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対ソ戦回避の取引材料として使われた南部仏印進駐が対米英戦の直接原因となった

2015-12-20 18:45:56 | 日記

大本営海軍部・大東亜戦争開戦経緯(防衛庁防衛研修所戦史部、1979年)

1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、日本軍は援蒋ルートの封鎖を狙い、9月に北部仏印に進駐した。当時のイギリスは対独戦で手一杯の状況にあり、北部仏印進駐に対する英米の反発は弱かった。この経験もあり、陸海軍は南部仏印にも大きな軋轢なく進駐できるのではないかと考えるようになった。

1941年4月に南方視察を行った前田軍令部第三(情報)部長は次のように述懐している。「南部仏印進駐は対米英戦生起の場合の準備であり、南方の戦略要点を先制的に占拠しようとするものであった。当時は日米海軍力の比率が最も我が方に有利な時であり、四、五年もするとその比率は一対七とか一体八とかになるということで今や戦争のチャンスであると考えた。南部仏印進駐にはこのほかにも、大東亜共栄圏の基盤として仏印・泰を確保する、米国の対独参戦態度の濃化に対処する、米英の先制占領は日本にとって致命的打撃である、陸軍を南方にけん引する、などの理由又は狙いがあった。」「米国の動きは考えずに、主としてシンガポールの動静に関心を払った。すなわち日本が南部仏印に進駐した場合、英国の武力反発があるかどうか、武力衝突を惹起するかどうかを見極めることがこの現地検討の重点であった。結論は英国のシンガポールにおける戦備は不十分であり、武力反発の動きはないだろう。すなわち英はたたない、米ももとより立たないと判断した。しかし禁油ぐらいはやるかもしれぬと考えた。そして南部仏印進駐をやるとするならば、なるべく早い方がよろしいということであった。このことはのちに首相官邸の日本間で近衛首相にも報告した。」

フランスはドイツ占領下にあったが、ドイツを経由してフランスに圧力をかける外交交渉は成功しなかった。6月18日に到着した大島駐独大使の報告電では、リッベントロップ外相は「出来得る限り日本側の希望達成にご援助致すべきことは勿論なるも、目下独仏間にはシリア、アフリカ問題等機微なる案件あるを以て、今日ドイツとしてはヴィシー政府に対し手荒き措置を採ることは得策にあらずと考えあり」と回答している。その後もリッベントロップ外相のこの問題に対する態度はきわめて煮え切らないものであった。それとともに、松岡外相の態度もまた消極的で、軍部の要望に対し抵抗を示し続けた。武藤・岡両軍務局長は松岡外相の説得に努めた。松岡外相説得のために陸海軍が作成した「軍事上の見地より絶対必要なる理由に就て」では「約半か年後、攻略作戦は極めて困難となり、英米戦争に勝算たち難し、今日南部仏印に軍事基地を獲得すれば、シンガポール作戦は比較的容易になる」との説明が付けられていた。

6月22日に独ソ戦が始まると、陸軍の一部、そして松岡外相はドイツと共にソ連と戦うべきと強硬に主張した。

6月30日の第36回連絡懇談会では、松岡が独ソ戦に「帝国は参戦を決意せざるべからず、南に火をつけるのを止めては如何、北に出るためには南仏進駐を中止しては如何、約六月延期しては如何」「南仏に進駐せば、石油、ゴム、錫、米等皆入手困難となる」「英雄は頭を転向する、吾輩は先般南進論を述べたるも今度は北方に転向する次第なり」と発言したが、「近衛首相は統帥部がやられるならばやると述べ、外相は然らばやるが、その他の大臣は異存なきやと問い、各大臣も異存なしと発言し、結局原案通り実行することと」なった。

近衛には迷いと躊躇があった。「近衛文麿(下)」では「牛場(牛場友彦総理秘書)によると、当時陸軍及び海軍一部の空気として、北進か南進か、少なくともその何れかを到底抑制できない勢いであった。近衛がその何れをも断乎として抑止したら、結局殺されるか辞めさせられるかの他なく、しかもその結果は極端な形で北進か南進かが実現されるだけで、事態は悪化するだけと思われた。だから近衛として為しうる最善は、せめてこの両者を同時にやらせないことであった。当時、北進勢いは急迫していたので、これを抑止するため、その代わりの『コンプロマイズとして』‐近衛自身が淋しそうにそう言った‐、とりあえず軍の勢いを南方に向けざるを得なかったのである。」

南部仏印進駐は、陸軍に対ソ戦を行わせないための国内政治的な「コンプロマイズ」として使われた。

「富田(富田健治書記官長)によると、南部仏印進駐が、米国をして『遂に起つ』と思わしめるような、強硬な措置をとらしめることになるとは、実は海軍でも予想していなかった。当時近衛も富田も、そのことで海軍と懇談を重ねたが、皆それほど重大な結果を予想していなかった。近衛も心配はしていたけれども、かくまで強い反対結果を見るとは思わず、しかも上述の如き情勢のため、一応これに合意したのである。」

対ソ戦を回避するために軍部との取引材料として使われた南部仏印進駐はアメリカの対日石油禁輸の原因となり、太平洋戦争の開戦に直接的につながっていく。


三国同盟によって欧州政局に呑み込まれていく日本

2015-12-20 14:24:50 | 日記

昭和史の天皇20「日独防共協定」・21「踊る五相会議」・22「日・独・伊の関係」(読売新聞社)

世界の国際関係は欧州政局を中心に動いていた。ナチスドイツが目指す欧州新秩序とは力による現状変更に他ならず、欧州全体に摩擦と軋轢を引き起こしていた。ドイツは再軍備(1935年3月)、ラインラント進駐(1936年3月)、オーストリア合併(1938年3月)と英仏と対立する行動を次々と実行していた。

1938年2月にリッベンドロップが外相に就任し、日独伊三国同盟交渉を開始した。三国同盟交渉の背景には、極限にまで高まっていた欧州政局の緊張状況があった。当時、ドイツは三国同盟によってイギリスの勢力を地中海やアジアに分散させることを目論んでいた。この世界政策の下でイタリアと日本を「従属的パートナー」として利用しようとした。イタリアは三国同盟の圧力によってフランスとの交渉を有利に進めようとした。戦争を回避したいイギリスとアメリカがフランスに対してイタリアへの譲歩を要請すると考えていたのだ。

ミュンヘン会談(1938年9月)によりドイツはチェコからズデーデン地方を獲得した。イギリスのチェンバレン首相は凱旋将軍のようにミュンヘンからロンドンに戻り「ヒトラーと共に署名した宣言書を振り回しながら、喜びにあふれた英首相はダウニングストリートに押し寄せた群衆と対面した。」
だが、ミュンヘンの譲歩はナチスドイツのさらなる侵略を招き寄せた。ドイツはチェコスロバキアを占領し(1939年3月)英仏との対立はさらに激化した。

三国同盟交渉は1939年8月の独ソ不可侵条約の締結によりいったんは消滅したが、ドイツの西部戦線での圧勝を受けて再開され、第二次近衛内閣、松岡外相の下、極めて短い交渉の末に締結に至った(1940年9月)。

イタリア外相チアノは1939年3月6日の日記に「日本のように遠い国を欧州政局の渦中に入れることができるのであろうか。欧州政局は最近、一層動揺を続けて神経過敏になりつつあり、電話一本でそのときどきに計画を変更しなければならないのであるが。」と書いている。欧州各国は刻々と変化する欧州政局の中で瞬時に対応を求められ、必然的に当事者として情報を蓄積していった。一方、地理的関係から欧州政局の当事者となりえない日本は、欧州政局に主体的に対応することができず、ドイツに追随することしか選択肢はなかった。

日本はドイツとの同盟を選択することによって、欧州政局、欧州戦局の渦の中に巻き込まれていくことになった。日本はドイツがソ連との国交調整の「正直な仲介者」となり、支那事変を解決し、日独伊ソ連合の圧力によってアメリカとの交渉を成功させて平和的に南方に進出することを夢見ていた。だが、欧州政局に足掛かりの無い日本の思惑通りに事態が進むことはなかった。ヒトラーは独ソ戦を決断し(1940年12月)、四国連合の実現は不可能となった。ローズベルトはイギリス支援の姿勢を明確にしていた。日独伊三国同盟は対米交渉の桎梏となり、最終的に日米開戦を引き起こす重要な一因となった。

日本人の陥ったドイツ信仰と日独同盟幻想

2015-12-13 12:02:50 | 日記

太平洋戦争への道 開戦外交史5 三国同盟・日ソ中立条約(日本国際政治学会 太平洋戦争原因研究部編、1963年)

1938年から39年にかけて行われた三国同盟協議で独伊の最大の関心はそれぞれの国家的利益からソ連よりも英仏を対象としていた。イタリアは地中海政策から、ドイツはその中東欧進出政策から、英仏を牽制しようとした。ドイツはイギリスの勢力を西欧・地中海・極東の3方面に分散させようとする世界政策的な見地から日本との同盟を進めようとした。

1938年1月、リッベントロップは将来の英独関係についての覚書をヒトラーに提出した。この覚書は、中欧における現状変更は力によってのみ達成されるが、ドイツのそうした東方進出にはフランスの干渉が予想されるから、独仏衝突の結果として英独戦争を招くことがないようにイギリスをフランスから引き離すことが肝要であり、そのためにはいっそう大きな力の連合、すなわち日独伊同盟を結成することが必要としていた。リッベントロップはイギリスとの妥協交渉を継続しながら、同時にイギリスを牽制するため、三国同盟の強化を主張した。1938年2月、ヒトラーはノイラート外相を更迭してリッベントロップに代えるとともに、その対外政策に反対したブロンベルグ、フリッチェらの軍首脳も更迭し、外交防衛にわたる実権を直接的に掌握した。リッベントロップはその構想を実現すべく日独関係の強化に動き出す。

一方、日本では三国同盟の議論を日独防共協定強化の問題としてとらえられていた。
対ソ同盟を想定し、対英仏戦を同盟の対象から外そうとしたのだ。

1936年11月に締結された日独防共協定は「締結国は共産インターナショナルの活動につき相互に通報し、必要なる防衛措置につき協議し且つ緊密なる協力により右の措置を達成することを約す」という協定本文と「締結国の一方がソビエト社会主義共和国連邦より挑発に因らざる攻撃の脅威を受くる場合には、他の締結国はソビエト社会主義共和国連邦の地位につき負担を軽からしむるが如き効果を生ずる一切の措置を講ぜざることを約す」との秘密付属協定から成っていた。

1938年7月、五相会議で採択された「日独及び日伊間政治的関係強化に関する方針案」はドイツとの対ソ同盟を目指している。
「帝国は速やかにドイツおよびイタリアと各個に協定を遂げ、相互の締盟関係を一層緊密化し、協定各国の対ソ威力及び対英牽制力を強化し、以て当面の支那事変解決を迅速有利にし、かつ東亜経綸の進展に資せしむるを要す。これがためドイツに対しては防共協定の精神を拡充して之を対ソ軍事同盟に導き、イタリアに対しては主として対英牽制に利用し得る如く秘密協定を締結す。」
このため、8月に提示されたドイツの同盟案「締結国の一が締結国以外の第三国より攻撃を受けたる場合においては、他の締結国はこれに対し武力援助を行う義務あるものとす」の条文に対し、対英仏戦を対象から外し、自動参戦義務を排除すべく交渉が続くこととなった。

日本政府は三国同盟の成立が絶対必要との信念を持つ大島駐独大使、白鳥駐伊大使を統制することもできなかった。1939年3月、平沼首相、板垣陸相、米内海相、有田外相、石渡蔵相は連名で「万一両大使に於て今次の訓令に兎角の意見を挟み、その執行を肯ぜざるが如きことあるにおいては、政府は両大使を召還し、余人をして代って交渉に当たら適当措置を講じ交渉に支障なからしむるべし」「独伊との間に本件妥結の見込み無きに至りたる場合は、結局本交渉はこれを打ち切るの外なし」との念書を昭和天皇に提出したが、両大使が訓令に反し日本には参戦義務があると独伊政府にそれぞれ回答したにもかかわらず、日本政府は大使更迭も交渉打ち切りもできなかった。

ミュンヘン協定が蹂躙されてチェコスロバキアが解体されると、英仏はドイツに対する態度を硬化させた。チェコスロバキア解体後のドイツの次の目標はポーランドにあった。ドイツは1939年9月1日以降にポーランドに進撃する「白作戦」の準備を進めていた。

日独の思惑の根本的違いは1939年8月の独ソ不可侵条約の締結で表面化し、平沼内閣は総辞職した。

だが、日本国内の枢軸派は、独ソ不可侵条約によって対ソ同盟の夢が裏切られても、ドイツとの同盟を追求し続けた。1940年5月以降の西部戦線におけるドイツの圧勝は、独ソ不可侵条約でひとたび下落したナチスドイツへの信頼感を復活させる契機となった。第二次近衛内閣で外相に就任したのは「わが大和民族は、人と提携し、もしくは同盟したとき、もはやうしろを顧みるものではない。はっきりとして心中までいくという決心で抱き合って進むあるのみ」と演説する松岡洋右であった。

国家はその時点での共通の利害関係に基づいて外交を進め、同盟を締結する。共通の利害関係が失われれば、同盟は崩壊する。このような冷静な認識が陸軍には欠けていた。陸軍はドイツ信仰に陥り、ドイツ側の思惑に関係なく、その内容が短い期間に対ソ同盟から対米英同盟に変わっても何の違和感も持たなかった。日独同盟の締結自体が自己目的化していったのだ。

同盟相手国は「心中までいく」と全く考えていない。日本が「心中までいく」という信念を持つことは誤りであり、また同盟相手国に対して無用の失望を生むことにもなるだろう。

現在の日米同盟についても日本人は同じような同盟幻想に陥っていないだろうか。

国家公務員たる軍人は国家統制と兵営社会主義を目指した

2015-12-12 15:35:23 | 日記

軍ファシズム運動史(秦郁彦、1962年)

1929年10月のニューヨーク株式暴落を契機とする世界恐慌の波及により日本は深刻な不況に陥った。対外問題でみると、中国統一を目指す国民党の民族主義と中国国民の排日運動は、中国、特に満州における日本の利権が失われてしまうのではないかという危機感を煽っていた。第一次五か年計画に着手し、飛躍的成長を遂げつつあるソ連に対し、陸軍は強い脅威を感じていた。さらに、軍縮の流れは、ワシントン条約による海軍兵力の削減、陸軍の山梨、宇垣両軍縮、1930年のロンドン海軍軍縮と続き、陸海軍将校のポストは削減されていった。政財界の腐敗は慢性化し、あいつぐ汚職の報道は国民の政党政治に対する信頼感を失わせた。

軍将校による直接行動が始まる。

1930年に橋本欣五郎を中心に設立された桜会は軍部独裁政権を目指した。彼らは翌年の1931年に「大川周明らが議会を混乱に陥れるからそれに乗じて戒厳令を施行し宇垣内閣を樹立する」計画を立てたが、宇垣陸相、陸軍上層部、課長級将校の賛成を得られず、途中でクーデターの実行を断念した(三月事件)。9月18日に満州事変が発生すると、事変の遂行を妨害する若槻内閣を打倒し、軍部内閣を作り上げようとした。だが「料亭で連夜の如く会合が行われ、美妓を侍らせて盛宴が続けられた」ため機密は守られず憲兵司令部によって検束収容された(十月事件)。「逮捕されるべき長勇少佐は待合の床の間を背にして天保銭と参謀飾緒を輝かせ美妓を左右に侍らせ豪然と構え、逮捕に向かった憲兵は平身低頭して御機嫌を奉伺して自動車に乗っていただき、酒よ肴よと美妓ならぬ無骨者の我々がお酌して歓待に努めた」。

1931年12月に若槻民政党内閣の総辞職を受けて犬養毅政友会総裁を首班とする犬養内閣が成立した。犬養内閣の陸相に就任した荒木貞夫は大幅な人事異動により宇垣直系の二宮参謀次長、建川第一部長らを転出させて部内の要職を皇道派系で固めた。皇道派が唱えた革新論は、その具体的な内容が漠然としていて、橋本一派のような行動計画を伴わず、永田一派のような政策論も持たず、精神主義的なものであったが、それだけにかえって青年将校の急進行動を刺激する傾向をもっていた。皇道派の革新論が観念化しがちであったのは「純粋ではあるが思慮に乏しい」急進派青年将校、革新のムードを盛り上げるだけにすぎない幹部は存在したが、プランメーカーたるべき幕僚の支持を欠き「頭と足があって胴体のない」構成になっていたためだった。

1932年には海軍将校らが首相官邸を襲撃し、犬養首相を射殺する五・一五事件が起きた。実行犯が憲兵隊へ自首すると隊長以下あわてふためく中で「よくやってくれたと大歓迎」を受け、中には握手を求める憲兵もいた。

五・一五事件後の齋藤内閣で荒木貞夫が辞任した後に陸相となった林銑十郎は荒木・真崎一派の部内専制に対する反発から、1934年3月の異動で永田鉄山を軍務局長に起用したのを手始めに、その後の異動のたびごとに人事の入れ替えを進め、皇道派勢力を排除していった。皇道派が主張する対ソ予防戦争論は陸軍内部や政財界の支持を得られなかった。追い詰められた皇道派は相沢事件、二・二六事件を引き起こし、自壊していった。

最後に残った統制派が陸軍の実権を掌握した。彼らは国内的矛盾の調整よりも1935~6年から新たに展開した世界情勢の中で日本が追い込まれた孤立的地位から脱出し、さらに遠からず発生するものと予想された世界戦争への危機に対処しようとした。欧州ではナチスドイツによるラインラント進駐、イタリアによるエチオピア併合、スペイン内戦が起きていた。中国ではナショナリズムが高揚し、ソ連は極東軍備を拡充していた。経済ブロックによる市場対立も尖鋭化していた。

二・二六事件後の広田内閣は浜田国松代議士の「割腹問答」をきっかけとする軍部と政党の感情的対立の中で総辞職に至った。1937年1月、西園寺公望が総理大臣に奏請したのは宇垣一成だった。だが、西園寺は陸軍の実権が中堅幕僚層にあり、彼らが事前に宇垣絶対反対の方針を打ち出していたことに気が付いていなかった。宇垣は陸相を任命することができず、最後の手段として大権の発動を奏請しようとしたが「血を見るような不祥事発生」を懸念する湯浅内大臣の反対によって実現できず、大命拝辞を申し出ざるを得なかった。二・二六事件後の前年5月に復活した大臣現役武官制は早くも宇垣内閣を流産させるほどの威力を発揮した。中堅幕僚層にとって「実力者」は煙たがられていた。

宇垣の大命拝辞の後、1937年2月に成立した林銑十郎内閣は「食い逃げ解散」を行ったが、その結果は政府側の惨敗となった。再度の解散に固執する林は国民の不満が反軍感情に高まるのを恐れた陸軍によって引きずりおろされた。二・二六事件以来、一貫して首相就任を拒み続けていた近衛文麿は「林内閣を続けさすか、あるいは寺内でも出すかして軍を国民の怨府たらしめるがよい。そこに必ず大陸で何か事を起こすから、その時国民の非難に乗じて一挙に問題を解決し、軍に根本的なメスを入れるべきだ」との献策を受けていたこともあり、西園寺に杉山陸相を後継首相に推すなど、つとめて逃げ回っていた。だが、軍人の組閣を喜ばなかった西園寺は、あえて近衛を後継首相に推した。1937年6月、近衛が大命を拝受し、第一次近衛内閣が成立した。

近衛は先手論を唱えていた。「軍人にリードされることは甚だ危険である。一日も早く政治を軍人の手から取り戻すためには、軍人に先手を打って、この運命を打開するに必要なる諸種の革新を実行するほかはない。」
だが、結果的に、先手論は軍の意向を慮った政策運営に陥っていった。

国家公務員たる軍人の国家革新運動とは、国策と国防の名を借りて国家の実権と利権の奪取をはかる運動だった。陸軍は国家を自分たちを中心とする兵営に変えようとした。

世論政治家・松岡洋右

2015-12-06 21:27:36 | 日記

松岡洋右 その人と生涯(松岡洋右伝記刊行会、1974年)

松岡洋右は能弁ではあったが、その内容は支離滅裂だった。

国策決定の場である大本営政府連絡懇談会の場でも松岡の意見は短期間に極論から極論へと揺れ動いた。南進してシンガポールを攻略すべきと主張したかと思えば、独ソ開戦を受けて強硬な北進論を唱えた。松岡の言動を理解するためには、何を喋ったのかではなく、その言動にどのような効果をもたせようとしたかを考えなければならない。「外務省にデモが押し掛けてきたらどうするか。大手を広げて立ちはだかってはいけない。デモは凶暴になるばかりだ。いいかね、デモの先頭に立ってつっ走るんだ。いっしょに走る。そして、次の門でうまく曲がるんだ。」

松岡はその時々の大勢と空気に乗って飛び続けようとした。

松岡は気魄を以て自己の信念を貫くことを重視していた。
1930年2月の総選挙で当選した松岡は翌年1月に本会議で演説を行った。「私の高調せんと欲したところは、第一、経済上、国防上、満蒙は我が国の生命線である。第二、現下の急に処するため我が国民の要求する所は、生物としての最小限度の生存権である。」「近年の外交のやり方をみると、この気魄、この抱負はどこかに置き忘れたかの感がある。位取り、気合の根本を立て直さない限りは百の技巧も術策も無価値である。」
国際連盟脱退の帰途にニューヨークに立ち寄った際、満鉄事務所長が松岡を訪れ、新聞論調は平和主義論であるハワード系は猛然と日本を非難しているが、ハースト系をはじめ国家主義、保守系の各紙は比較的慎重だから、この際、彼らを刺激しないようにした方が日本に有利と思うと直言した。ところが、松岡は「貴様はまだアメリカを知らぬのか。日本人はみな弁解主義者だ。アメリカでは弁解は通らぬ。」とこれを大喝している。松岡は「相手に弱気を見せることは最大の悪徳」とのセオドア・ルーズベルトの「訓戒」を忠実に実行し続けた。
松岡が戦術的に強硬論を吐き続けた結果、松岡を説得しようとする側の言動も激しくならざるをえなかった。

松岡は「世界大変局に直面して」と題した談話の中で「現実外交は戦争」と述べている。「将来長きにわたる根本の目標と、その目標地点に到達する道行(即ち俗に言う外交)との二つを混同する人の少なくないことである。これを具体的に説明すれば、我が国がある国と提携せねばならぬと目標を定めても、その相手国と睨み合うこともあろう。遂には戦争することさえないとは限らぬ。」「どうしても敵として倒さなければならぬ国でも国際関係の現実に立脚して、あるいは一時媚態を呈しなければならぬこともあろう。否、相擁しなければならぬことさえ絶無とは言えまい。」「ひとり日本だけが道義外交で行こうといっても、それは通用しない。」「今日のいわゆる『外交』においては一時も現実を離れてはならぬ。そして闘争または戦争の一形式であるということを忘れてはならぬ。すなわち直接の目的は勝つ、にあるのである。」

近衛文麿はパリ講和会議で松岡と出会い、その後も交友が続いていた。近衛の「英米本位の平和主義を排す」「吾人は人道のために時に平和を捨てざるべからず」との主張と松岡の主張には通底する思想があった。
近衛は政治的危機に直面すると「彼の城塞であるベッドにもぐりこみ」「哀れを誘うような弱々しい優柔不断な人間」であり、「由来、近衛公は聡明無比といわれ、種々な新意見を採用し新機軸を出すことと、巧妙な理論を展開することには妙を得ているが、その新機軸や新理論を実行する点になると、少しの勇気も、少しの粘着力もない、すべてが言いっ放し、やりっ放し」だった。近衛にとって、陸軍を相手にしてこれを抑え込むためには「その心臓と気力と驚嘆すべき詭弁と端倪すべからざる権謀術数」を持つ松岡が必要だった。

1940年夏、第二次近衛内閣が成立した当時、日本ではドイツの戦勝が決まったかのような空気が流れていた。
「民間でも、歴史学者の今井登志喜さんは『八百年のドーバー海峡の歴史は今度こそ変わるかもしれない』ということを新聞に書いております。政党でも浅沼稲次郎さんらを筆頭とする社会大衆党は、15年の5月に非常時下における決議を行い、その中で枢軸外交への転換と仏印の保障占領を要求しています。」「朝日新聞を見たところ、その社説に『今度こそ独・伊の欧州大陸制覇は決定的であって、たとえ英本国に上陸はできなくても、陸軍力を持たない英国が欧州大陸のドイツをたたくことはできない』ということが明確に書いて」あるような社会情勢だった。

7月19日、近衛は組閣に先立って荻窪の私邸、荻外荘に松岡、東条英機、吉田善吾を招き、新内閣の基本方針について認識統一を行った。松岡が作成した外交案は細かい修正を受けつつも新内閣の方針となった。「世界情勢の急変に対応し速やかに東亜新秩序を建設するため日独伊枢軸の強化を図り」「対ソ関係は之と日満蒙間国境不可侵協定(有効期間五年乃至十年)を締結し」「東亜及び隣接島嶼における英仏植民地を東亜新秩序の内容に包含せしむる」とともに「米国に対しては無用の衝突を避くるに努むるも東亜新秩序の建設に関する限り、彼の実力干渉と雖も断乎之を排除するの決意を以て我が方針の実現を期す。」

外相に就任した松岡は、日独伊三国同盟(1940年9月)、日ソ中立条約(1941年4月)と立て続けに実績を上げた。日ソ中立条約の締結を受けて近衛は大橋外務次官とともに葉山御用邸に伺候したが、大橋は近衛がこんなに喜んだ顔をみたことがなかったと感想を述べている。

ベルリン・モスクワからの帰路「春の空を甘露の味や日本晴」と絶頂にあった松岡を待ち構えていたのは4月17日夜に着電した野村駐米大使からの日米諒解案だった。野村からの諒解案の連絡は、ハルが交渉の前提とした主権尊重、内政不干渉、機会均等、現状不変更の四原則が明記されていなかったほか「『諒解案の主旨はハルの提案による』と言明したことは知らず知らずの誤り以上の、いわば対内謀略であり、爾後の日本政府の判断を決定的に誤らしめるものであった。」
日本政府と陸海軍にとって日米諒解案は「まるでタナからボタモチのようないい話」だった。「満州国も承認しよう、金も貸そう、三国同盟もそのままでいいといったようなびっくりするようなものだった。」
これに対し松岡は感情的に反発した。「三国同盟の仕上げにわざわざ欧州へ行ったのも、日ソ中立条約を結んできたのも、みなアメリカと交渉する土台をつくるためだ。それは三国同盟を結ぶときからの構想で、君も知ってるはずじゃないか。それをバカどもが、アメリカの坊主にのせられてメチャメチャにしよるのだ。」
松岡にとって「日本側は全く懇願的でローズベルトやハルに辞を低うし、全然体面を失っている」こと、そして日米交渉を独伊には内密で進めていることは許し難いことだった。

6月22日の独ソ開戦を受けた6月27日の連絡会議において松岡は「よろしく北をやり、次で南をやるべし。虎穴に入らずんば虎児を得ず。宜しく断行すべし」「吾輩は道義外交を主張する。三国同盟は止められぬ。中立条約は始めから止めてもよかった。三国同盟を止めて云々なら取らぬ。利害打算はいかん。独の戦況未だ不明の時やらねばならぬ」と発言した。また6月30日には次のように述べている。「いずれにしても帝国は参戦の決意をせざるべからず。南に火を付けるのは止めては如何」「英雄は頭を転向する。吾輩は先般南進論を述べたるも、今度は北方に転向する次第なり。」

7月16日、松岡を外相から外すことを目的として第二次近衛内閣は総辞職した。そして7月18日には第三次近衛内閣が成立した。

松岡はその所論通り、日本国民と陸軍と共に「デモの先頭に立ってつっ走」り続けた。だが、変転を続ける国際情勢に日本はついていくことができなかった。自尊心が強い松岡は自らの過去を反省できず、当事者として現実に絡めとられ、奇矯な言動が続き、最終的に政府から放逐された。

松岡は「次の門でうまく曲がる」ことができなかった。