11/17 歴史散策講座があり現地集合で佐久山実相院に行きました。
この周辺の説明資料をいただき見学
佐久山前堀
佐久山の宿には昔より前に川がなくてすべてにおいて困っていた。
天明7年(1788)佐久山藩主が測量を命じ水揚げ一度失敗して、
再度測量して高すぎる場所があり掘り返して水揚げが出来るようになりました。
明治22年ころからは水の流れはさらに多くなり、
桜町加藤水車、あな水車、林水車、石崎水車等が出来た。
永世13年(1516)白河松林寺八世中守的和尚が実相院として開山した。
四つ脚門(赤門)は元文4年(1739)に建てられ二度の大火にも難を逃れ
昭和51年と平成13年に修復工事がされたとのこと。
本堂奥にある位牌堂を見学させていただきました。
東日本大震災の時位牌堂の中のものは倒れバラバラになってしまったとのこと。
位牌堂は、福原家歴代の位牌、実相院開山依頼の住職の位牌を奥の間に、
その前には檀家の位牌が整然と並んでいる。
赤穂義士の一人である大高源吾の墓、位牌が残されている。
また、義士の一人である小野寺重三(源吾の弟で十内の養子となる)の位牌もあり過去帳にもある。
御殿山公園入口に行き明治天皇佐久山行在所跡碑の説明を聞き
時間が少なくなり御殿山は登らずに次に行きました。
佐久山地区公民館前に行き前堀の続きの話を聞きました。
薬師堂は、延宝7年(1679)佐久山城主福原内匠頭朝臣資清公によって創建された。
佐久山地区公民館の近くにあります。
奥州街道と佐久山宿
江戸幕府により奥州街道が新街道として設定され、慶長9年(1604)頃正街道となった。
コースは大田原、鍋掛、芦野、白坂、白河と今までより内陸に入り、
一里塚を築かせて旅行者の便をはかった。
佐久山の一里塚は若林の喜連川町と大田原市の境にあった。
佐久山宿は、福原氏の知行地である。福原氏は3500石の旗本で交代寄合、
大名に準じて知行地に常駐して江戸に参勤交代した。
宿の延長は10町12間(1112m)この区間に宿があった。
参勤交代制による大名行列は、文化に栄え、花の佐久山と歌われ、
宿場は今日では想像もつかない程の賑やかさであったろう。
解散後に御殿山公園の紅葉を見に行きました。
上に登ると稲荷神社があるのですが今回は登りませんでした。
文治3年(1187)那須資隆の次男泰隆が築城し、子孫の佐久山義隆は滅ぼされ廃城になった。
その後福原氏が居住し、明治2年版籍奉還するまで続きました。
お抹茶席今年はいただくのが有料になり入場することが出来ました。
抹茶席の舞台で小学生の雅楽演奏があり聞きました。
小学校の体育館で作品展示があり見てきました。
おりがみ作品とJtrim額縁 まとめてHPにUPしてます。