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群論への30講(志賀浩二著)を読む(その2)

2016年03月23日 | 数学

第30講まで一応読み終えた。残念ながら、今回も全巻完全読解とはいかなかった。線形代数の知識不足から、「群環(第29講)」の理解ができず、「群の表現(第30講)」でつまづいた。ここまで来てしまうと、この本ももう終わりなので、なんとしてでも理解しようという意欲がなくなる。最後の数ページが落丁している、と思えば、この本はすべて読み終わったという屁理屈が通る。まあ良しとしよう。

さて、では群論に関して何が分かったのか。今回この本を読んで得た知識として最大の収穫は次のような言葉の理解が進んだことだ。
 「正規部分群」、「核」、「中心」、「商群」、「群の働き」、「準同型定理」、「位相群」など、
逆に今一つしっくりこなかったのは、
 「有限生成的アーベル群の基本定理」、「自由群」、「コンパクト群」、そして「群環」と「群の表現」 などがある。

段階を踏んで一つずつ理解していくと(「理解ができると」というべきか) 最後まで到達できるように書かれているという点でなかなかいい本だと思う。ただやはりまったく新しい概念をこの本の独学で理解するのはなかなか難しい。教科書的に練習問題があれば、とも思うが、ほとんどの数学の本の練習問題は解答に誤植が非常に多いので、必ずしも練習問題があればよいとも言えない。もっともこれはこの本が悪いのではなく、一人で本と格闘するという勉強のスタイルの問題なのだろう。今思うと、一言誰かがヒントを出してくれたら、何日もかけて考えることはなかっただろうという部分がかなりあった。加えて、理解と記憶のギャップが大きかった。如何に完璧に理解しても、それはその時の話、数日たつと記憶から抜け落ちるため次のステップが理解できなくなるのはどうしようもない。行ったり来たり、3歩進んで2歩下がる、時には索引でどこに書いてあったかを探して数十ページ戻ってやり直し、ということの繰り返しがあり、結局2カ月かかった。

そうだ、索引で思い出した。今まで数学のいろいろな本を読んだが、巻末の索引はどうもコンピュータソフトで作っているらしい。このソフトには大きな欠陥がある。 本文の記載はもれなく拾って索引として記載されているが、章や節の文言を索引に載せないというのがどの本でも一般的だ。おおむね章・節に記載される言葉はすぐ近い本文に記載されているので支障はないが、これが時に困ったことになる。この本でも「巡回群」というのは第9講の表題だが、索引では第18講のページを示している。第18講を読んでいて、「巡回群」の定義を確認しようとすると「なにこれ!」ということになる。何とかならないものか。

5次方程式の解の公式(の不存在)とガロアの理論が理解できなくて、そもそも群論とは、ということに興味を抱きこの本を読み始めたのだが、今度はもう一度5次方程式に返ってやり直してみようかと考えている。ガロアの理論はおそらく「群環」や「表現」あるいは「代数=環」が分からなくても何とかなるのではないかと期待しているが、さてどうだろうか。


群論への30講(志賀浩二著)を読む(その1)

2016年03月08日 | 数学

群論への30講(志賀浩二著、朝倉書店1989/8/25初版第1刷)を読んでいる。実は6年前に一度この本を読んだが、途中で分からなくなり読むのをやめていたので、再チャレンジになる。その後数年間、群論やアーベル・ガロアの理論についての一般的な本を読んでいるので、今回は以前ギブアップした部分よりも先に進めるのではなかろうか、と目論んだ次第。
取り敢えず前回ギブアップした19講をクリアし20項まで到達したので、「その1」としてここまでの記録を残すこととした。

前回つまずいたのが、群Gの正規部分群Hによる商群G/Hという概念。この概念の理解不足から、準同型定理、第1第2同型定理の証明がどうしても理解できなかった。今回は、何度も何度もテキストの読み終わった部分を再読することによってやっと理解できた(正確には、理解できたという気持ちになったというべきか)。

数学の定理の証明は用語の定義と証明済みの定理に基づく純粋な推論の積み重ねだが、「理解できない」というときのケースの多くが、「推論」ができないことによる。つまり、「AならばBだ」、だから「PならばQだ」ということが分からないとき、「AならばBだ」ということは理解できるけれども、「だから」という推論の部分が理解できない。なぜ、「AならばBだ」が、「だから」、「PならばQだ」につながるかがわからない。こうした場合の多くは、実は推論自体が理解できないのではなく、用語「A」、「B」、「P」、「Q」の厳格な定義を理解していないことによる。厳格な定義と、なぜそのような用語を定義しているのかが分かってくると、その定理がそもそもどういう意味合いを持っているのか、論理の流れの中でどの方向を向いている定理なのだろうか、ということのイメージが湧いてくる。そうなると、「だから」という論理の積み重ねが理解できることに気づいた。抽象的な論理・推論の操作というのは本当に難しいが、定理を読んで、「それはそうならないとおかしいよ」というように感じられるようになると推論が頭に入ってくる。不思議なものだ。

さて、ここまで来るのに1か月半かかった。この調子で最後の30講まで読み切ることは可能だろうか。もうしばらく残り10講を理解する努力してみよう。