読書と数学、そしてPC

読書、数学、パソコンが趣味

パソコンのデフォルト設定を高齢者向けにせよ

2014年09月25日 | パソコン

世間の常識では、高齢者はパソコンやスマホは不得意でいわゆる「ディジタルディバイド」されている者が多い、ということになっているようです。でも少し違うと思う。団塊の世代が高齢者区分に入りつつある。また「大都市シニア層のネット利用率は高い」「60歳以上の年代のインターネット利用は拡大傾向」、「65~69歳のインターネット利用率は、過去4年間で、57%→69%」(総務省調べ)http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/statistics/statistics05a.html

ということは、これから人口の高齢化に伴い、パソコンなどの情報機器ユーザーの年齢はどんどん高まり、若者たちの比率は落ちていくということです。現に年金生活に入った人たちが同窓会を開くときの案内は今や郵便ではなくメールを使っている。こうした実態を電機業界、情報機器・ソフト業界はどこまで気付いているのだろうか。

 なぜ私がこういうことを言うかといえば、最近のウィンドウズOS やオフィス系ソフトの開発をしている人たちが高齢者に目を全く向けていないのではないか、利用実態を把握していないのではないかと強く感じるからです。爆発的だったウィンドウズ95の発売の時期に私は初めてPCを購入し、以来仕事に趣味にパソコンを毎日のように使ってきたので、一般のサラリーマン(除くIT技術者)と比べて、ソフトハード面の知識水準はかなり上位だと自負していますが、最近ウィンドウズ8.1のノートパソコンを購入してきわめて腹立たしく思ったからです。

パソコンの使用にあたって高齢者は若者とどこが違うかというと、最大のポイントは「目」です。視力です。小さな文字は読めないのです。だからパソコンの文字も大きくし、11ポイント以上にしないと使いづらいのです。マイクロソフト社の技術者はおそらく「そんなことは知っている、だから文字の大きさを調整できるようにしてある、虫眼鏡機能も付いている。」というに違いありません。確かにほとんどの字は大きくなります(ただしそのやり方が分かるまでにかなりの時間と知識が必要です)。また、虫眼鏡は画面の一部のみが拡大されるので不便です。「あなた方は文字を大きくして使っている高齢者ユーザーの意見・使い勝手をヒアリングしたことがあるのですか」と言いたいのです。どうやっても大きくならない文字があります。「これ以上大きくすれば画面が正常に表示されないことがあります」などという脅し文句が出てきます。幸い私は近視だから、めがねをはずしてディスプレイから10cmぐらいのところに顔をくっつけていけば何とか読めます。それでもどうしてわざわざ小さい文字の色まで薄くするのですか。見た目がきれいでも読めないものには意味がありません。高齢者は自分のパソコンのカスタマイズは若者にやってもらえとでもいうのでしょうか。孫の勉強を邪魔したくない、せっかく休みにくつろいでいる息子たちに迷惑をかけたくない、というのはいけませんか。

OSの大幅変更も厄介なことの一つです。私の場合、8.1の「タイル式」スタート画面を使わず、以前と同じデスクトップ方式にして使っていますが、一般に高齢者はこのような操作要領の大幅改定にはついていけないでしょう。自動車産業を見習うべきです。彼らは高齢化社会に対応して、70歳を過ぎた者でも新しい車が買えるように、衰えた身体能力でも従来と同じように運転できる車の開発を目指しています。

やがてスマホもタブレットも市場が飽和するにちがいありません。金を持っているのは若者ではなく、高齢者です。高齢者は若者と異なり、自分にとってのコストパフォーマンスは自分が決めます。まわりの人と比べて、という意識は低いのです。自分に役立つ物を買う金はあるのです。

おそらくマイクロソフト社はアメリカが日本ほど高齢化していないからなかなか気が付かないでしょう。気づいていないから、オフィスの画面のメニューは文字がうすくて見づらい、エクセルは、1ページから少しはみ出した資料を無理やり1ページに納めるためにボタン一つで全体を縮小するなどというばかげた機能を持たせている。結果として余白だらけで文字が小さいという資料を作った若手社員は老眼の役員に叱られる。

無給でいいからマイクロソフト社のソフトウェア開発のアドバイザーになって、若手技術者を叱り飛ばしてやりたい。「デフォルトを高齢者とせよ」というのは私一人の愚痴なのでしょうか。

どのメーカーが高齢者に好まれるか、それが企業の生き残りのポイントとなるということに早く気付くのは日本のメーカーか、韓国台湾のメーカーか、いま私はそういう目でこの業界を見ています。

 

 


互いに素、relatively prime

2014年09月10日 | 数学
オイラーのファイ関数φ(n)というものがある。数学のテキストでは、「任意の整数nに対して、1からnまでの整数のうちnと互いに素である数の個数を表す関数」 とある。ではn=5およびn=1ならば、φ(n)の値は何であるか。
私は「互いに素」という言葉は、relatively prime、つまり、相対的に素数、という意味から類推して、5と「相対的に素数」である数は、5を割り切ることのできない2,3,4だからφ(5)=3、1及びそれ以下の1以上の数は1しかないし、1を割りきることができる数は自分自身、つまり1のほかには存在しないから、φ(1)=0と考えてある数学の本を読んでいたが、どうも矛盾する。この本の内容はφ(1)=1、φ(5)=4と考えないとつじつまが合わない。
どうしてだろうと考えた。そして、やっと気付いたのは、「互いに素」という言葉は数学では厳密な定義があるはず、ということで、いろいろと調べてみると、やはりあった。そして私の考えの間違いに気付いた。「2つの整数が互いに素」とは「2つの整数の公約数が1のみであること」、となっていた。
ということは「1と1の共通の約数は1しかないから、1と1は互いに素」なのだ。だからφ(1)=1なのだ。しかし、5と5は共通の約数は1と5だから、「互いに素ではない」、つまりφ(5)=4、(1,2,3,4の4個の数が5と互いに素)なのだとわかった。
普段見慣れない言葉、明らかに数学的な言葉ならその言葉の「数学としての定義」を意識するが、こうした「互いに」などという普通の言葉を使われると意外と落とし穴にはまるものだと気付いた。

それにしても、ガロアの群論は難しい。ガロア群の概念がなかなかつかめない。定義がわかったつもりでいても、少し論理が進むと付いていけない個所が出てくる。1ページ読むのに3日ぐらいかかる個所が出てくる。こういうことを教えてくれる教室はないものか。どうして新聞社などが主催するカルチャーセンターや、社会人向けの大学のコースにはまともな数学がないのだろうか。数学読み物ではなく、数学として、定義と証明と定理に基づいた、論理的にきちんとしたレクチャーが聞きたい