へなちょこ株日誌

早いとこ累損から脱出したいワッ…

曹洞宗 永平寺

2009-06-17 16:49:20 | 今日の一句
道元禅師の寺を歩く―永平寺を中心に、只管打坐の精神が息づく地へ (楽学ブックス―古寺巡礼)

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「一生学べ」永平寺106歳の住職の言葉から
Sunday, 20 January 2008 · 0 Comments · Life

ニュースを読み落としていたので今日まで知らずにいたのですが、年始に曹洞宗大本山永平寺の貫首、宮崎奕保(えきほ)禅師が亡くなられていました。享年106歳。

もう4年近く前、2004年6月12日に放映された NHK スペシャル「永平寺 104歳の禅僧」という番組で、その人となりの一端を見て感動していたのを昨日の事のように思い出し、ユビキタス・キャプチャーしていたそのメモを探し出してきました。

この NHK スペシャルでは永平寺についての説明と、住職の毎日を紹介するとともに、住職の貴重な言葉をいくつも映像で記録していました。 私の家庭はキリスト教ですので仏教についてはまったく不勉強なのですが、番組で禅師が語られていた言葉は思い出すたびに今なお多くの答えや疑問を心の中に引き起こします。番組の雰囲気を伝えるのは不可能かもしれませんが、一番学び、かつ疑問を感じた言葉をメモから写し書きします。


花が咲く事、虫が鳴く事、これらは毎年ほとんど変わりがない。これが法であり、法に従っているということが大自然である。自然はほめられても、ほめられなくても、時がくれば花を咲かせて、やがて去ってゆく。
私には名前があるが(私が属している)永平寺さんと呼ばれたなら、私は「はい」と返事をするだろう。このように環境と私とは一つである。自分のおかれた環境を大事にすることは、自分を大事にすること。そして逆もまた然りなのだ。
心の有り様はすべて外にでる。奇を衒うのが禅なのではなく、スリッパをきちんと脱ぐといった当然のことを黙って実行することが禅である。
「学ぶ」とは「真似る」こと。一日の真似は一日の真似事にすぎない。二日の真似は二日の真似にすぎない。一生続けたなら、それは一生の真似になるだろう。続けるには、死ぬ気でやる事だ。
平気で生きる事、これが一番難しい。「いつ死んでもええ」というのは悟りではない。悟りとは、平気で生きる事。
禅師の言葉は、「当然すべきことを黙って実行せよ」「人生に完成はない。一生学び続けろ」という厳しくも勇気のわいてくるメッセージなのだと私は解釈しています。

ライフハックや自己啓発などは「自分以外の何か」になるためのものと捉えられる事が多いですが、そんなことはそもそも無理なのかもしれないと、これらの言葉を読んでいて感じます。

花なら花を咲かせよ、虫なら音を奏でよ、というのと同じほどに「当然すべきこと」 に気づいていない自分が、少しでもそれに気づくための気付け薬といったほどのものなのかもしれません。

禅師の冥福を心よりお祈りいたします。(NHK スペシャル再放送しないかなあ…)