日独伊三国同盟と日米関係(義井博、1987年)
日独伊三国同盟にソ連が加盟していれば、第二次世界大戦の帰趨に大きな影響を与えていたことは間違いないだろう。
ドイツのリッベントロップ外相はソ連と提携してイギリスに対抗するユーラシア大同盟構想を持っていた。イタリア外相であったチアノの日記によれば、英独親善関係樹立を目的として駐英大使に任命されたがその使命を果たすことができなかったリッベントロップはイギリスに対して「失恋した恋人に対する女性の感情」を持っていた。
日本でも独ソ接近と1939年8月の独ソ不可侵条約締結を機に日独伊ソ四国同盟構想が生まれた。
近衛家史料の中に残された1939年7月19日起草の「事変を迅速且つ有利に終息せしむべき方法」との文書の中では、日独伊ソの締盟は英ソの支援により命脈を保っている蒋介石政権の抗日戦意を挫き、事変解決に至る最後の決定力になりうるとの考え方が示されている。また、独ソ不可侵条約締結直後、海軍省調査課長であった高木惣吉は「対外諸政策の利害得失」について「日独伊蘇との連合提携は蘇をして援蒋を打ち切らしめ本事変を速かに解決し得るに至る望み大」であって「独伊蘇との連合政策は帝国の当面並びに近き将来に亘り執るべき最も有利なる策」であるとまとめている。1940年夏に日独提携の機運が再度高まるまでの間、外務省や陸軍の中でも四国連携によってアングロサクソン民族に対処すべきだとの議論が行われていた。
ドイツは日独伊三国同盟締結交渉の中で積極的にソ連との提携の可能性を持ち出した。1940年9月10日、千駄ヶ谷の松岡外相宅で行われた二日目の交渉においてスターマーは「先ず日独伊三国間の約定を成立せしめ、然る後、直ちにソ連に接近するに如かず。日ソ親善に付きドイツは正直なる仲買人たるの用意あり。而して両国接近の途上に超ゆべからざる障害ありとは覚えず。従ってさしたる困難なく解決し得べきかと思料す。英国側の宣伝に反し独ソ関係は良好にしてソ連はドイツとの約束を満足に履行しつつあり」と述べている。
陸海軍も四国同盟には積極的であった。豊田海軍次官は「ソ連を同盟に入れる」ことを三国同盟に賛成する条件としていた。9月14日の大本営政府連絡会議において澤田参謀次長も「日独伊ソ四国提携の必要と自動的参戦不可の二点」を統帥部の条件として強調した。
外務省は三国同盟締結を受けて10月3日に「日・独・伊三国はソ連をして世界における新秩序建設に協力せしむ。同盟が同一ベーシスにおいてソ連を加えたる四国同盟に発展することを辞せず」との「日蘇国交調整要綱案」を作成した。また、日本は四国同盟への期待をドイツ側に伝えていた。11月11日付のオット駐日大使からベルリンへの報告によれば、大橋外務次官が日ソ不可侵条約の締結、ソ連の蒋介石政権援助の中止、日華和平の三点について、ドイツの「対ソ影響力」行使を求めている。
リッベントロップは10月13日付の書簡でモロトフ外相のベルリン訪問を要請したが、その書簡の中ではベルリン会談後のモスクワでの日独伊ソ四国会談開催も検討課題として示唆されていた。モロトフがベルリンを訪問した11月12日と13日に4回にわたる独ソ会談が実施され、11月13日の第4回会談ではドイツの四国同盟提案、いわゆるリッベントロップ腹案がソ連に提示されている。
リッベントロップ腹案は「ソ連は三国同盟の目的に同調することを宣言し、かつ、この目的達成のために三国と政治的に協力する」「四国中の一国に敵対して結成された他の諸国間の結合協定には参加せず、かつ、これを支持しない」との条約本文のほか、秘密議定書として世界新秩序における各国の勢力圏の取り決めが付され、ドイツは中部アフリカ、イタリアは北部および東北部アフリカ、日本は東南アジア、ソ連は南方インド洋方面を勢力圏とすることになっていた。
ソ連はリッベントロップ提案に対して11月25日に、ドイツ軍のフィンランドからの即時撤退、ボスフォラス・ダーダネルス海峡への基地設置、ペルシア湾に至る全地域をソ連の勢力圏に含めること、日本の北樺太における石炭石油採掘権の放棄などの「条件のもとで受諾する用意がある」との回答を行った。
日独伊ソ四国同盟構想はドイツのリッベントロップが推進し、スターリンと日本政府も賛意を示していた。だが、ソ連に対して強い敵意を持つヒトラーは独ソ不可侵条約締結後のソ連の動きに不信感を強めていた。11月のベルリン会談でモロトフがフィンランドからのドイツの撤退やバルカンにおけるソ連の利権を強硬に主張したことは、さらにヒトラーの心証を害する結果となった。ヒトラーはソ連の要求を受け入れることはできないと決断し、12月18日のバルバロッサ作戦発令に至った。
ヒトラーのいない世界であれば日独伊ソ四国同盟の成立可能性は十分にあった。そして、日独伊ソ四国同盟が締結されれば、ドイツはソ連からの物資供給を受けつつ対英戦に専念することができただろう。そして、日本も四国同盟を背景に強気で対米交渉を進め、アメリカの対日制裁政策にもある程度の対抗は可能だっただろう。だが、ヒトラーにとってスラブ民族は劣等民族であり、共産主義はユダヤ人の陰謀の一環であった。独裁者ヒトラーが存在する限り、日独伊ソ四国同盟の締結は困難であり、仮に締結されたとしても長期にわたって維持することはできなかっただろう。
枢軸側が勝利する可能性を潰したのはヒトラー自身だった。