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日独伊ソ四国同盟によって枢軸側が勝利した可能性はあるか

2015-12-05 21:18:52 | 日記

日独伊三国同盟と日米関係(義井博、1987年)

日独伊三国同盟にソ連が加盟していれば、第二次世界大戦の帰趨に大きな影響を与えていたことは間違いないだろう。

ドイツのリッベントロップ外相はソ連と提携してイギリスに対抗するユーラシア大同盟構想を持っていた。イタリア外相であったチアノの日記によれば、英独親善関係樹立を目的として駐英大使に任命されたがその使命を果たすことができなかったリッベントロップはイギリスに対して「失恋した恋人に対する女性の感情」を持っていた。

日本でも独ソ接近と1939年8月の独ソ不可侵条約締結を機に日独伊ソ四国同盟構想が生まれた。
近衛家史料の中に残された1939年7月19日起草の「事変を迅速且つ有利に終息せしむべき方法」との文書の中では、日独伊ソの締盟は英ソの支援により命脈を保っている蒋介石政権の抗日戦意を挫き、事変解決に至る最後の決定力になりうるとの考え方が示されている。また、独ソ不可侵条約締結直後、海軍省調査課長であった高木惣吉は「対外諸政策の利害得失」について「日独伊蘇との連合提携は蘇をして援蒋を打ち切らしめ本事変を速かに解決し得るに至る望み大」であって「独伊蘇との連合政策は帝国の当面並びに近き将来に亘り執るべき最も有利なる策」であるとまとめている。1940年夏に日独提携の機運が再度高まるまでの間、外務省や陸軍の中でも四国連携によってアングロサクソン民族に対処すべきだとの議論が行われていた。

ドイツは日独伊三国同盟締結交渉の中で積極的にソ連との提携の可能性を持ち出した。1940年9月10日、千駄ヶ谷の松岡外相宅で行われた二日目の交渉においてスターマーは「先ず日独伊三国間の約定を成立せしめ、然る後、直ちにソ連に接近するに如かず。日ソ親善に付きドイツは正直なる仲買人たるの用意あり。而して両国接近の途上に超ゆべからざる障害ありとは覚えず。従ってさしたる困難なく解決し得べきかと思料す。英国側の宣伝に反し独ソ関係は良好にしてソ連はドイツとの約束を満足に履行しつつあり」と述べている。
陸海軍も四国同盟には積極的であった。豊田海軍次官は「ソ連を同盟に入れる」ことを三国同盟に賛成する条件としていた。9月14日の大本営政府連絡会議において澤田参謀次長も「日独伊ソ四国提携の必要と自動的参戦不可の二点」を統帥部の条件として強調した。

外務省は三国同盟締結を受けて10月3日に「日・独・伊三国はソ連をして世界における新秩序建設に協力せしむ。同盟が同一ベーシスにおいてソ連を加えたる四国同盟に発展することを辞せず」との「日蘇国交調整要綱案」を作成した。また、日本は四国同盟への期待をドイツ側に伝えていた。11月11日付のオット駐日大使からベルリンへの報告によれば、大橋外務次官が日ソ不可侵条約の締結、ソ連の蒋介石政権援助の中止、日華和平の三点について、ドイツの「対ソ影響力」行使を求めている。

リッベントロップは10月13日付の書簡でモロトフ外相のベルリン訪問を要請したが、その書簡の中ではベルリン会談後のモスクワでの日独伊ソ四国会談開催も検討課題として示唆されていた。モロトフがベルリンを訪問した11月12日と13日に4回にわたる独ソ会談が実施され、11月13日の第4回会談ではドイツの四国同盟提案、いわゆるリッベントロップ腹案がソ連に提示されている。
リッベントロップ腹案は「ソ連は三国同盟の目的に同調することを宣言し、かつ、この目的達成のために三国と政治的に協力する」「四国中の一国に敵対して結成された他の諸国間の結合協定には参加せず、かつ、これを支持しない」との条約本文のほか、秘密議定書として世界新秩序における各国の勢力圏の取り決めが付され、ドイツは中部アフリカ、イタリアは北部および東北部アフリカ、日本は東南アジア、ソ連は南方インド洋方面を勢力圏とすることになっていた。

ソ連はリッベントロップ提案に対して11月25日に、ドイツ軍のフィンランドからの即時撤退、ボスフォラス・ダーダネルス海峡への基地設置、ペルシア湾に至る全地域をソ連の勢力圏に含めること、日本の北樺太における石炭石油採掘権の放棄などの「条件のもとで受諾する用意がある」との回答を行った。

日独伊ソ四国同盟構想はドイツのリッベントロップが推進し、スターリンと日本政府も賛意を示していた。だが、ソ連に対して強い敵意を持つヒトラーは独ソ不可侵条約締結後のソ連の動きに不信感を強めていた。11月のベルリン会談でモロトフがフィンランドからのドイツの撤退やバルカンにおけるソ連の利権を強硬に主張したことは、さらにヒトラーの心証を害する結果となった。ヒトラーはソ連の要求を受け入れることはできないと決断し、12月18日のバルバロッサ作戦発令に至った。

ヒトラーのいない世界であれば日独伊ソ四国同盟の成立可能性は十分にあった。そして、日独伊ソ四国同盟が締結されれば、ドイツはソ連からの物資供給を受けつつ対英戦に専念することができただろう。そして、日本も四国同盟を背景に強気で対米交渉を進め、アメリカの対日制裁政策にもある程度の対抗は可能だっただろう。だが、ヒトラーにとってスラブ民族は劣等民族であり、共産主義はユダヤ人の陰謀の一環であった。独裁者ヒトラーが存在する限り、日独伊ソ四国同盟の締結は困難であり、仮に締結されたとしても長期にわたって維持することはできなかっただろう。

枢軸側が勝利する可能性を潰したのはヒトラー自身だった。

「バスに乗り遅れるな」

2015-12-05 14:38:21 | 日記

日独伊三国同盟の研究(三宅正樹、1975年)

日独伊三国同盟の締結(1940年9月)はドイツが西部戦線の電撃戦で圧勝し欧州大陸を席巻した直後に行われた。

日本側はドイツの仲介によって日ソ外交を調整し、日独伊ソ四国連合を形成してアメリカを牽制しようとした。欧州戦争でフランスやオランダが降伏しイギリスも苦戦している状況下、それまでのアジア植民地体制には亀裂が入り、権力の空白が生まれようとしていた。日本はアメリカを牽制した上で西欧列強の支配下にあったアジアに大きな抵抗を受けることなく進出しようとしたのだ。

リッベントロップ外相の特使としてスターマーが来日するにあたり、日本側は1940年9月6日の四相会議にて「日本および独伊両国はソ連との平和を維持し、かつソ連との政策を両者共通の立場に副わしむる如く利導することに協力す」「日本および独伊両国は米国をして西半球及び米国の領地以外の方面に容喙せしめざると共に之に対し両者の政治的および経済的利益を擁護するため相互に協力す。また、その一方が米国と戦争状態に入れる場合には他の一方はあらゆる方法をもって之を援助す」との対応方針を策定した。また、大東亜新秩序建設のための日本の生存権として「日満支を根幹とし、旧独領委任統治諸島、仏領印度および同太平洋諸島、泰国、英領馬来、英領ボルネオ、蘭領東印度、ビルマ、(豪州、新西蘭)竝印度等」を承認尊重させることとした。ドイツが対英米軍事的協力を希望してきた場合には応諾する用意はあるものの、対英米武力行使すなわち参戦については自主的に決定することを了解させることとした。

松岡外相は四相会議の中で「三国同盟締結以外に難局打開の方策なきことを強調説明した」。松岡は対米戦争を回避するためには力対力の対決姿勢が必要であると確信していた。それまで三国同盟締結に慎重な態度を取っていた海軍も、9月5日に吉田海相が病気を理由に辞任し、その翌日9月6日の四相会議に参加した及川新海相が「暫く沈思の末、下僚の意見を徴することもなく、国務大臣としての自己の責任において即座に同意を表し」ている。

ドイツの意図は、アメリカの参戦を防止するための材料として日本を利用することだった。

スターマーは8月23日にベルリンを出発、9月7日に東京に到着した。9月9日に千駄ヶ谷の松岡外相私邸にて交渉が開始されたが、松岡・スターマー間では同日中に早くも三国同盟条約を締結するとの方針で合意が行われている。9月10日に松岡がスターマーに渡した条約試案は、日本が独伊の欧州における新秩序建設に関する指導的地位を認め、独伊が日本の大東亜における新秩序建設に関する指導的地位を認め、「日独伊は前記の方針に基づき相互に協力することを約束し、それぞれの目的を達成するための障害を除去し乗り越えるための適切かつ効果的な方法について協議する」こととなっていた。

この条約試案に対し、ドイツ側はアメリカを牽制するという目的を達成するために同盟国の義務を強めた案文を提示した。9月11日にドイツは「三国のうちの一国が現在の欧州戦争又は日支事変に参入していない一国によって攻撃されたときには、あらゆる政治的、経済的、軍事的方法によって相互に援助する」との文言を追加した。ドイツは「日独伊三国で合意が行われた後にソ連に話を持ちかけ、日ソ間の調整に善意の仲買人としての役割をはたす用意がある」とも言明し、日本側を条約締結に向けて誘導しようとした。

同盟交渉の過程で最大の争点となったのは、条約本文ではなく、交換公文3通の取り扱いだった。
同盟国の義務が加重されたことに対して、日本は交換公文でその義務に歯止めをかけようとした。日本側は「締結国の一国または数国が(公然とまたは陰密に)攻撃を受けたりや否やは関係各国政府により決定せらるべく右攻撃を受けたる事実が確認せられたる場合において締結国の執るべき政治的、経済的及び軍事的の相互援助の措置は前述の委員会において之を審議し関係各国政府に勧告してその承認を経べきものとす」との規定をあわせて合意すべきと主張した。日本側は参戦の自主的決定権を担保しようとしたのだ。スターマーとオットは自分たちの意見からもリッベントロップ外相の訓令からしてもこれらの交換公文は到底受け入れられないと反論していたが、9月24日になって唐突な形で受け入れるに至っている。戦後、これらの交換公文がドイツ外務省外交文書集に含まれていないことが判明した。スターマーとオットがベルリンには連絡せず、現地限りの独断で交換公文を取り交わしたと考えられている。

日本とドイツには「アメリカに対抗する」という一点で抽象的な共通利害があった。だが、具体的にどのような方法で共同してアメリカに対抗していくのかという具体策は練り上げられなかった。ソ連を含めた日独伊ソ連合案は「我が闘争」以来のヒトラーの信念の前に葬られていった。1940年12月にヒトラーが独ソ開戦を指示した後も、日本はなお四国連合に関するリッベントロップ腹案に基づいた外交を進めた。日本は同盟締結後刻々と移り変わる国際情勢情報の入手と分析ができなかった。

日本は相手国のドイツが日本の利益を配慮して行動してくれるような錯覚に陥った。だが、日本が主導権をもってドイツを動かしていくことができない以上、それは錯覚に過ぎなかった。

ドイツの勝利を前提とした国策は日本を破滅に追い込んでいった。

国運を決めた戦場の原理:作戦要務令

2015-11-29 18:08:02 | 日記

昭和期の陸軍幕僚による陸軍戦術教範(1938年)。陣中要務令(1924年)と戦闘綱要(1929年)を統合して作成された。

人間は思想によって行動する。権力者の著書や愛読書はその思想と行動原理を明らかにする。
陸軍軍人の思想と行動の背景には幼年学校・士官学校で徹底的に覚えこんだ軍事戦術の論理がある。

作戦要務令は、軍隊が敵の殲滅と戦勝を目的としてすべてを決定すべきであるとの記載から始まる。
「第一 軍の主とする所は戦闘なり。故に百事皆戦闘を以て基準とすべし。而して戦闘一般の目的は敵を圧倒殲滅して迅速に戦捷を獲得するに在り。」

訓練、必勝の信念、軍紀、攻撃精神を徹底することによって物質的な威力を凌駕し得ると綱領は続く。
「第二 戦捷の要は有形無形の各種戦闘要素を綜合して敵に優る威力を要点に集中発揮せしむるに在り。訓練精到にして必勝の信念堅く軍紀至厳にして攻撃精神充溢せる軍隊は能く物質的威力を凌駕して戦捷を全うし得るものとす。」
「第三 必勝の信念は主として軍の光輝ある歴史に根源し、周到なる訓練を以てこれを培養し、卓越なる指揮統帥をもってこれを充実す。・・・」
「第六 軍隊は常に攻撃精神充溢し志気旺盛ならずるべからず。・・・勝敗の数は必ずしも兵力の多寡に依らず。精練にして且つ攻撃精神に富める軍隊はよく寡を以て衆を破ることを得るものなればなり。」
「第七 協同一致は戦闘の目的を達するため極めて重要なり。・・・諸兵種の共同は歩兵をしてその目的を達せしむるを主眼とし、これを行うを本義とす。」

また、軍紀とは指揮官に対する絶対服従であると規定する。
「第四 ・・・軍紀の要素は服従に在り。全軍の将兵をして身命を君国に献げ至誠上長に服従し、その命令を確守するを以て第二の天性となさしむるを要す。」

指揮官は上官の意図を明察し大局を判断して、独断専行によって戦勝を実現しなければならない。
「第五 凡そ兵戦の事たる独断を要するもの頗る多し。而して独断はその精神においては決して決して服従と相反するものにあらず。常に上官の意図を明察し、大局を判断して状況の変化に応じ自らその目的を達し得べき最良の方法を選び、以て機宜を制せざるべからず。」
「第九 敵の意表に出ずるは機を制し勝を得る要道なり。故に旺盛なる企図心と追随を許さざる創意と神速なる機動とを以て敵に臨み常に主動の位置に立ち、全軍相戒めて厳に我が軍の企図を秘匿し、困難なる地形及び天候をも克服し、疾風迅雷敵をしてこれに対応するの策なからしむること緊要なり。」
「第十一 ・・・固より妄りに展則に乖くべからず、またこれに拘泥して実効を誤るべからず。宜しく工夫を積み創意に勉め以て千差万別の状況に処しこれを活用すべし。」

物資の欠乏は避けられないため、欠乏に耐えて戦勝に邁進することを求める。
「第八 戦闘は輓近著しく複雑靱強の性質を帯び、且つ資材の充実、補給の円滑は必ずしも常にこれを望むべからず。故に軍隊は堅忍不抜よく刻苦欠乏に耐え、難局を打開し、戦捷の一途に邁進するを要す。」

そして、為さざると遅疑するは指揮官の最も戒めるところであるとした。
「第十 指揮官は軍隊指揮の中枢にして、また団結の確信なり。故に常時熾烈なる責任観念及び鞏固なる意志を以てその職責を遂行すると共に高邁なる徳性を備え部下と苦楽を倶にし率先躬行軍隊の儀表としてその尊信を受け剣電弾雨の間に立ち勇猛沈着部下をして仰ぎて富嶽の重きを感ぜしめざるべからず。為さざると遅疑するとは指揮官の最も戒むべき所とす。是この両者の軍隊を危殆に陥らしむること其の方法を誤るよりも更に甚だしきものあればなり。」

独断専行、必勝の信念、「為さざると遅疑」の回避は陸軍の信条だった。

陸軍は統帥権独立の下で政府を圧倒する実力を有していた。このため、作戦要務令における陸軍の行動原理は軍事面に現れるだけではなく、政治行動の思想的な背景ともなった。
陸軍将校は幼年学校、士官学校を通じて軍人の行動原理を叩き込まれた。そして、陸軍が国政に大きな影響を与えるようになり、さらに国政を事実上支配するようになったとき、陸軍幕僚の行動原理、すなわち作戦要務令の思想は国政にも拡大適用され、昭和期の日本を動かした。昭和天皇の意図に明確な反する作戦も、自分たちの頭の中で作り上げた「天皇」の意図に合致していれば実行すべきと考えた。百時皆戦闘を以て基準とした結果、国政も戦闘に勝つことがすべての基準となった。「為さざると遅疑」ではなく、自国に有利なタイミングで戦争を始めるべきであるとの考え方が強まった。そして、客観的な物量差、兵力の多寡よりも必勝の信念が優先された。

戦場の指揮官であれば、機をとらえた独断専行、「為さざると遅疑する」ことなく必勝の信念にて戦闘することは当然のことだ。
だが、国運を懸けた決断の場に、独断専行、「為さざると遅疑する」の回避、必勝の信念を持ち込めば、客観的な判断はできなくなる。

陸軍部内では、陸軍の論理に忠実であることが組織の中で生き残るために必要だった。
陸軍が日本を支配した結果、戦場の原理であったはずの「作戦要務令」が国運を決めることとなった。

ボトムアップを続けている限り組織の内部圧力による既定方針は変えられない

2015-11-28 15:18:25 | 日記

機密戦争日誌(大本営陸軍部戦争指導班)

大本営陸軍部第二十班(戦争指導班)の1940年6月1日から1945年8月1日までの業務日誌。種村佐孝・原四郎・野尻徳雄・田中敬二・甲谷悦雄・橋本正勝の6名が交替で担当して記述している。

戦争指導班は大本営政府連絡会議(大本営政府連絡懇談会)や最高戦争指導会議に提出する議案の作成と信義に参画し、陸海軍省、軍令部、外務省などとの折衝を通じて国策の決定に関与していた。戦争指導班が作戦課、陸軍省軍務課などと折衝して出来上がった陸軍案は、海軍の戦争指導班に相当する軍令部の「第一部長直属部員」との協議に付される。次に、陸海軍事務当局間で合議した議案は、陸海軍部局長会議(両軍務局長、両作戦部長)にかけられ、この間、外務省や企画院などとも調整がなされる。以上の手続を経た上で参謀総長、軍令部総長、陸海軍大臣の合意案、すなわち陸海軍部案が決定される。この決定案が大本営政府連絡会議に上程されていく。

1941年9月6日に御前会議で決定された帝国国策遂行要領は日本を対米戦争に引き込んでいくこととなった。
1.帝国は自存自衛を全うするため、対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す。
2.帝国は右に並行して米、英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に務む。
3.前号外交交渉により10月上旬頃に至るもなお我が要求を貫徹し得る目途なき場合においては直ちに対米(英、蘭)開戦を決意す。

機密戦争日誌には陸軍側からみた9月6日の御前会議決定にいたるプロセスが詳述されている。

1941年6月22日の独ソ開戦を受けて、7月2日の御前会議では「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」として「密かに対ソ戦武力的準備を整え」「独ソ戦争の推移帝国のため有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」ることが国策として決定された。陸軍は「関特演」として動員を進め、関東軍の下に大兵力を集結させて対ソ戦を準備した。8月2日には関東軍から「ソ連側無線封止に対し敵の大挙来襲ある時は中央に連絡するも好機を失する時は独断進攻すべきことあるを予期す。予め承認を乞う」との要請があり、参謀総長からは「国境内に反撃を止むることを原則とす。中央は関東軍が慎重なる行動を執るべきを期待しあり」との回答を行っている。陸軍は8月3日に応戦反撃を目的とするソ連領土への進攻について海相・外相と協議を行っているが、その同意を得られず、陸軍側が憤激して「陸軍は陸軍で勝手にやる、単独上奏大命を仰げば可なりとて話を打ち切る」結果となった。8月4日の連絡会議では「内外の情勢我が方に有利となるに非ざればソ連に対する武力行使を行わず」との決定が行われたが、一方で8月6日の連絡会議では「紛争発生するも日ソ開戦に至らざる如く努めて之を局部的に防止する」という条件付きではあるものの「ソ側の真面目なる進攻に対しては防衛上機を失せず之に応戦す」ることも決められている。陸軍中央では「年内対ソ武力解決は行わざるを建前とする」(8月9日)ことにしていたが、日ソ戦は前線の何らかの偶発的なきっかけや謀略により発生しかねない状況にあった。

一方、日本軍の南部仏印進駐に対して8月1日にアメリカが石油の全面禁輸を決定したことは「米はせざるべしと判断す、何時かは来るべし、その時期は今明年早々にはあらずと判断」していた陸軍にとって予想外の事態だった。石油禁輸を受けて、陸軍では対米開戦必須との空気が強まった。陸軍は対ソ戦に反対するだけでなく対米英戦を決断できない海軍の姿勢に対し「南方を断乎やる、従ってこの際北方には事を構えざるを可とすの理念ならば同意す、決まりもせず北を抑えるが如きは女々しき限りなり」と非難を続けていた。

8月16日、陸海部局長会議の席上で海軍から陸軍に対して「10月中旬に至るも外交打開の途なければ実力発動す」と明言した帝国国策遂行方針が提示された。参謀本部では戦争指導班が「9月中旬に至るもN(野村駐米大使外交工作)及び英外交打開せざれば決意す」修正案を起草(17日)、田中第一部長が強硬に即時決意を主張したため「即時決意」に修正した上で(18日)、部内部長、作戦課長、総長、次長の承認を取り付けた(19日)。同日午後、参謀本部案が陸軍省に提示された。陸軍省側は「即時決意」ではなく「決意せずして戦争準備を完整せんとする」内容の対案を参謀本部に提示(21日)、参謀本部では部長会議を2日連続で実施し陸軍省案を修正し対米英戦決意を含む内容にて参謀本部案を決定している(22日~23日)。そして、この参謀本部案は参謀本部(第一部長)・陸軍省(軍務局長)会談にて陸軍省の大体の同意を得た上で、陸海部局長会議(27日)で海軍側と協議されることになった。

だが、27日の陸海部局長会議では国策案はまとまらなかった。海軍側の岡軍務局長は「決意に絶対不同意、N工作不成立の場合においてもなお欧州情勢をみて開戦を決すという、即ち徹頭徹尾決意なし」、「決意してを決意の下にと修文」しても岡局長が受け付けなかったからだ。翌日、岡局長は最終的に第1項の決意については「戦争を辞せざる決意」との表現で同意したが、第3項は「開戦決意の時期は9月下旬は困る、10月中旬とすべし」と修正を主張し続けた(28日)。陸軍参謀本部側では第一部長が「政変等により国策を絶対に変更せざる」前提の下に「開戦決意の時期遅くとも10月上旬決意とともにN工作打ち切る」方針であれば承認する方針としている。30日には陸海部局長会議が再度開催され、遂に陸軍と海軍は部局長レベルで帝国国策遂行要領の原案に合意した。9月1日、陸海部局長会議の合意案について参謀本部総長の同意を取り、さらに岡局長からの再修正意見について9月2日に陸海部局長会議で議論した上で陸海軍部案が最終決定された。9月3日の大本営政府連絡会議では及川海相からの意見により「我が要求を貫徹し得ざる場合は直ちに開戦を決意す」が「我が要求貫徹の目途なき場合は直ちに開戦を決意す」に修正され、この連絡会議の決定内容が国策として9月6日の御前会議にて承認されている。

機密戦争日誌は「海軍特に海軍首脳部の無節操言語道断なり、女のごとき根性断乎排撃の要あり」「修文は本案の骨子、扇の要たるべき個所なり、之により本案は骨抜きとも見るべし」と口を極めて海軍を非難している。
確かに、帝国国策遂行要領の表現振りは「戦争を辞せざる決意の下に」「10月上旬頃に至るも」「我が要求を貫徹し得る目途なき場合は」開戦を決意する、とかなり柔らかくなった。だが、この3か月後に日本が対米開戦に追い込まれていったように、結果からみれば陸軍省、そして海軍側の文章修正の努力は大局的には意味がほとんどなかったともいえるだろう。

国運を賭けての最高意思決定は通常の官庁間の合議プロセスと霞ヶ関文学で決定された。

ボトムアップを続けている限り組織の内部圧力による既定方針は変えられない。本当に開戦を阻止しようとするのであれば、平時のボトムアップ方式でなく、政府上層部あるいは軍上層部が既存の組織から離れた直属組織を作って直接その意思を起案させ、トップダウンで指示を行わなけれならなかった。だが、テロの恐怖の中で、トップダウンによって陸軍の主張を覆そうとする者は誰もいなかった。トップダウンの責任を実際に背負った者はテロを恐れる必要のない昭和天皇だけだったが、昭和天皇が東條内閣に対してトップダウンで行った「白紙還元の御諚」も各組織に下され、ボトムアップ過程に晒され、「再検討」の上で対米開戦の既定路線を再確認する結果にしかならなかった。

日本型組織はボトムアップで競争上の優位に立つ。ボトムアップは組織の活力を生み出し、現場本位の決定を行うことができる。日常のほとんどすべての問題と課題は戦術レベルの決定で対応できる。したがって、日本型組織もほとんどすべてのケースで正しく対応することができる。現場を知らないトップダウンの決定はむしろ平時には有害なことが多い。だが、ボトムアップ方式の優位性は戦術レベルの決定に限られる。戦略レベルの決定をボトムアップで行おうとしても既得権益と既存の利害関係の制約を受けて最適解にたどりつくことは難しいだろう。

平時におけるボトムアップでの成功体験が非常時対応に失敗する誘因となった。

性善説に基づく日本的組織で統制が崩れると何が起きるか

2015-11-23 21:39:14 | 日記

太平洋戦争と日本軍部(野村実、1983年)

1940年9月に締結された日独伊三国同盟が日本を対米戦に引きずり込んだ直接原因とすると、三国同盟に至る道を作る端緒となったのは1936年11月の日独防共協定であった。

日独防共協定は正規の外交ルートを通さずに交渉が開始された。日本側は駐独陸軍武官の大島浩が交渉担当者であり、ドイツ側は条約調印に至るまで外相ノイラートではなくヒトラーの私的外交顧問であったリッベントロップが担当した。大島は純粋の軍事協定であれば陸軍武官が任国と交渉して締結することができ、逆に大使の関与は許されないと考えていた。陸軍の内規では陸軍武官は「当該駐箚国における外交団に列し」「外交上特に関係を有する行動については大公使の監督を受く」ことになっていた。陸軍武官は大使を報告すべき上司として考えていなかった。
日独の当事者は、ソ連とコミンテルンに反対する各国、特にイギリスが防共協定に参加することを望んでいた。だが、イギリスは日独との協定に前向きではなく、最終的に日独防共協定に追加参加したのはエチオピア問題でイギリスと対立を深めていたイタリアだった。チアノ外相は日独伊防共協定を「理論的にはコミンテルンに対抗するものであるが、事実は疑いもなくイギリスに向けられたものである」と書いている。

1938年2月にリッベントロップが外務大臣に就任し、日独間の同盟交渉が開始された。ここでもリッベントロップと大島が日独調整の中心となった。10月に駐独大使となった大島は日本政府の訓令よりもむしろドイツ側の主張に沿って条約締結交渉を続けた。だが、1939年8月の独ソ不可侵条約によって対ソ同盟という条約締結の前提が崩れ、条約交渉は終了した。同盟交渉の失敗後に大島は帰国することとなったが、陸軍とリッベントロップの関係は続く。これまでの対ソ同盟という発想をひっくり返し、独ソ不可侵条約を利用して日独伊とソ連によるユーラシア同盟を推進しようとする動きが生まれたのだ。そして、1940年9月に日独伊三国同盟が締結されるに至った。

満州事変から日米開戦までの約10年間に日本では若槻・犬養・斎藤・岡田・広田・林・第一次近衛・平沼・阿部・米内・第二次近衛・第三次近衛・東條と13の内閣が交替し、外務大臣は首相の兼任を除外しても14代、陸軍大臣は10代、海軍大臣は9代を数えた。全期間にわたって当事者の立場にあったのは昭和天皇ひとりだけであったが、天皇は立憲君主制の立場から具体的な事案に対する決定権の行使を避けていた。

一方、ドイツ側の当事者は独裁者ヒトラーとリッベントロップで変わらなかった。リッベントロップのカウンターパートであった大島も、日独防共協定、第一次同盟交渉に駐独陸軍武官、駐独大使として関与し、さらに1940年12月には再び駐独大使となった。

アメリカ政府も1933年以降、ルーズヴェルトが大統領であり、ハルが国務長官として外交政策を統括していた。フーバーの下で国務長官を務めていたスチムソンが1940年7月に陸軍長官に就任しているように、アメリカ外交の当事者は変わらなかった。アメリカの極東政策は1932年にスチムソンドクトリンとして打ち出された満州事変に対する「不承認原則」、1937年の支那事変に際してハル国務長官が発表した武力不行使、内政不干渉、条約順守を骨子とする「国際問題の基本原則」、そして1941年11月のハルノートに至るまで、基本理念は一貫していた。アメリカは原理原則に基づく極東政策を続けた。

支那事変を受けてアメリカは対日制裁を強めていく。
1938年6月、アメリカ政府は航空機・航空機部品などの製造業者と輸出業者に対して、一般民間人を殺傷するために使用される地域に向けて輸出を行わない「道義的禁輸」を要請した。1938年11月に第一次近衛内閣が発表した東亜新秩序声明は既存の国際秩序と9ヵ国条約に対する公然たる否定として受け取られ、アメリカをさらに硬化させた。1939年9月に欧州戦争が起きるとアメリカは道義的禁輸の範囲を拡大し、9月26日にはゴムなどの原料、12月にはアルミニウムをその対象に加えた。
アメリカが日本に対して制裁措置を道義的金融のレベルにとどめていたのは、日米通商航海条約が両国に最恵国待遇を与え、第三国よりも厳しい輸出入規制を行えないと規定していたためだった。1939年7月にアメリカは条約廃棄の意思を日本に伝え、6か月の猶予期間を経て1940年1月に条約が失効したため条約による制約はなくなり、アメリカは対日制裁を自由に行えるようになった。

1940年5月にドイツが西部戦線の電撃戦に成功し、フランスが降伏しイギリスが国家存立の危機に陥ると、7月にアメリカは「国防強化促進法」を制定し、大統領が国防上必要と認める場合には、あらゆる兵器・軍需品とその部品や製造機器、原料の輸出を禁止または削減できることとなった。すべての兵器・軍需品・戦争器材、アルミニウム・マグネシウムを含むすべての原料、航空機部品などが輸出許可制とされた。当初は日本が最も必要としていた屑鉄と石油だけは輸出許可制の対象から外されていたが、ドイツ志向の強い第二次近衛内閣が成立すると石油と屑鉄も輸出許可制の対象に追加され、さらに日本軍が北部仏印に進駐し日独伊三国同盟の締結が確実となった9月26日には屑鉄の輸出統制が決定され、鉄鋼と屑鉄の対日輸出は全面的に停止した。

1941年7月、日本軍の南部仏印進駐は最後の戦略物資として残っていた石油禁輸の引き金となった。上陸前の7月25日にアメリカ政府は在米日本資産を凍結し、8月1日には石油の輸出統制が発表された。石油禁輸が実施された結果、日本は対米開戦への道を進んでいくこととなった。

満州事変から日米開戦に至る期間、五・一五事件、二・二六事件と政界最上層部に対するテロが繰り返され、日本の首相の平均在任期間は1年にも満たなかった。これに対して全体主義のドイツやソ連はもちろん、アメリカも指導者は不変だった。
日本では政府と軍幹部の統制が弱まって幕僚の下剋上が起き、性善説で作り上げられていた日本的組織を引きずり回した。そして、ドイツも統制を失った日本政府に付け込み、自国の都合に基づいて日本政府を動かそうとした。

統制を失った政府は幕僚の下剋上と権力欲で動かされ、最後に残された道は日米開戦だった。