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誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 87



 黒い服をきたアサダさんが出ていったと思われる裏口から小屋を出るとき、私は今一度、もうひとりの眠るアサダさんの眠るベッドに目をやった。薄暗い部屋でベッドの周りを囲む三人が、眠るアサダさんを静かに見つめてる。その中でも、こころなしかヒカルが他の2人よりさらに薄くなっている気がした。そのことを恐らく3人とも気がついているのだろうけれど、当のヒカルも、周りのおばあちゃんとリンも、起こっている出来事を全て、静かに受け入れて立ち尽くすとても儚げな存在として見えた。

 こちらの視線に気がついたヒカルと目があった。薄くなったヒカルの目の奥も少し霞んでいて、以前のような意思の動きが見えにくい。”存在が弱まっている”そんな気がした。このまま消えてしまって、もう二度と会えなくなるのではないか。そんな不安が一瞬頭をよぎる。
 その時、風に揺れる細い蝋燭の消え掛かる炎のように、ヒカルの色の薄い姿が一瞬だけ揺れた。ホログラムの映像装置が何かの不具合で壊れかけてしまっているかのようだ。
 私は息を呑んだ。ヒカルの表情にも、声にならない不安を見た気がした。急がねばならない。私はそんなヒカルになんとか力を送るような気持ちでひとつ力強く頷き、踵を返して裏口から外へと駆け出した。

 さっきまで心地の良い日差しが辺りを明るく照らしていた丘の頭上には分厚い雲が空一面に広がり、暗澹とした灰色の世界の広がりを感じさせた。私は周りをぐるりと見回すが、黒い服のアサダさんの姿は見えない。
 裏口を出てそのまま進んでいった先に、木々が鬱蒼と立ち並ぶ暗い森が見える。
 その暗い森の影の奥の方から呼ばれているような感覚を胸に覚えた私は、迷いを振り払うようにまっすぐと歩き出した。

 なぜ、アサダさんが二人いて、なぜ、もうひとりの自分の首を締めようとしたのか。歩く私の頭の中に、戸惑いが渦を巻く。考えれば考えるほど混乱するばかりだった。頭で考えて解けるようなことではないと判っていても、その問いかけがつい沸き起こってくる。気がつくと、さっきよりも空がより一段と暗く感じられる。混乱と不安に塞がれた自分の気分が、まるでこの世界に転写しているかのようだった。
 暗い闇をその奥に孕んだような森が目の前まで近づいた時、自分の胸の中に重たい石が投じられたような、不思議な重力を感知した。
 (重たい・・・)そう感じる自分の中で、巡りの穴の中に入る前まで出来ていた、空を飛べるという感覚は完全に消え去っていた。
 ひょっとしたら自分の意識も今、何かに捕らわれた状態なのかもしれない。
 今までに感じたことのない胸の中の”重さ”は、森に近づくほど自分の心が引っ張られるような引力となっていくようだった。
 私はかろうじて森の目の前までやってきてから足を止める。このまま歩いて森に入っていったら、そのまま出てこれないのではないかという恐怖心が突如芽生えた。
 それなのに、森の影に体ごと引きずり込まれそうな、抗いがたい引力を胸の真ん中で感じている。

 私は思わず、自分の胸の真ん中に手をあて、目を瞑った。

 自分の手のぬくもりが服を伝って胸を温めた。
 この手は、おばあちゃんと同じ指のある手。
 この体は、親からもらったもの。
 この命をつないでくれた、沢山の人々の思いを、私はこの胸に受けたのだ。
 そう、自分は一人ではない。
 過去と未来の沢山の人の思いを自分がつないでいるという、その温かい感覚が少し思い起こされてきた。
 その時、ぽつり、ぽつりと雨のしずくが降ってきて私の体に触れた。
 雨の匂いに包まれていることに気がついた時、不思議と少しだけ心が軽くなった。
 意識の世界にやってきた時、はじめに囚われた砂漠の中で命をもらった雨のありがたさが不意に思い起こされ、心に染み渡る。 
 その感謝の気持ちに、自分が救われるような気がした。
「大丈夫」思わずその言葉が口をついて出た。

 この暗い森のどこかに、アサダさんがいる。
 重力に心を囚われてしまったアサダさんが。

 私は目をしっかりと見開き、森と対峙した。
 ひとつ呼吸を大きく吸って吐いてから、森へと足を踏み入れた。


・・・つづく。
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