素晴らしき日々

一切の生命が幸せでありますように。

日の名残り / 幻想の中で生きるということ

2023年12月02日 | カズオ・イシグロ Kazuo Ishiguro

この本のあらすじを知りたくない方はどうかお気を付けて。

さて。何かを信じて頑張ることは良い結果につながる可能性が高い。エネルギーが内側から沸き起こり、行動が意欲的になり、無理だと周りから反対されるようなことでも見事にやってのけることがある。その達成感はすがすがしく、自分自身を誇りに思えるだろう。

しかしながら、それは同時に危険も内包する。なぜなら、人は何かを盲信すると暴走し、その何かが間違っていた場合、第三者が本人の行動を止めることは難しく、本人が自ら間違いに気が付いて悔い改めるのは、大抵の場合、心の複雑骨折という悲劇が起きてからだ。しかし、自ら気が付けた人は、その悲劇以上のまばゆい可能性にも気が付けるかもしれない。

日の名残りの主人公はベテラン執事のスティーブンス。彼の主人はダーリントン卿で、スティーブンスは彼の為に仕事を完璧にこなすことが生きがいだ。ダーリントン卿の人格に惚れこみ、「偉大な執事とは何たるか」を常に意識していた。執事と偉大な執事の差は「品格」だとしていたが、私は、彼の品格の定義が悲劇を生む要因だと感じた。

彼の「品格」の定義は、同じく執事であった彼の父から、折に触れて聞かされた話に集約されている。あるインドの館のイギリス人執事が、客人たちがいるにもかかわらず、館の中に虎が迷い込んだことを知る。その執事は全く慌てず冷静に主人から銃を借り、しとめ、何事もなかったように始末した、という話だ。簡単に言うと、感情に流されず冷静に対処すること、である。スティーブンスの父はこれが理想の執事の姿であると日々努力をし、スティーブンスも同様にそれを目指した。

また、スティーブンスが信じて忠義を尽くしたダーリントン卿の人格も完璧ではない。人格がいい、イコール、判断を間違わない人間ではない。ダーリントン卿の正義感の強さ、敗戦国ドイツへの罪悪感は、悪い意図を持つドイツ側の者達に悪用された。

人間の弱さの例がうまく描かれている箇所の一つに、ユダヤ人メイドを解雇するシーンがある。来客のドイツ人達を不快にさせないためにユダヤ人を屋敷におきたくないとダーリントン卿は考えた(マインドコントロールされているのがうかがえる)。スティーブンスは、内心反対だがダーリントン卿のお考えだからと実行する。恋愛感情を押し殺し続けた相手・女中頭のミス・ケントンからは大反対され、仲もこじれるが、それを全く聞き入れず解雇を実行する。

後に、ダーリントン卿は、ユダヤ人解雇は間違いだった、と認め雇い戻すように伝える。

メイド解雇前に、もしスティーブンスが執事の品格というこだわりを捨て、品格ある執事というストーリーを手放し、感情を抑えて冷静に対処する対処療法の範囲を超え、自分に正直に、主人より更に大きな「人類に対する道義」を優先していたらどうなっただろうか。

人は、自分の設定した物語を信じ、その流れに酔いしれ、本当に優先すべきこを見逃す。スティーブンスが、雇用主の期待をついかなるときも優先するようなことをしなければ、二人の雇用を守るだけでなく、ユダヤ人差別をするという雇い主の悪評判が立つことも防止できたし、ダーリントン卿を利用した人達の悪い意図に気が付くきっかけになり、その先の悲劇を止めることもできたかもしれない。

自分の物語から臨機応変に出て、その時々で判断して行動するのは面倒くさいことだ。一度設定したキャラクターを演じ続けるのはラクだし、雇用主の言うことを絶対に守るという理屈を盾に、自分の間違いを見なくても済む。しかし、これはラクだが犠牲も大きい。小説の最後に明らかになる代償を見れば、自分の意思を無視して起きる悲しい出来事に胸が痛くなるだろう。

小説中の6日目に出会う男とスティーブンスの会話から分かるのは、スティーブンスは、最後には自らの間違いに気が付くことができたのだ。新しいアメリカ人雇い主の為にジョークの練習をしようと決意することが、スティーブンス自身が楽しむためであってほしいと心から願う。幸せは、何かを無分別に盲信するようなことから起きてはならない。

自戒を込めて筆をおく。一切の生命が幸せでありますように。

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