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ドイツにとって欧州統合はその領域が広すぎた

2015-11-23 09:44:40 | 日記

ドイツリスク(三好範英、2015年)

何が正しいのかを論理的に突き詰め続けることは正しいか。

正義を論理的に突き詰められると考えるのであれば、何が正しいのかを解明することは我々の最も重要な義務となろう。また、その論理に基づいて政治を行うことが必要とされるだろう。

自然科学と同じ方法論で論理的な突き詰めを行い、何が正しいのかを確定しようとする考え方がある。
科学者は自然の法則を研究して自然科学の理論体系を作り上げ、自然科学は工業製品に応用されて社会を豊かにする原動力となってきた。この自然科学的なアプローチを人間社会に適用できるのであれば、社会科学者は社会の法則を研究して社会科学理論を作り出すことが役割となるだろうし、政治には社会科学理論を現実に応用して社会を豊かにしていくことが求められるだろう。社会主義理論を科学であり歴史の法則であると称したマルクス主義も、理論経済学をバックボーンとするアメリカの資本主義も、啓蒙主義的な理念から生まれている。

何が正しいのかを理念的に判断できるのであれば、その原則に従って対応することが社会的正義にかなうのであり、正しい原則を知る者は優越的な地位に立って周りの人々を教導すべきことになるだろう。政治とは理想に向かって正しい社会を実現する手段と考えられるだろう。また、何が正しいのか判断できるのであれば、正統的な解釈だけが存在を許され、異質な認識を持つ者は倫理的に糾弾されて当然ということにもなろう。

だが、自然科学では何が正しいのかが実験によって証明され、実験によってその正しさを証明できない理論は淘汰され、現実の試練に耐えた理論だけが残るのに対して、社会科学の分野では客観的な証明によって正しいか誤っているかの決着をつけることは難しい。単に権力に迎合した理論や世論に阿った立論も生き残るのだ。正義が相対的にしか存在しないのであれば「正しさ」を求め過ぎることには問題がある。人生観と信念の異なる人々との間で何が正しいのかをまとめ上げプライオリティ付けすることも難しいだろう。また、自然科学は自然界を対象として人間が自然界を支配するために作り上げられてきたものである。これを人間社会を対象としてそのまま応用すると、一部の人間が人間社会を支配する理論となりかねない。

何が絶対的に正しいのかはほとんどの人が納得できる最低限の人道的な事項にとどめ、あとは相対的な事項として議論に任せざるを得ないだろう。
ナチスが掲げたドイツ民族の優越性と劣等民族支配の理念、イスラム国の掲げている異教徒殺戮の理念といった明らかに正しくない考え方はこの最低限の倫理事項で対処し、最低限の基準を超えたエリアでの議論については自分と相手の主張を冷静にかみ合わせていく。共感する部分の多い人々は国を作り、さらに地域連合や同盟関係を結ぶ。世界は必然的にいくつかのブロックに分かれることになり、その内部調整やブロック間の調整は議論によって進めるしかない。

何事も論理的に納得しなければ気が済まないドイツ人は自然科学の分野で成功を収め、欧州随一の国力を持つに至ったが、この自然科学での成功は副作用をもたらした。社会生活の面でも何が正しいのかを一元的に判定できるし、一元的に判定すべきというドイツ人の思考回路を強化することになったからである。ドイツは東西統合後、ユーロ圏の超大国となった。だが、ドイツの原理原則にこだわり自らの価値観だけを正しいと信じ込む硬直的な姿勢はヨーロッパ域内の不協和音を生み出す原因となっている。

アメリカの一元主義は世界市民主義的な広がりを持ち、また自らの信条を自国民の犠牲を払ってでも守ろうとする意思によって支えられてきた。これに対し、ドイツの正義はその原理原則が正しいにせよ寛容性と普遍性に乏しく、上から目線の印象を与えている。ドイツ人は自己の正しい論理に拘泥してしまい、他の人々の内在的論理を理解しようとする意欲に乏しい。

政治的にドイツを封じ込めようとして始まった欧州統合政策は冷戦の終結と東西ドイツの統合を経てドイツ主導のブロックに変質してしまった。そして、ドイツを中心として欧州統合をとらえ直してみると、ドイツにとってその対象とする範囲には人生観や信念の異なる人々が多数含まれていた。

ドイツはかつての東方政策を欧州統合という美名の下で復活させている。一方、南欧の債務問題はこのメリットを得られない世界で起きている事象だ。ドイツは欧州統合政策のコストパフォーマンスを判断し、利益を極大化し、そのコストを極小化すべく行動するだろう。

欧州の中央に位置するドイツは、勢力均衡にとっては強すぎ、覇権を取るには弱すぎるため、歴史的にヨーロッパの動乱の原因になってきた。この半覇権状態は現在も変わらない。今後、ドイツはその経済力に応じて政治的発言権を強めることになるだろうが、ヨーロッパ各国にその意思を強制するほどの経済力、政治力、軍事力はない。

ドイツがその意思を強めるにつれてヨーロッパが再度混乱することは歴史的必然であろう。

自分勝手な世界戦略を弄んだ民族への罪と罰

2015-11-21 21:50:41 | 日記

日本外交史23「日米交渉」(加瀬俊一、1970年)
外務省退職後、鹿島研究所出版会会長となった加瀬が自社刊行物として出版した太平洋戦争直前の日米交渉史。

松岡洋右の外相秘書官を務め、外務省で開戦までの日米交渉の全過程に関与した加瀬から見ると、日米開戦は外務エリートの関与しないところで変則的な交渉を行った部外者が引き起こしたものだった。

加瀬は日米関係悪化の直接的な原因となった日独伊三国同盟はやむをえない選択だったと主張する。「日本でもアメリカでも、松岡外相の評判はすこぶる悪い。三国同盟の推進者・日米交渉の破壊者という烙印をおされているが、これは過酷に過ぎるように見受ける。彼が手掛けなくても三国同盟は早晩結ばれたに違いない。それを知っていたから、彼は同盟を積極的に推進することによって政局の指導権を軍部から奪回し、独自の抱負を実行しようと試みたのである。」
さらに、近衛文麿の手記「平和への努力」を引用する。「三国同盟の締結は、当時の国際情勢においては止むを得ぬ妥当の政策だった。ドイツとソ連は親善関係にあり、欧州のほとんど全部はドイツの掌握に帰し、英国は窮境にあり、米国はまだ参戦せず、かかる状況においてドイツと結び、さらにドイツを介してソ連と結び、日独ソの連繋を実現して、英米に対するわが国の地歩を強固ならしめることは、支那事変処理に友好なるのみならず、これによって対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献しうるのである。」

松岡洋右はアメリカさえ参戦しなければドイツはイギリスに勝利すると予想していた。この世界情勢判断に基づいて、日独伊三国同盟、さらにソ連も参加した四国連合の威力によってアメリカの参戦を防止しようとした。アメリカを牽制した上で泥沼化した中国との戦争を有利な条件で解決し、英仏が植民地として支配する南方に進出して東亜新秩序を作り上げようと考えていたのだ。

しかし、ドイツの勝利を前提とした世界戦略は全くの間違いだった。

日独伊三国同盟の締結によってアメリカは日本をナチス勢力の一部とみなすようになり、日本のアジアへの軍事攻勢とナチスの暴虐な支配を結びつけた。三国同盟は「英米に対するわが国の地歩を強固ならしめる」どころか、アメリカの対日姿勢を大きく悪化させる結果を生んだ。中国との戦争を収拾することもできず、南方では米英との対立が激化した。

ルーズヴェルトは1940年の大統領選で外国での戦争には絶対に参加しないと公約していたものの、三選直後の12月の炉辺談話ではイギリスの支援とナチ陣営との対抗が必要であると明言している。「本年9月、欧州の2国とアジアの1国が同盟を締結し、アメリカが彼らの拡大を妨害した場合には団結してアメリカに立ち向かうとしている。ナチスはドイツの全生活と思想を支配するだけでなく、欧州全域を奴隷化し、欧州のリソースを利用して全世界を支配しようとしている。アメリカ人の中には欧州とアジアの戦争は我々に関係ないと考える者もいるが、われわれの半球に続く大洋を欧州とアジアの戦争を仕掛けた者たちに支配させないことは最も重要なことだ。自衛のために戦っている欧州の人々が望んでいることはわれわれが戦いを行うことではなく、彼らが自由と安全のために戦うことができるように航空機、戦車、銃、貨物船などの軍備を提供することなのだ。」

三国同盟は中国撤兵問題とあわせて日米関係悪化の最大の原因となった。

日米交渉はカトリック僧のウォルシュとドラウト、大蔵省出身の井川忠雄により外務省の管轄外で始まった。ウォルシュとドラウトの背後にはルーズヴェルトの選挙事務長であったウォーカー郵政長官が存在していた。
加瀬は日米交渉が正規の外交ルートの外で進んだことを口を極めて非難する。井川は「誇大に自己宣伝をするので省内でも全く人気がなく」「ウォーカーは内政の鬼才ではあったが外交的見識は必ずしも高くなかったし、ウォルシュ・ドラウトに至っては善意であっても国際的素養は充分ではなかった。」海軍出身の野村駐米大使は「英語力が著しく貧弱」で「外交的見識が必ずしも十分でなかった」。その後も「ウォーカー郵政長官の暗躍」、「岩畔大佐の参画」、「野村大使の錯覚」といった章立てが続いている。
1941年4月16日に野村大使がハル国務長官をウォードマンパークホテルに訪ね、ハルから「日本政府が主権尊重、内政不干渉、機会均等、太平洋の現状維持の四原則を受諾し、諒解案を承認してこれを正式に提案すれば会談を始める基礎としてもよい」との回答を引き出し、諒解案に基づく日米交渉が始まった。

ベルリンからの帰途、モスクワで日ソ中立条約を締結した松岡は独自の日米交渉構想を持ち、モスクワのスタインハート米国大使には「欧州戦争の帰趨は既に明白だからアメリカは戦争に干渉しないことが賢明である。独ソ戦は起こらない。ドイツはイギリスを屈服させうると確信している。アメリカは太平洋で自制してほしい。」などと述べていた。大外交の成果とともに意気揚々と帰国した松岡が彼の知らないところで進んでいた日米諒解案交渉を許し難い動きと激怒したのは当然の感情的反応であった。4月22日に帰国し大本営政府連絡会議に出席した松岡は「ヒトラーさん」「チアノさん」との会談を長々と語った後、日米諒解案については「陸海軍がなんと言おうがこんな弱音には同意できない。そもそも独伊両国との信義をどう考えるのか」と強く反発し、首相、陸相、海相、陸海軍務局長の説得にも応じなかった。加瀬も「日米交渉は発端において呪われていた。結果的にみれば交渉が開戦を誘発した、ともいえるのであって、確たる成算もなく、あやふやな状況判断のもとに、極めて変則的な形で、この重大交渉に着手した当局者の責任は決して軽くない。近衛首相も野村大使も善意の人だった。だが、善意だけでは外交を運営できぬのである」と冷ややかに記している。

6月22日の独ソ開戦はユーラシア四国同盟の圧力によってアメリカと諒解を遂げて大陸での戦争を解決しようと期待していた近衛首相に深刻な衝撃を与えた。「事ここにいたればドイツとの同盟になお拘泥することは我が国にとって危険な政策である。」だが、ドイツ軍の戦勝に感銘をうけていた軍部は同意せず、松岡外相は頭から問題にしなかった。松岡は6月21日付のハル国務長官オーラルステートメントの中で「不幸にして政府の有力なる地位にある日本の指導者の中には国家社会主義のドイツおよびその征服政策に対し抜き差しならざる誓約を与えている者」がおり、その者が在職する限り日米交渉の進展は難しいと述べていることに激しく反発し、7月12日の連絡会議ではオーラルステートメントの拒否と対米交渉の打ち切りを提案している。加瀬は「あの時に打ち切っていたら戦争は避けえたか。それは何ともいえぬが、交渉決裂がすなわち開戦にはならなかったのではないか」と書いている。

近衛首相はオーラルステートメント拒否の訓電と日本側修正案を同時に発電するように求めたが、松岡は7月14日に拒否の訓電を首相の了解なく発電するとともに、15日にはまだアメリカ政府に提示していない日本側修正案の内容を欧亜局長から独伊側に内報させた。日米交渉を進めようとする政府・軍部と松岡との対立は極限に達した。7月16日、松岡を外すことを目的として第二次近衛内閣は総辞職し、翌日には第三次近衛内閣が成立した。

その後、7月28日から始まった日本軍の南部仏印進駐に対しアメリカは8月1日に石油禁輸を発動した。石油が枯渇する危険に直面した軍部は帝国国策遂行要領を作成し9月6日の御前会議にて「帝国は自存自衛を全うするため、対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月上旬を目途とし戦争準備を完遂す」との国策が決定された。この9月6日の決定が第三次近衛内閣を退陣に追い込み、最終的に12月の日米開戦に向かう直接的な原因となった。

確かに、加瀬が述べている通り、日本の政治体制には問題があった。「国家意思が分裂していたから、一貫した合理的国策は到底樹立すべくもなかった。軍部の独裁的横行を許した政治的体質に致命的欠陥があったことは否定できない。日米交渉の進展する過程において、この欠陥は大きく露呈する。」
また、アメリカの交渉姿勢にも問題はあった。「アメリカの独善的態度も批判を免れない。日本の軍閥政治を難詰してやまぬアメリカだったが、彼らの政策がわが軍部の台頭する土壌を培養し、その暴力を増幅した事実に気がつかぬばかりではなく、ハル国務長官のごとき、終始、不毛の原則論を頑強に固執し、現実を無視してはばからなかった。日米交渉の破綻した一因は、まさに、このようなアメリカの非妥協的態度にあった。」
日米開戦に追い込まれたのは「わが政府が確固たる信念がないのに三国同盟を結び、この同盟の結果として日米関係が当然に冷却」した結果であることも明らかだ。

だが、日米交渉の当事者だった加瀬が日米交渉の失敗の理由を「カトリック僧侶や井川のような人物の甘言を信じ、同盟成立の僅か三ヶ月後に成算なくして日米交渉に着手したところに禍根があった」と責任転嫁していることには強い違和感がある。また、現地時間12月7日のアメリカ政府への覚書伝達の遅延についても「外務本省からの発電状況は、東京側は万事着実に行われ、いささかの遺漏もない。手違いが起こったのは意外にもワシントン大使館であって、充分な時間的余裕があり、かつ、厳重な注意電報も届いていたのに、どういうわけか解読情緒に手間取って、訓令に反する結果となったらしい。その事情はともかくとして、交渉打ち切りの通告が開戦後になったことは遺憾至極だった。これによって、日本は外交交渉中に騙し討ちをしたという汚名を着せられることになった。」とすべてワシントン側の責任にしている点も自己弁護としか読み取れない。

外務省のエリートは松岡洋右とともに世界戦略の企画と実行を楽しんだ。しかし、その外交戦略はアクロバティックとしかいいようのないものだった。松岡は語っている。「ドイツと握手するのは、ソ連と握手するための一時的方便だが、そのソ連との握手にしてからが、実はアメリカと握手するための方便に過ぎんのだよ。」
その世界戦略はドイツの戦勝を前提とした依存型のものだった。
彼らはヒトラー、スターリン、ルーズヴェルトを手玉に取って日本の世界戦略を進めようとしたが、諸大国を統制する実力のない日本は世界情勢の変転によって逆に手枷足枷をはめられることとなり、全く望んでいなかった日米戦争に引き込まれていった。

松岡洋右、そして外務省の世界戦略は敗戦によって全くの失敗であったことが証明された。
だが、外務エリートは失敗の責任をすべて部外者に押し付け、何の責任も感じていない。

自我の強い人間は周辺環境の変化に対応できず、面子を守るために行動する

2015-11-15 14:39:55 | 日記

スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想(三宅正樹、2007年)

第二次世界大戦の端緒となったポーランド侵攻(1939年9月)直前、ヒトラーは独ソ不可侵条約締結に成功した。ヒトラーは独ソ不可侵条約秘密議定書の中でフィンランド、エストニア、ラトビア、ポーランドの東半分をソ連に与えることを約束し、ルーマニア領ベッサラビアについてもドイツは政治的に無関心であるとの態度を示した。さらにポーランド侵攻後に締結された独ソ境界ならびに友好条約(1939年9月)ではドイツが占領したワルシャワ周辺の土地と引き換えにリトアニアをソ連に与えた。ソ連とイギリスとの同盟を阻止し、二面戦争を回避するため、ヒトラーは条約締結を優先し、スターリンの失地回復要求をそのまま承認した。

1940年5月にドイツ軍は西部で電撃戦を開始し、フランスは6月に降伏した。ヨーロッパ大陸はナチスドイツとその同盟国によって埋め尽くされた。だが、ヒトラーはイギリスを屈服させることはできなかった。ドイツ空軍はバトル・オブ・ブリテンで大きな損害を受けた。アメリカはイギリスに対する支援を本格化させ、基地使用権を得る見返りとしてイギリスに駆逐艦を提供した。ヒトラーはアメリカの軍事的進出を牽制し、イギリスを講和に追い込む手段として日本との接近を決断し、スターマーを特使として送り込んだ。
独ソ不可侵条約が締結されている状況下、日独伊三国同盟はソ連との戦争を防止し、枢軸国とソ連の四国の協力により米英勢力と対決しアメリカとの戦争を回避し、さらにドイツの仲介によってソ連との国交調整を進め、ソ連の蒋介石支援を止めさせて支那事変の解決を促進できる最善の戦略と受け取られた。日本でも、陸軍の北進を恐れる海軍がユーラシア大陸ブロック構想を背景として日独伊三国同盟への態度を変えた。前年、陸軍はノモンハン事件にてソ連と偶発戦争を起こしており、陸軍の謀略によって対ソ戦に引き込まれる可能性も十分に考えられたのだ。

スターリンは四国連合を許容していた。枢軸国とソ連の4カ国の連合によって米英の圧力と対決する構想は成立しそうにみえた。ドイツ側でユーラシア同盟を熱心に推進したのはリッベントロップだった。リッベントロップはスペインも加えた「ジブラルタルから横浜まで」のユーラシア大陸ブロック構想を持ち、その中核を日ソ独伊四国ブロックと考えていた。リッベントロップ案は11月10日、モロトフとの会談前にベルリン駐在の来栖三郎大使経由で日本政府に連絡された。

ヒトラーが対ソ戦を決断しなければ、ユーラシア同盟は成立していたであろう。そうなれば、米ソの冷戦に代わり、米英勢力とユーラシア大陸ブロックが長期にわたって抗争と協調を続けたかもしれない。

だが、独ソ不可侵条約締結後、両国の独裁者の亀裂は深まっていた。大粛清で弱体化したソ連軍はフィンランドとの戦争で大損害を出した。ヒトラーはこの結果を見てソ連軍の実力を過小評価しソ連蔑視の感情を強めた。ソ連のベッサラビア併合はヒトラーを激怒させた。一方、スターリンは対英戦に手こずっているドイツに対して四国連合への加盟の代償をつり上げた。
最終的にヒトラーに独ソ戦を決断させたのは、1940年11月のベルリン交渉におけるモロトフの強硬な態度だった。
モロトフはスターリンの指示に従い、独ソ不可侵条約の秘密議定書違反としてフィンランドからのドイツ軍撤退を強く求めた。モスクワに戻ったモロトフは11月25日にドイツ大使のシューレンブルグを招き、リッベントロップが提示した四国条約案についてのソ連回答を口述した。「ソ連政府は、11月13日の最終階段において略述された、政治的協力と相互の経済的支援に関する四国条約を次の条件のもとに受諾する用意がある。」但しその条件の中には「1939年の協定によりソ連の勢力範囲に属するフィンランドからドイツ軍が直ちに撤退すること」が含まれていた。

ヒトラーはイギリスを講和に追い込むことに希望を持ち続け、独ソ不可侵条約は一時しのぎの手段と考えていた。ヒトラーが一時的に独ソ不可侵条約と日独伊三国同盟を結び付ける大陸ブロック構想に肩入れしたのは、米英を切り離し、大陸ブロックの威力によってアメリカに中立を守らせ、イギリスを孤立に追い込み、イギリスを講和に追い込もうとしたからだ。だが、ソ連との交渉が不調に終わった結果、ヒトラーは大陸ブロック構想を放棄し、ソ連との対決というもともとの路線に戻ってしまった。ヒトラーはフィンランドからの撤退を受け入れる意思はなかった。リッベントロップはモロトフとの会談でユーラシア連合構想を生き返らせようとしたが、スターリンの非妥協的な姿勢によって失敗に帰した。ヒトラーは1940年12月18日にバルバロッサ作戦指令を発動した。

スターリンは1940年11月の交渉後も四国連合構想が継続しているものと思い込んでいた。
日本もドイツ外交の二層性を見抜くことができなかった。外部からは外務大臣であるリッベントロップが外交戦略の決定権を持っているかのようにみえたが、ドイツの進路を最終的に決定するのは独裁者ヒトラーだった。
ドイツが1940年9月段階で行った日ソ間を「正直な仲買人」として仲介するという約束、そしてソ連を加えた四国ブロック構想に期待をかけ続けた。ヒトラーが1940年12月に対ソ開戦を決断した後も、日本は四国連合構想が生き続けているかのような幻想のもとで外交政策を進めた。1941年2月3日の大本営・政府連絡懇談会では「対独、伊、蘇交渉案要綱」として「ソ連をして所謂『リッベトロップ腹案』を受諾せしめ右により同国をして英国打倒につき日独伊の政策に同調せしむると共に、日ソ国交の調整を期す」と決定されている。

ベルリン滞在中、松岡は日本大使館で行われた夕食会で「ベルリンには独ソが戦争になるという者が多いが君たち新聞記者はどう思っているのか」との問いかけ「独ソ開戦は必至ですよ」との回答を聞くと「君たちまでそんな馬鹿げたことを信じているのか」と吐き捨てるような口調で言い残して大使館の奧に消えていった。ヒトラーは松岡の帰国に際し「貴下は天皇陛下にドイツとロシアとの紛争はありえないと報告することはできない」と述べ、通訳はゆっくりと二度繰り返して松岡にその内容を聞きとらせた。駐独大使の大島浩も日ソ条約は断念するように説得した。だが、松岡はもともとの信念を貫き通し、ベルリンからの帰路にモスクワで日ソ中立条約を締結した。

ユーラシア大陸ブロックによってアメリカとの戦争を防止するという松岡洋右の構想は1940年9月の日独伊三国同盟締結の段階では十分な成算があった。ドイツ外務大臣のリッベントロップとソ連の独裁者スターリンもユーラシア大陸ブロック結成には前向きだった。だが、その後のヒトラーとスターリンの関係悪化、そしてバルバロッサ作戦指令発動により1940年12月にはユーラシア大陸ブロックの可能性は失われていた。

1941年3月から4月にかけてベルリンを訪問しヒトラーと会談した松岡はユーラシア大陸ブロック構想が破綻したことを知ることとなった。松岡がユーラシア大陸ブロックを追求した本来の目的であるアメリカとの戦争防止という観点からいえば、ここで自らの外交戦略の誤りを認め、三国同盟の解消に動かなければならなかった。ユーラシア大陸ブロックによってアメリカに対して力で対抗するという構想が崩れた以上、三国同盟はアメリカとの協調を妨害する役割しか果たしえなかったからである。アメリカは三国同盟により日本がナチスドイツと手を組んで世界秩序の破壊に動いていると考えていた。だが、松岡が選んだ道は日ソ中立条約の締結によってユーラシア大陸ブロックという見果てぬ夢を追いかけることだった。

松岡は周辺環境の変化に対応できず、個人の面子を守るために行動し続けた。
日米開戦は松岡のベルリン訪問からわずか8ヶ月後のことだった。

佃製作所の生き残る道

2015-11-14 13:22:57 | 日記

下町ロケット2・ガウディ計画(池井戸潤、2015年)

誰も自分自身が最も大切だ。この前提の上で、職務上の義務と自分の利害関係の二者択一の局面で職務上の義務を選択させるためには、職務上の義務と個人の利害をリンクさせ、自分の利害関係として職務上の義務を実行させる制度作りが必要となる。業務実績が上がれば人事査定と昇進という報酬が与えられ、職務上の義務をきちんと遂行しない場合は人事評価が引き下げられ左遷されるのもリンク付けの一環といえるだろう。個人的な利害によって組織の意思決定を歪めたことが判明すれば人事的な制裁が加えられる。意思決定プロセスを稟議制度として複数の人間の判断を要するようにすることも有効だ。情報開示を行って不公正を見つけやすくする、内部告発を認める、といった方法を取ることも可能だろう。

だが、現実は容易ではない。誰も自分自身が最も大切である以上、これらの制度的な枠組みがすぐに形骸化してしまうからだ。人事査定を行うのは人間であり、その評価は客観的なものになりえない。人事権を有する者に従わなければ人事評価が引き下げられ、望まないポストへの転出が待っている。自分に人事評価上のメリットが無い行動は誰も行おうとしない。

医薬品や医療機器の承認審査にあたる担当者は「下手に承認して後で問題になり、出世に響くぐらいなら承認しないほうが遥かにいい」と考える。承認を通して社会に貢献しても何の人事評価ポイントにもならない。逆に少しでも問題が発覚すれば「メーカーの責任が問われ、ひいては認可した役所の責任問題に発展していく。どれだけ成功実績があっても、たった一つの失敗で社会的評価は地に落ち、裁判沙汰になって巨額の賠償を請求されるかもしれない」状況にある。安心・安全を徹底的に追求するという題目に沿って、各責任者が個人の利害としてできるだけ承認を行わない方向に進むのは当然だろう。

本書の中でPMDA(医薬品医療機器総合機構)の専門員は審査の場で次のように語っている。「こうした医療機器にはリスクがつきものでしてね。万が一、何かあった場合、あなた方にその責任が取れるかどうか心配しているわけですよ、私は。北陸医科大学はともかく、サクラダさんはベンチャーでしょ。それに佃製作所は、大田区の中小企業だ。こういっちゃなんですが、吹けば飛ぶようなところばかりじゃないですか。これで医療機器開発っていうのは、いくら何でも荷が重いんじゃないの。」「こんなペーパー、作ろうと思えば誰だって作れますよ。審査の本質っていうのはね、何を作るかという以前に誰が作るかなんだ。」
この結果、「欧米で新薬が使われ、新しい医療機器が普及して患者の命が助かっているのに、日本では厚生労働省の壁が立ちはだかって、欧米なら普通に受け入れられる治療が受けられない」状況が続いてきた。

佃製作所はこの状況から活路を見い出していく。数々の偶然もあった。だが、現実には、新しい勢力、新しいものを認めようとしない日本社会につぶされていくケースがほとんどだろう。大企業は中小企業を認めようとせず、組織は個人を認めようとしない。

佃製作所に生き残る道はあるのだろうか。

唯一の道はホンダ、京セラの先例に従って進むことだろう。
日本社会の壁につきあたった両社はアメリカに進出し、厳しい自由競争社会の中で純粋に優れた製品が評価され、生き残ることができた。因習にとらわれないアメリカ市場によって成長したのだ。

ガウディプロジェクトのメンバーは、PMDAが所在する霞ヶ関に向かうのではなく、羽田空港あるいは成田空港からアメリカに向かうべきだった。

独裁者+秘密警察>全政府機構+軍

2015-11-08 22:29:10 | 日記

ソ連極秘資料集 大粛清への道(アーチ・ゲッティ、オレグ・ナウーモフ、川上洸・萩原直訳、原著1999年、日本語版2001年)

1932年から1939年にかけてのソ連共産党史。

ソ連共産党は権力奪取と同時に内戦に引き込まれた。伝染病と飢餓が猛威を振るい、国家の経済基盤は破壊された。目的の前にすべての手段が正当化され、権力を維持し、革命を救うために赤色テロが発動された。秘密警察が設立され、冷酷に運用された。内戦の過程で逮捕、裁判、処刑の無制限の権力を持つ秘密警察が準備された。

国民の合意に基づいて成立した体制であれば合法的支配の正統性を国民の同意に求めることができる。しかし、1930年代になってもソ連共産党は国民の自発的な支持を受けたことが一度もなく、自分たちの体制の安全を守るためには強圧的な秘密警察に依存せざるを得なかった。共産党指導者は自分たちは包囲下にあり、謀略的な敵勢力を相手に不断の交戦状態にあると信じていた。共産党内では鉄の規律を維持するために党内分派の形成が禁止された。被害妄想的な心理状態と分裂への恐怖感は指導層に共有されていた。
共産党はすべての失敗を法律上の犯罪に仕立て上げた。共産党の指示は無謬であり、その指示が実現できない場合には責任者が破壊工作を行ったとして摘発された。

革命後、共産党専従の職業的党指導者は国家行政官となり、命令を発し、特権を享受し、裕福に暮らすことに慣れてしまっていた。仲間内で推挙し合い、上意下達型の人事制度、ノーメンクラトゥーラにより指名される党エリートは権力と特権を増大させていった。彼らは人類の未来は社会主義の成功に、社会主義の成功はソヴィエト革命の実験が生き残れるかどうかにかかっているとの世界観の下、ソ連共産党の厳格な規律とノーメンクラトゥーラの権力は国家にとってどうしても必要であると考えていた。個人の権力欲と特権を社会主義的な理想により合理化していたのだ。

スターリンはノーメンクラトゥーラの管理者であった。スターリン個人崇拝はソ連共産党の無謬の政治指導を象徴していた。1933年と1935年、スターリンと政治局はすべてのレベルのノーメンクラトゥーラ・エリートと結託し、一般党員をふるい分け、不良分子を追放した。追放の過程でノーメンクラトゥーラ層は自分に不都合な党員を追い出し、支配機構を固めることができた。だが、スターリンとノーメンクラトゥーラ層の利害は一致し続けたわけではなかった。

古参ボリシェビキが次々と逮捕された。ジノーヴィエフとカーメネフはトロツキーの指令に基づいて「テロリストセンター」を組織したとして摘発され、1936年8月に見世物裁判を受けた後、処刑された。
1936年9月、ヤゴダはNKDV(内務人民委員部)長官を解任され、エジョフがその地位に就いた。一度犯罪をでっちあげ、処刑を行い始めると、被害者の関係者や次の粛清を恐れる者が団結してスターリン指導部の覆滅を企てることを恐れて粛清を無限に拡大しなければならなくなった。

1937年5月、トハチェフスキーほか赤軍最高幹部が逮捕され、6月11日に銃殺された。トハチェフスキーの死後10日の間に赤軍高級指揮官980名が逮捕され、その多くが銃殺された。その後数ヶ月間にソ連軍上層部は逮捕と処刑によって壊滅状態となった。軍高官の失脚はあらゆる分野、あらゆるレベルの指導的幹部を標的とした全国的なテロを引き起こすきっかけとなった。1937年の後半に多数の人民委員部長官、地域の党第一書記のほとんど全員、さらに何千ものその他の職員が裏切者の烙印を押されて逮捕され、その大部分が1940年までに銃殺された。

ソ連は1936年新憲法により立法府たる最高会議の選挙が行われることになっていた。きたるべき複数候補者選挙により支配権が奪われるのではないかと恐れたスターリンは1937年7月3日、すべての党組織に反ソ分子の大量処刑を要求した。「帰郷したクラークと刑事犯罪人を登録して、そのなかの最も敵対的な人物をトロイカによる行政手続きで直ちに逮捕し、銃殺する。残りのそれほど活動的でない敵対的な分子はリストに記載して、NKDVの指示する地方へ追放する。」トロイカは内戦期および農業集団化の時期に設置され、通常の法的手続きを踏まずに体制の敵を迅速に処理するための裁判機関であったが、大粛清に際して地域の党第一書記、検察官、NKDV地域本部長による大量処刑の機関として復活した。7月30日、反対派の定義もはっきりしないまま、各地域での銃殺、追放の割り当て数が示達され、その業務命令に基づいて各地域の指導者は目標数値の超過達成を競った。

1938年8月、NKDVへの権力集中を恐れたスターリンはグルジア出身のベリヤを次官とした。11月になるとトロイカは停止され、エジョフは解任され、ベリヤがNKDV長官を引き継いだ。NKDVの活動は批判され、大粛清の責任を負わされた。

スターリンは権力を渇望し、個人の権力と権威を強めようとした。そして、スターリンの下に政治局員、中央委員、中央と地域の組織の有力者や書記、地区や市の党書記、専従の党活動家、そして一般党員がいた。これらの階層それぞれのグループが上からは権限をもぎ取り、下に対しては権力を行使して服従させようとしていた。

テロの対象は党エリートに限られなかった。指導者は一般党員の大量追放と逮捕を命じて自身の保身をはかった。一般党員も自分たちの上位者を階級の敵として摘発した。モロトフは以下のように回想している。「党員のキャリア志向がそれなりに一役買った。だれもが自分の地位にしがみついている。それに、いったんなにかのキャンペーンを始めたら、とことんまでやらないとおさまらないようにできていた。なにしろ、すべてがあれだけの規模で行われるんだから、いろいろなことが起りえた。」

共産党指導者とノーメンクラトゥーラ層は国内から異分子を一掃することは正しいことであると確信していた。スターリンは共産党員の信仰を利用して大粛清を進め、ノーメンクラトゥーラのエリート層全体を破壊した。

スターリンは軍、党、政府全体を壊滅させ大粛清を完遂した。モロトフが述べている通り「だれもが自分の地位にしがみつき」スターリンに向かって対抗することができなかった。周囲の者が逮捕され銃殺されている間はスターリンとともに権力の強化という果実を味わうことができた。そして、自分の生命の危険に気づいた時には既にゆでがえる状態になっていたのだ。秘密警察の監視により人々は団結することができなかった。

大粛清はスターリンの圧勝に終わった。
秘密警察の監視体制と粛清の恐怖さえあれば、独裁者は統治機構全体を思いのままに支配することができるのだ。