このブログで、「はじめての数論」という本に「はまっている」ことを数回書いた。依然として1日1ページ以下のペースで、「遅々として」進んでいる状態であり、読み始めた昨年3月からやがて一年にもなろうというのに、まだ4分の一を残している有様、当分読み終わるめどはたっていない。このことをある方に新年のごあいさつに続けて次のように書いた。
私は今「数論」に「はまって」います。数学の問題を考えていると世間の嫌なことを一刻すっかり忘れさせてくれるのがありがたいです。
いただいたお返事に、
「数論」 〇〇(私の名前)さんらしいですね。どのように展開されるか興味津々です。」
とあった。
私を励ましてくれたのであろうとは思うが、読んだときに「展開」という言葉に違和感を持った。知識として身に着け、何かに役立てようとか、これをジャンピングボードにして、次に何かをやろうとか、そういった気持ちで数論の本を読んでいるのではないので「展開」ということばがしっくりこなかった。それっきりこのことを忘れていたのだが、日経新聞に掲載された鷲田清一氏の随筆(いくつもの時間 2018/1/7付 日本経済新聞 朝刊)を読んで、私の違和感はこれだったのだ、と思った。哲学者鷲田清一氏は市井の人に読める哲学書の著者としても著名だ。この鷲田氏が、以下のように書いている。文章全体の要旨から離れるが私に印象の強かった部分のみを抽出する(・・・は途中引用省略部分)。
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今一つは日々の暮らしにおけるもう一つの時間の大切さである。・・・
望もうにも、もう一つの時間をもつというのは実際のところむずかしい。・・・
じぶんの時間なのにじぶんでどうこうできない⼈たち、時間に「あそび」の幅をもたせられない⼈たちが、世の中にはいっぱいいる。
一つの時間を⽣きる、あるいは一つの時間をしか⽣きられないというのは苦しいことである。生きものとして⼈間に無理をかけるからである。
⼈はいろんな時間を多層的に⽣きるポリクロニックな存在である・・・
ゆたかに⽣きるというのは、それぞれの時間に悲鳴をあげさせないことだ。どれか一つの時間が別の時間に無理をかけているというのは、生きものとして不幸なことだ。が、たいていの⼈はこの無理を押し隠そうとする。抑え込もうとする。
時間はいくつも持ったほうがいい。交替ででもいいが、できれば同時並⾏のほうがいい。
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翻って、私自身、停年退職後コミュニティーの活動に注力しながら並行的に基礎的な数学の勉強を続けてきたことは、鷲田氏の言葉を使えば、もう一つの時間を求めていたといえるのかもしれない。何となく我が意を得た感じがする。
かなり以前の、これもまた日経新聞からだが、若手哲学者(といっても40代らしいが)、國分功一郎氏が「半歩遅れの読書術 語学の参考書 世間が面白くないときは勉強」(2016/10/16日経新聞朝刊)という随筆(書評)をかいており、文中に学ぶことの「快感」についてドイツ語学者関口存男氏(1894年-1958年)の言葉を引いている。
「世間が面白くないときは勉強に限る。失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ」
よくわかる。非常によくわかる。まさにその通りであるの一語に尽きる。