お話

日々思いついた「お話」を思いついたまま書く

白いハンカチーフ

2020年05月31日 | 怪談 手芸部信子
「おい、いつもいつも、そんなちまちました事やりやがってよう、目障りなんだよう!」

 哲明は信子の机の前に立つと、机の上の編み物の毛糸玉を乱暴に払い飛ばした。放課後の教室がしんとなって凍りつく。危険な雰囲気に、教室に残っていた者はそそくさと帰って行く。教室に残っているのは哲明と信子だけになった。
 哲明は問題児だ。ほとんど学校に来ないが、たまに来ると、こういう乱暴沙汰を起こす。兎に角、気に入らない相手がいれば、男女の見境いは無い。今日は信子が標的になった。

「まだ暑いってのによう、毛糸だなんてよう、馬っ鹿じゃねぇのかよう!」

 哲明は言い、信子の手にしているかぎ針と編みかけの毛糸を鷲掴みにして取り上げると、床に叩きつけた。そして、足で踏み付けた。

「ふん! こんなくっだらねぇ事は、オレの前でやるんじゃねぇよ!」

 信子は床に散らばった残骸を見る。それを見ながら、信子は左の口の端が少し上がった笑みを浮かべた。そして、机の中から小さな紙袋を一つ取り出した。紙袋を開けると、中から薄くて白い布が出てきた。
 哲明は完全に無視された事で、さらに怒りが込み上げてきた。

「てめぇ……」

 哲明の怒りに素知らぬ顔をして、信子は手にした白い布を広げた。正方形をしている。ハンカチのようだった。ただ変わっているのは、四つ角に白くて短い房べりがぶら下がっている点だ。信子はハンカチを広げて両手で持ったまま、すっと立ち上がった。
 いきなりの事で、哲明が驚いていると、信子は広げたままのハンカチを哲明の顔に宛がった。

「何しやがる!」

 哲明は信子に拳を作って殴りかかった。が、拳は当たらなかった。いや、そうではない。信子の顔をすり抜けてしまったのだ。拳だけではない。勢い余った哲明のからだ全体が信子を通り抜けてしまったのだ。踏みとどまって振り返る。

「な、何だあ!」

 哲明は声を上げた。
 信子の傍に、顔が白いハンカチで覆われて直立している自分の姿があった。死人の顔に白い布をかぶせているような感じだった。
 信子はそんな哲明を放っておいて、床に散らかった折れたかぎ針や汚れてしまった毛糸を拾い始めた。

「おい、この野郎……」

 哲明は自分の声に違和感を感じた。自分の出している声が自分に聞こえない。

「おい、何しやがったんだ!」

 哲明はそう怒鳴ったが、声が出ているようには思えなかった。掴みかかろうとして両手を伸ばした。

「わっ!」

 伸ばした両手の輪郭がぼんやりとしていて透けている。慌てて自分のからだを見回す。からだも同じように透けていて床が見えている。哲明は思わずよろけて机に手を付いた。しかし、その机もすり抜けてしまった。床に倒れ込む。が、床は少し下に見える。からだが浮いているようだった。

「なんだ、なんだよう!」

 哲明が叫ぶが、声にならない。
 信子は新たにかぎ針を出して編み物に集中し始めた。

「おい! どうなってんだよう! オレが見えねぇのかよう!」

 哲明の叫びは信子には聞こえていないようだ。姿も見えていないらしい。


 哲明は座り込んだ姿のまま、川面を風に流される落ち葉の様にして教室から出て行った。何人もの生徒が哲明をすり抜けて行く。しかし、誰も気が付いていない。

 ……オレは幽霊になったのか? 

 哲明が不安を覚えながら廊下をさ迷うように流れていると、剛と明が立ち話をしているところに出くわした。二人とも哲明の仲間だ。哲明はそこで止まった。傍に哲明がいる事には全く気が付いていない。そもそも、見えていないようだ。

「明よう、哲明とはそろそろ切れねぇか?」
「そうだなぁ。いつまでも馬鹿やってらんねぇよなぁ。あいつ、将来って考えてんのかね?」
「考えてねぇよ。ずっとこのまま不良一直線なんじゃねぇの?」
「付き合い切れねぇな」
「お前、卒業したら何すんだ?」
「オレは就職だ。叔父さんがやってる小さい工場だけどな。真面目にやれば、行く行くは社長だぜ。剛は?」
「オレは大学へ行くつもりだ」
「お前が?」
「地元の底辺大学なら何とかなるさ。卒業したら市役所にでも勤める。ここは地元優先で採用してくれるからな」
「そりゃいいや。……でも哲明はどうすんだろうな?」
「いつまでもガキじゃいらんねぇからなぁ」



 哲明はまた流された。壁へと進む。ぶつかると思い、思わず目を閉じた。しかし、何の衝撃も無かった。目を開けると職員室の中だった。哲明が大嫌いで仇のように思っている生活指導教諭の立花が、哲明のクラスの担任の櫛田と話をしていた。そこでまた止まった。

「立花先生のご意見は分かりますが、もう、あれは、長田哲明は手が付けられません」
「そうはおっしゃいますがね、櫛田先生、あれでなかなか良い奴ですよ。何とか良い道へ導いてやりたい」
「今日も久しぶりに学校に来ましたが、いきなり大声を出したりして、邪魔ばかりですよ……」
「でもね、学校に来るだけ、まだ良いじゃありませんか」
「邪魔しに来るなら、来ないでもらいたいですよ」
「わたしも哲明とは殴り合い一歩手前まで行く事はありましたよ。自分に注意を向けてほしいって、少し子供じみたところはありますが、根は素直な奴ですよ」
「ですがね、ご両親とお会いしたことがあるんですが、ほとほと疲れたとおっしゃっていましたよ。子供の頃は自分の事を『てっちゃんはねぇ』なんて言ってたのが嘘みたいだと泣いておられましたよ」
「親を泣かすとは、困ったものだ……」
「次、些細な問題でも起こすと、退学処分は免れませんなぁ。いくら立花先生が庇ったとしてもねぇ……」
「仕方ありませんなぁ、自分の力不足を痛感しますよ……」


 哲明はまた流された。壁を抜け、廊下を進む。


 オレは、何て奴だったんだ…… 何にも見えていなかった…… その日その日が楽しければ、そうして一生が終われば良いと思っていた…… 

 てっちゃんはねぇ、か…… そう言えば、最近は親の笑った顔を見たことがないな…… 

 剛も明も、将来を考えていやがるんだ…… それなのに、オレはガキのまんまじゃねぇか…… 


 ふと気が付くと、教室に戻っていた。信子はまだ編み物をしている。哲明は信子の前で止まった。よろよろと立ち上がる。今にも泣きだしそうな顔をしている。

「……聞こえねぇだろうけどよ…… 悪かったよ…… もう遅いかも知れねぇけど……」

 信子は顔を上げない。

「あのよう…… ……オレはずっとこのままなのか?」

 哲明の頬に涙が伝った。

 と、信子が顔を上げた。
 じっと哲明を見つめる。

「……心から反省したようね」

 信子は言った。


 哲明がはっとすると、信子が手に白いハンカチを持って立っていた。
 哲明はまるで夢から覚めたようにぽかんとしている。

「……オレ……」

 声が、自分の声が聞こえている。自分の手を見る。しっかりと見えている。もう透き通ってはいない。

「お前、オレが見えるか? 声が聞こえるか?」

 哲明は信子に言う。信子はうなずいて見せた。

「これからはしっかりする事ね。流した涙を無駄にしないように」

 信子は言うと、ハンカチと編み物をカバンに仕舞い、呆然と立っている哲明を残して教室を出て行った。


「ふふふ…… 『黄泉巡りの房べり』って効き目あるわね。これで彼も大人になるんじゃないかしら?」

 信子は左の口の端が少し上がった笑みを浮かべた。

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