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ソウルから南へ40キロの水原華城と正祖

2013-01-02 | 韓国事情


水原華城の由来と歴史
水原はソウルから南へ約40キロ離れたところです。水原は京畿道庁があることろでもあります。京畿道には約1200万人が住んでいる人口密度の高い地域でもあります。日本と同じ現象ですが都市部とその他の地域の人口の差はますます大きくなる一方です。先日、日本でも選挙の際に大きく取り上げられたのが一票の格差ですが、その一方では都市部以外の所の人口はどんどん減っている現象に一票の格差だけを的にすべきなのか少々不安も私は抱えています。なぜなら、人口と予算はかけ離れる事は有り得ないからです。とにかく、水原は京畿道の中心地です。昔で言えばいわば、南部地方からソウルに入る前の関門的な町とも言えると思います。

水原の華城は1794年から1796年まで築城されました。約2年間で長さ約5キロ以上の城を作り上げたのです。しかし、この城は日本の占領時代と1950年朝鮮動乱の時に殆どが破壊されました。それにも関わらず、1997年にユネスコが指定する世界文化遺産に登録されました。この登録の際には他の文化遺産とは違う点がありました。それは先にも話しましたように華城は原本ではないと云う事です。後で復元されたものでした。そしたら、皆さんはそれはいけないよと思うかも知れません。しかし、ユネスコが登録したのはちゃんとした訳があったのでした。それは華城を築城した当時の設計図など精密な記録である華城城役儀軌があったからでした。華城城役儀軌と言うのは卷首が一巻、本編が6巻、附編が3巻となる全部で10巻となる大きな記録物です。この本には築城法がとても詳しく記録されているんです。その中では擧重機(いわば今日のクレーン)など築城に使っていた機械なども精密な図と説明が記されているのです。それ以外にも工期、関係者の名簿、遣り取りした公文書、職人の名簿と支給された賃金、資材の名称を需要と費用などなど工事に関わるイロハがすべて書き込まれているんです。これを見てユネスコの担当者もうなずくしかなかったと言うことです。

大阪なにわ医療生協の韓国訪問団の水原華城見物の時に

築城した当時の王様であった正祖はどんな人物?
華城を築城した理由については色んな説があります。皆さんの中でもこの前に韓国KBS2で放映された<ソンキュンカン(成均館)のスキャンダル、20話>をご覧になった方がおられるかも知れませんが、そこで正祖の立場や人物像をある程度は描かれたと思います。<ソンキュンカンのスキャンダル>で描かれた正祖の人物像は常に改革を推進する人物でした。なぜでしょう?庶民のためだったんでしょうか?残念ながら私はそうではないと思っています。それは自分の父を殺した人々への怨念から始まったのではないかと思います。その人々というのは自分の直前の王様であった英祖(自分の祖父)と英祖を囲んでいる権力集団だったと思います。亡くなった自分の祖父はこの世にいないから自分が鬱憤を発散させる的はやはり当時の権力集団だったんでしょう。

人類歴史は権力と経済力は切り離せないことを証明しています。正祖も自分の父を殺した権力集団をどうしても解体したかったでしょう。その代表的なのが華城の築城ではないかと私は解釈しているわけです。華城の築城により都を新しく築城したところに遷都したら既存の首都に経済基盤を蓄積してきた権力家たちは当然困ってしまうでしょう。その辺を正祖は狙ったのではないかと私は推定しています。あくまでも推定と言う言葉を使ったのは正祖は華城への遷都はまったく言明していなかったですから推定と言う言葉を使ったのです。そのくらい王様の権力は臣下たち権力集団に比べると弱かった証明かも知れません。正祖に比べると韓国の前大統領だった盧武鉉は遷都はできなかったものの自分の口からちゃんと言明まではしたのですから民主化により民を抱えている政治家って凄い力を持てるんだなって思ったりしました。とにかく、朝鮮王朝は最後まで常に王様と臣下と呼ばれる権力家達との戦いの緊張がはりはりしていたのです。先にも言いましたように権力は経済力から生まれるのです。そして朝鮮の王様たちはその権力家達から経済力を少しでも奪って儒教の政治理念だった仁徳な政治を民のためにできるかが最大の目標なようなものでした。

大阪なにわ医療生協の韓国訪問団の水原華城見物の時に

この築城以外にも正祖は色んな改革を進めていました。これも権力家たちの力を少しでも無くすために稼動してた改革案ですが、それは官吏登用試験でした。日本は官吏登用試験の制度がなかったので(もちろん明治期からは試験で官吏を登用するようになりました)あまり馴染まない話かも知れませんが韓国の場合は高麗時代から官吏は試験で選んでいました。この面から見ると韓国と日本の役人が強い力を持っている訳が少しは見えるし分かるような気がします。近代国家時代の以前は試験で官吏を選んでいる国はそんなになかったんです。とにかく、正祖は普通は年1回の試験を色んな特別試験を開催してどんどん官吏を登用したんです。少しでも既得権を持っている権力家たちから力を無くすためだけに。

大阪なにわ医療生協の韓国訪問団の水原華城見物の時に

もう一つ華城築城する際にあった話を紹介しますと民のために牛を農家にどんどん送って飼うようにしたことです。今も水原のカルビは美味いと評判ですが、その訳を辿って行けば正祖から送られた牛があるのです。農耕社会だった朝鮮で牛は大事なものでした。牛が農家の最大の財産だったことは’牛骨塔’と言う言葉からも推察できます。その意味は韓国農業が機械化される前の1960年代70年代初期まで韓国の大学をそのような呼び名で皮肉したのです。それはソウルの大学に息子を通わせるためには農家の最大の財産であった牛を手放したお金で大学は立派な建物を建てたと言うことを皮肉したのです。そのくらい牛は韓国人に取って、農民に取って(当時は殆どの人が農民)大事な財産だったんです。今でも水原に近い韓国民俗村に観光客が多く訪れるんですが、その際には必ず言って良いほど水原カルビを召し上がる場面を目にします。水原カルビを召し上がった方~!美味かったでしたか?

大阪なにわ医療生協の韓国訪問団と私が住んでいる安山医療生協との交流祭の時に安山医療生協の組合員たちの子供たちで構成されたちょっとした韓国伝統衣装を着て伝統童謡とパファマンス


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