吹く風ネット

2001年10月26日

 メールが溜まりすぎている。メルマガのほとんどが未開封になっているのだ。
 今日はちょっと読んでやろうということで、とりあえずジャンル別に振り分けた。自動振り分けのルール設定をしてないので、かなり手間取ったが、何とか読みたいものだけは振り分けを終わらせた。

 その作業の最中、ふと思ったことがある。人間の気持ちというものも、このフォルダのように振り分けられている、ということだった。
 例えば、誉められたら「嬉しい」というフォルダに収められ、けなされたら「悔しい」というフォルダに振り分けられる、ということだ。
 さらにそのフォルダの中の、その人の経験で作った「新しいフォルダ」に振り分けられる。
「嬉しい」→「喜び」→「木に登る」とか、「悔しい」→「怒り」→「やけ食い」などと細分化されていく。
 人間の心というものは、難しく出来ているらしいが、突き詰めたらメールの振り分けと同じようなものだろう。

 ところで、メールの「受信トレイ」を人の心に当てはめると「苦」になると思う。
 仏教では、「喜怒哀楽」すべてが「苦」の所産だと教える。般若心経の中にも「生老病死の苦」という言葉が出てくるが、宗教というのはこの「苦」の対策なんですね。
 人間、この「苦」というものがなければ、宗教なんかは必要ない。「苦」がなければ、人は安穏として生きていけるのだから。
 さらに、この「苦」の根源にあるのが、「嫌」というものである。つまり、仕事が「嫌」だから「苦」になり、死ぬのが「嫌」だから「苦」になる、ということである。この「嫌」がなかったら「苦」というものは存在しなくなる。どうにかしてこの「嫌」をなくしたいものである。

 先ほどのメールではないが、この「嫌」を自動的に削除する方法はないものだろうか?そこから宗教というものが誕生したのだと思うのだが、先人はその方法に苦心してきた。

 東洋人は、「嫌」を自分の中にあるものと捉え、禅や念仏といった手段を用いた。座禅を組み、この「嫌」を徹底的に追い出したり、念仏を唱え、この「嫌」を思い出さないようにしたり、と自分自身との格闘に取り組んだのだ。
 一方西洋人は、「嫌」は自分の中にあるものではなく、「嫌」という対象物があると捉えた。「嫌」な相手は神の名のもとに徹底的に攻撃するとか、「嫌」な病気があれば徹底的に切りとるとかいうように、対象物との格闘に取り組んだ。つまり「嫌」を削除するために、「嫌」を構成している対象物を破壊する道を選んだのだ。
 自然と共存する東洋人と、自然を征服する西洋人との差も、ここにあるのだと思う。

 そこで思うのだが、近代の西洋人の戦争というのは「嫌」狩りだったのだろう。
この辺が、日本の近代戦争と異なるところだ。多くの人たちが大東亜戦争を「侵略戦争」と呼ぶが、これもアメリカが日本を「嫌」者にした結果である。
 日本としては、あくまでもアメリカを「友好」というフォルダに入れたかったのだ。しかし、執拗に日本を「嫌」者扱いにするアメリカに、とうとう日本もアメリカを「嫌」というフォルダに入れてしまった。

 それにしても、最近は「嫌」が多くなった。
座禅組むのは疲れるし、念仏唱えるのは面倒だ。
「嫌」→「削除」といきたいが、そううまくはいかない。
「嫌」→「酒」→「寝る」→「削除」、これでいこう。

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