から始まり江戸時代に盛んになりました。それは京都吉田神社神官家吉田兼倶が唯一神道を唱え、神祇管領長上を私称し、一部神社を除き地方神社を支配下に置きました。さらに江戸時代寛文五年(1685)幕府による寺社統制の一環として「諸社禰宜神主法度」が出され、その中で吉田家に対し全国禰宜神主の位階・装束等の裁許状発行が一任されました。これにより、一部有力神社を除き、全国の神社が吉田家の統率下に入ったのです。吉田兼倶は『神名帳頭註』という延喜式神名帳の注釈書を書くなど、式内社にも強い関心を持っていました。裁許状は神社の位階を含むわけですので、式内社の裁許も当然入ってきます。各神社は古くに朝廷からの認可を得られたという過去は格式上上位とみなし、多少の伝承をもとに、式内社への裁許を吉田家に申請しました。式内社の名称を付した地方神社の多くは、特に江戸時代国学隆盛により延喜式神名帳重視の影響を受け、式内社への名乗を揚げた神社でした。
現渭伊神社も中世神仏習合時には、その本地薬師仏の垂迹である天白神社でした。天白神社は諸説定まらぬ謎の神です。おそらく水神である河伯(白岩水神社)に対する天伯だと推測されます。
天白磐座遺跡そのものは辰巳氏によると、1,古墳時代前期後葉~後期前葉 2.奈良時代 3.平安時代(九~十世紀前半) 3.平安時代(十一~十三世紀中葉)の四期に分かれます。周辺の北神宮寺遺跡発掘調査によると、三世紀初頭から四世紀中葉(弥生時代終末~古墳時代前期)の竪穴住居の集落跡や方形周溝墓が発掘により確認されています。ただこの後は急速に衰退に向かったとあります。その後古墳時代中期末葉から後期(五世紀末葉~六世紀中葉)には小規模な集落が存在したといいます。奈良時代・平安時代前期の遺物は希薄で、十世紀前半に形成された灰釉陶器埋納遺構や十世紀から十一世紀にかけての遺物が僅かに認められる程度だとします。鎌倉時代後葉(十三世紀後半)に至っても小規模集落の展開とある程度の有力者の土壙墓一基が確認できるだけです。戦国時代前半(十五世紀後葉)に造営開始された集落は江戸時代に続いています。(『北神宮寺遺跡発掘報告書』2009年)川を挟んで南側の「矢畑遺跡」北神宮寺と弥生時代終末から古墳時代前期の状態はほぼ同じで、奈良・平安時代には陶硯類・墨書土器・製塩土器・土馬等が発掘されていますが官衙関連遺跡かどうかは不明です。建物遺構は未検出で、八~十世紀の遺物も少量で、やはり小規模な集落であったと思われます。鎌倉時代の十三~十四世紀の遺物も僅少で、中世十五世紀後半には僅かに存在したと思われる遺構の終わりを迎え、近世には水田と化しています。(『矢畑遺跡』)
それゆえ天白磐座遺跡の古代を通じての祭祀は、現集落の中心部分の発掘がのなされてないとはいえ、現状から井伊谷そのものが衰退時にある時代のものと推測できるでしょう。にもかかわらず祭が継続したのは、この遺跡が井伊谷のみならず古墳時代のクニ、のちの律令時代の引佐郡(評)全体の祭祀の一環だったからだと思います。そこでこうした面からも、天白磐座遺跡は引佐郡の式内社であったと言ってよいでしょう。
付言すると、六・七世紀の群集墳が井伊谷内に数多く展開していますが、浜松市西区根本山の大規模な古墳群 の被葬者に対応する集落遺跡がこの近辺に見つからないという例からも、必ずしも古墳の存在が集落の近在を示しているとは思えません。
さて一方の八幡神を見ていきます。
『日本の地名 静岡県』は「山本文書」を参考にしていると考えられます。幕末から明治にかけて活躍した山本金木には「井伊八幡宮御遷座記・龍潭寺建立記」なる文書があります。それには「十二代将軍足利義晴の享禄(1528~1532),天文初メ(1532)八幡宮を殿村(現神宮寺)の薬師山に遷座成シ奉りぬ」とあり、さらにそれについて「渭伊神社ハ此時遷座にアラズ、往古ヨリ今ノ社地ナルベシ」とあります。ただこの中で、遷座した八幡宮が「延喜年代已前に此井伊谷に勧請」されたとも読める文がありますが、これは式内渭伊神社のことです。遠州国学を学んでいた金木が間違えることはありません。この書の後註によれば、山本金木は文政九年(1826)雄踏宇布見金山彦神社神主賀茂日向長男として生まれ、父親が井伊谷山本家の出の縁で、十五歳で渭伊神社(正八幡宮)神主家を相続しました。山本家はその三代前筑前の代に当時神道を統率していた京都吉田家から遠江国神祇道示諭方に任じられ、豊前・大隅と歴代継承してきました。つまり金木は筋金入りの神道家でした。
式内社の比定は主に室町時代後期から始まり江戸時代に盛んになりました。それは京都吉田神社神官家吉田兼倶が唯一神道を唱え、神祇管領長上を私称し、一部神社を除き地方神社を支配下に置きました。さらに江戸時代寛文五年(1685)幕府による寺社統制の一環として「諸社禰宜神主法度」が出され、その中で吉田家に対し全国禰宜神主の位階・装束等の裁許状発行が一任されました。これにより、一部有力神社を除き、全国の神社が吉田家の統率下に入ったのです。吉田兼倶は『神名帳頭註』という延喜式神名帳の注釈書を書くなど、式内社にも強い関心を持っていました。裁許状は神社の位階を含むわけですので、式内社の裁許も当然入ってきます。各神社は古くに朝廷からの認可を得られたという過去は格式上上位とみなし、多少の伝承をもとに、式内社への裁許を吉田家に申請しました。式内社の名称を付した地方神社の多くは、特に江戸時代国学隆盛により延喜式神名帳重視の影響を受け、式内社への名乗を揚げた神社でした。
現渭伊神社も中世神仏習合時には、その本地薬師仏の垂迹である天白神社でした。天白神社は諸説定まらぬ謎の神です。おそらく水神である河伯(白岩水神社)に対する天伯だと推測されます。
天白磐座遺跡そのものは辰巳氏によると、1,古墳時代前期後葉~後期前葉 2.奈良時代 3.平安時代(九~十世紀前半) 3.平安時代(十一~十三世紀中葉)の四期に分かれます。周辺の北神宮寺遺跡発掘調査によると、三世紀初頭から四世紀中葉(弥生時代終末~古墳時代前期)の竪穴住居の集落跡や方形周溝墓が発掘により確認されています。ただこの後は急速に衰退に向かったとあります。その後古墳時代中期末葉から後期(五世紀末葉~六世紀中葉)には小規模な集落が存在したといいます。奈良時代・平安時代前期の遺物は希薄で、十世紀前半に形成された灰釉陶器埋納遺構や十世紀から十一世紀にかけての遺物が僅かに認められる程度だとします。鎌倉時代後葉(十三世紀後半)に至っても小規模集落の展開とある程度の有力者の土壙墓一基が確認できるだけです。戦国時代前半(十五世紀後葉)に造営開始された集落は江戸時代に続いています。(『北神宮寺遺跡発掘報告書』2009年)川を挟んで南側の「矢畑遺跡」北神宮寺と弥生時代終末から古墳時代前期の状態はほぼ同じで、奈良・平安時代には陶硯類・墨書土器・製塩土器・土馬等が発掘されていますが官衙関連遺跡かどうかは不明です。建物遺構は未検出で、八~十世紀の遺物も少量で、やはり小規模な集落であったと思われます。鎌倉時代の十三~十四世紀の遺物も僅少で、中世十五世紀後半には僅かに存在したと思われる遺構の終わりを迎え、近世には水田と化しています。(『矢畑遺跡』)
それゆえ天白磐座遺跡の古代を通じての祭祀は、現集落の中心部分の発掘がのなされてないとはいえ、現状から井伊谷そのものが衰退時にある時代のものと推測できるでしょう。にもかかわらず祭が継続したのは、この遺跡が井伊谷のみならず古墳時代のクニ、のちの律令時代の引佐郡(評)全体の祭祀の一環だったからだと思います。そこでこうした面からも、天白磐座遺跡は引佐郡の式内社であったと言ってよいでしょう。
付言すると、六・七世紀の群集墳が井伊谷内に数多く展開していますが、浜松市西区根本山の大規模な古墳群 の被葬者に対応する集落遺跡がこの近辺に見つからないという例からも、必ずしも古墳の存在が集落の近在を示しているとは思えません。
さて一方の八幡神を見ていきます。