戦車男(せんしゃおとこ)

戦車に関することなら何でもあり。また記事には、作者の保守主義の精神が随所に見られる。必見のブログ!

戦車の装甲①

2005年09月01日 15時36分38秒 | コラム
戦車の大きな特徴といえば、その攻撃力と防御力の強さである。今回はその防御について書いてみよう。

まず、装甲というものが、どのような歴史をたどっていったのか見てみたい。

戦車が登場した当初、装甲板はボルトによってつながれ、形成されていた。装甲は硬い特殊な金属を使う上、砲弾を弾くために厚くなっているため、その工作は非常に難しいのである。だが、ボルト締めの構造は強度的に不安があり、新たな技術が求められた。

それがリベット(鋲)止めの方法であり1920から30年代の戦車に広く使われた。この方法は、鋲によって金属板同士を留める方法であり、当時の船舶や航空機などに広く使われていた。しかしながら、この方法にもいくつかの問題があった。そのひとつは、重い装甲の上に、さらに鋲の重さが加わるために、重量が増加してしまうことであった。さらに、リベットに銃砲弾が命中した際、リベットが車内に飛散し乗員を死傷させるという恐れがあったのである。

以上のような問題を克服するために、1930年代から実用化され始めたのが溶接方式である。装甲と装甲の間に接着剤となる金属を溶かしてくっつける方法である。この方法は第二次世界大戦中に各国の戦車の生産に普及し、現在に至るまで使用されている。

これとほぼ同時に利用され始めたのが、鋳造方式による戦車の生産である。鋳造方式とは、戦車の構造の型に、融解した金属を流し込んで作る方法である。簡単に言えばたい焼きと同じ方法である。この方法の利点は、ただ型に流し込むだけなので、大量生産が可能な点と、曲面の装甲を作るのが容易な点である。鋳造方式以外の装甲板同士をくっつけるやり方では曲面の装甲を製作するのは難しい。一方、この方法の欠点は、複雑な構造は製作できないことと、装甲板の強度が一定にならないことである。とはいえ、第二次世界大戦後も、ソ連(ロシア)を中心に広くこの方法は利用されているので、優れた技術といえよう。

今回は第二次世界大戦までの歴史を見ることにして、次回は第二次大戦後と装甲についての考察を書いてみたいと思う。

旧日本軍戦車に対する一方的な断罪を斬る!

2005年08月08日 18時02分09秒 | コラム
旧日本軍の戦車に対するイメージを人々に尋ねてみたところで、大体の場合、「わからない」とか、「知らない」といわれるのが関の山であろう。たとえもし、イメージを持っている人がいても、たいてい「装甲が薄いブリキ戦車」、「鉄の棺桶」といったようなとても悪いイメージである。

非常に有名な小説家に、司馬遼太郎氏がいる。彼の読者であればご存知ではあると思うが、司馬氏は戦時中、戦車連隊に所属していた。彼はそこでの経験から、自身の著書の中でしばしば戦車について触れている。しかし、そこで描かれる旧日本軍戦車のイメージは、上記のような悪いものであり、それが一般的イメージになってしまったのである。では、当時の日本の主力戦車であった97式中戦車を通じて、その断罪について考察してみよう。

97式中戦車の登場した1938年の当時、その性能は決して世界から立ち遅れたものではなかった。その主砲も、装甲も、エンジン、車体等、カタログデーターからしても当時の世界において第一級の戦車であった(97式の短砲身主砲57mmに対して当時の主流は30~50mmで、装甲厚は同様に25mmに対し10mm~30mm程度、エンジンはディーゼル200馬力に対しガソリン100~300馬力、重量は約15トンに対し10トンから20トンであった)。

このような第一級の戦力を持った日本の戦車が、なぜ世界水準から立ち遅れあれほどまでの汚名を着せられてしまったのであろうか。その要因は大きく分けて2つある。

1つは、日本が戦車技術を発達させるべき手ごわい敵や、強力な戦車を必要とする状況に直面しなかったことである。確かに、ノモンハンでは日本は痛い目にあったが、結局、日本の当面の主敵はシナであった。彼らに対してはせいぜい機関銃程度を防げる装甲を持ちさえすればよく、またシナ戦線においては拠点戦闘が主であり、そのためには対戦車戦に向いた長砲身砲ではなく、歩兵・陣地に対して破壊力のある大口径の単身砲が向いていたのである。

大東亜戦争に入っても、その状況には大差はなく、植民地に配備されていた装甲車両に特に苦しめられるということはなかった。さらに、大東亜戦争においては、基本は南方の島嶼攻略・防衛であり、ジャングルの茂る島嶼での戦車の価値は低く重視されなかった。重い戦車はそれだけ輸送にコストがかかり敬遠された。

このように、日本が戦車の改良を必要としない状況にあった中、世界の戦車技術の発達は今までにないテンポで進んでいた。特に独ソ間での戦車の発達は極めて著しいものであった。1939年の第二次世界大戦の開戦からその中盤となる1943年までに、日伊を除く列強各国の主力戦車は、戦車の強さの目安となる重量だけ見ても、10~20トン程度から30~40トン程度の倍増していた。日本だけが技術発達から遠く取り残されてしまった。これが二つ目の要因である。

確かに日本が技術を軽視し、簡単な増加装甲の取り付けや、砲の換装を怠ったことは否めない。ドイツから拝借したノイマン効果の砲弾の技術も、もっと早くに実用化すべきであった。たとえ強力な戦車や対戦車砲がなくとも、ドイツのパンツァーファストのようなものが開発されていれば、アメリカのM4シャーマン相手に地雷を抱いた特攻をせずにすんだだろう。こういった事実は反省して余りあることである。

しかしながら、当時、戦車を実用化し、国産した国はいくつあっただろうか。有色人種の中で国産に成功したのは日本だけであるし、一時的にせよ世界の第一級の性能を誇ったのである。反省は強く胸に刻みつつも、こういった日本の偉大さも忘れてはならないだろう。今の視点からひたすら怠けていた、レベルが低かったと卑下するのはあまりにも尊大な態度ではないだろうか。そういった点から司馬氏の断罪を承服しかねるのである。