未来は未知だ。何が役立つか、役立たないかは誰もわからない。
将来、その知識・技能を役立てるか、役立てないかは本人次第でしょう。
今の義務教育は児童・生徒の将来にとって役立つとか役立たないとか無関係に、決められた授業を押し付ける。それが、国として義務教育をしているというアリバイ作りだろう。また一律な授業は公平・平等な政策だとされている。実物の「メダカ」を見た人が今何人生存しているのでしょう。メダカの雄雌を見分ける学習は何の役に立つのでしょう。恐竜の話の世界なのかなぁ。
児童・生徒は個性を持っている。好き嫌いがある。それなのに一律の授業課程で児童・生徒を適切に教授することは無理だろう。世の中にはこんな分野もあるんだよ、と提示するのは児童・生徒の視野を広げるために良いと思う。
ある科目に興味を持てば魅惑され、先生以上の知識・能力を独自に取得する人もいる。人は一律ではないということを前提に教育システムを考えてほしい。将棋2冠の藤井聡太さんに義務教育は何を授けたのだろう。
私は「教育は相手に解ってもらうための説明」だと思っている。押しつけではない。理解するのは個人によって異なる。各人が選択し、説明・指導を求めるのが重要だろう。一律に理解を強要するのは人権違反?じゃないの。どっかの国みたいに教育=洗脳?
例えば、算数と数学と算術。何が異なるか分かりますか?
算数は数字を用いた具体的な思考と計算です。面積の計算やケーキをどう分配するかという計算。方程式ではなく鶴亀算(数列)で解を求める。
数学は数字と記号を用いた思考と計算です。算数の数字を記号に置き換え計算式を拡張する。挙句の果てにオイラーの公式など意味を説明できない公式も許容される。
算術は計算のテクニック。九九とか公式の応用とかナンバープレイスとか、計算の技術・速度を磨く。公式を上手く利用するが、算術を極めても、なぜ公式が成立するかは説明できない。義務教育はこれを磨こうとしているか?
具体例がないと実感しにくいし、変数で拡張すれば広く応用が利く。九九のテクニックが無ければ計算に手間取る。3つとも大切な学問だ。
学校で教えてもらってないテクニックを使って回答した人を「誤り」としてほしくない。先生が授けたことだけで世の中が廻っているわけじゃない。知識はいろんなところから吸収していますよ。
小学生の時、未学習の方程式を使って「誤り」と指摘されたそのとき、僕は反骨心を取得した。(これも教育なのか?)