福祉フォーラムでの・・
体験発表をされた方の内容を紹介します
「生きていることに感謝している」
・
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発病してから40年以上の闘病生活を送っている私の経験、そして、今こうして元気でこの席にいることの幸せをかみしめていられるのには、どれほど多くの人の支えがあったからかということを伝えられたらと思い、この壇上に立ちました。
表面上、明るく毎日の生活を送っている私にも、心の中でどうしても消せない悩みを持ち続けていました。その引きこもりとして現れたのは、兄の子供ができて私が叔母となった直後の21歳のことでした。初孫誕生に喜ぶ両親、その幸せに影を落としてしまった私の発病。やがて父の死。父の35日の法事を終えた翌日。私は病院に入院。それが長い長い入退院を繰り返す生活の始まりでした。三か月入院したでしょうか、とても心を癒してくれる入院生活でした。
さぁ、父のいなくなった分も頑張らねばと思っていた私に町のお医者さんが言った言葉は「動脈硬化です、一日中働くのは無理でしょう」。
今思いますと、この時、家を出る等という無謀なことをしなければ、それから続く山あり谷ありという波乱万丈の生活を送ることなく、平坦な道を歩けたのではないでしょうか。外へ出たこともなく、家族に見守れた生活をしてきた私には、1人での生活は大変なものでした。職探し、家を借りた家賃、毎日の生活費、すぐに行き詰りました。
忘れもしません、あの日。いくら40年前とはいえ、1,500円という安い家賃の家を借りていた私が、電気屋さんに行ってステレオを運んでもらったりレコードを買ったりしたのです。支払い能力のない私ですから、家族の方に連絡が行き、突然兄と妹が来て、「ステレオは引き取ってもらいレコードは支払ったから」と言って、すぐ車に押し込むような形で病院に連れていかれました。そこは、家からずっと離れた病院でした。
すぐ鍵のかかったところへいれられた時の私の恐怖心、前回の入院は開放で松の木や家々の花が咲いているのが見える病室の入院でしたのに。それは雲泥の差でした。その時の「私は悪いことをしたから入院したんだ」という気持ちがずっと尾を引いていました。
そして、退院して働きはじめては又入院と。何回職を変わったでしょうか。ケーキ屋さんでは、つり銭の間違いで店に迷惑をかけたと、ビニール工場では手が遅いからと休むようになり、養護施設で働くようになって喜んでいた時には。仕事で遅くなって家に帰った時、鍵がかかっていたので、私が帰っても待っていてくれないとひがんだりと(今思うと、夜なのだから鍵がかかっていても当然なのに)いじけた生活でした。
でも長い入院生活を送り、10年前に戻ってきた病院で良い先生に出会い、先生の勧めでで通い始めたデイケアで私は変わりました。自分と同じ病気と闘う仲間とプログラムを共にし、悩みを語り合う中で、私は自分の病気と向かい合うことができました。
そして、家族会のみなさんやボランティアの方たちとメンバーさんとでやっている{100円喫茶}を知り、私もやってみたいなぁと思いながら、なかなか言い出せなかったのですか、ある時思い切って言いましたら「どうぞ働いていただきます。」との返事。デイケアのスタッフも応援してくれ私のウェイトレスとしての生活が始まりました。
何年ぶりでしょう。初めて戴いた250円のお給料は嬉しくて仏壇に供えました。
いつも暖かく応援してくださる方達の中でいろいろなことを学びました。人生経験豊富なボランティアの方達、私と同じ病気を持つ家族を支えてきた家族会の人達の苦労を知り、家族がどんなに私を愛してくれたか、家族に対してあの時なぜ入院させたのだろうと恨みがましい気持ちが、今こうしていられるのも、あの時入院させてくれたからと思えるようになりました。
自分は、迷惑ばかりかけていた厄介者だといっていた私は、今喫茶に来るのを楽しみにし、『おいしかったよ、御馳走さま』という声に励まされながら、毎週木曜日の喫茶の開店日をとても楽しみにしています。
糖尿病、高血圧、肥満とガタガタにくずれそうな体ですが、皆さんから「いつも元気ね」といわれるようになった私。心の病はだいぶよくなってきたかな。今度は食事や運動に注意して本当の健康体にならねば。多くの人に支えで、今こうして生活している。“すきま風”の歌詞のように、生きてさえいれば“優しさに、微笑みに、幸せにめぐり会える”。それを体で感じて生きていることに感謝している私です。
生きていると・・・
悲しいことも・・・
つらい時も・・・
でも・・・
楽しいこともたくさんありますよ・・・
郵ちゃんバンドと、どこかで逢えたらいいですね・・・
体験発表をされた方の内容を紹介します
「生きていることに感謝している」
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発病してから40年以上の闘病生活を送っている私の経験、そして、今こうして元気でこの席にいることの幸せをかみしめていられるのには、どれほど多くの人の支えがあったからかということを伝えられたらと思い、この壇上に立ちました。
表面上、明るく毎日の生活を送っている私にも、心の中でどうしても消せない悩みを持ち続けていました。その引きこもりとして現れたのは、兄の子供ができて私が叔母となった直後の21歳のことでした。初孫誕生に喜ぶ両親、その幸せに影を落としてしまった私の発病。やがて父の死。父の35日の法事を終えた翌日。私は病院に入院。それが長い長い入退院を繰り返す生活の始まりでした。三か月入院したでしょうか、とても心を癒してくれる入院生活でした。
さぁ、父のいなくなった分も頑張らねばと思っていた私に町のお医者さんが言った言葉は「動脈硬化です、一日中働くのは無理でしょう」。
今思いますと、この時、家を出る等という無謀なことをしなければ、それから続く山あり谷ありという波乱万丈の生活を送ることなく、平坦な道を歩けたのではないでしょうか。外へ出たこともなく、家族に見守れた生活をしてきた私には、1人での生活は大変なものでした。職探し、家を借りた家賃、毎日の生活費、すぐに行き詰りました。
忘れもしません、あの日。いくら40年前とはいえ、1,500円という安い家賃の家を借りていた私が、電気屋さんに行ってステレオを運んでもらったりレコードを買ったりしたのです。支払い能力のない私ですから、家族の方に連絡が行き、突然兄と妹が来て、「ステレオは引き取ってもらいレコードは支払ったから」と言って、すぐ車に押し込むような形で病院に連れていかれました。そこは、家からずっと離れた病院でした。
すぐ鍵のかかったところへいれられた時の私の恐怖心、前回の入院は開放で松の木や家々の花が咲いているのが見える病室の入院でしたのに。それは雲泥の差でした。その時の「私は悪いことをしたから入院したんだ」という気持ちがずっと尾を引いていました。
そして、退院して働きはじめては又入院と。何回職を変わったでしょうか。ケーキ屋さんでは、つり銭の間違いで店に迷惑をかけたと、ビニール工場では手が遅いからと休むようになり、養護施設で働くようになって喜んでいた時には。仕事で遅くなって家に帰った時、鍵がかかっていたので、私が帰っても待っていてくれないとひがんだりと(今思うと、夜なのだから鍵がかかっていても当然なのに)いじけた生活でした。
でも長い入院生活を送り、10年前に戻ってきた病院で良い先生に出会い、先生の勧めでで通い始めたデイケアで私は変わりました。自分と同じ病気と闘う仲間とプログラムを共にし、悩みを語り合う中で、私は自分の病気と向かい合うことができました。
そして、家族会のみなさんやボランティアの方たちとメンバーさんとでやっている{100円喫茶}を知り、私もやってみたいなぁと思いながら、なかなか言い出せなかったのですか、ある時思い切って言いましたら「どうぞ働いていただきます。」との返事。デイケアのスタッフも応援してくれ私のウェイトレスとしての生活が始まりました。
何年ぶりでしょう。初めて戴いた250円のお給料は嬉しくて仏壇に供えました。
いつも暖かく応援してくださる方達の中でいろいろなことを学びました。人生経験豊富なボランティアの方達、私と同じ病気を持つ家族を支えてきた家族会の人達の苦労を知り、家族がどんなに私を愛してくれたか、家族に対してあの時なぜ入院させたのだろうと恨みがましい気持ちが、今こうしていられるのも、あの時入院させてくれたからと思えるようになりました。
自分は、迷惑ばかりかけていた厄介者だといっていた私は、今喫茶に来るのを楽しみにし、『おいしかったよ、御馳走さま』という声に励まされながら、毎週木曜日の喫茶の開店日をとても楽しみにしています。
糖尿病、高血圧、肥満とガタガタにくずれそうな体ですが、皆さんから「いつも元気ね」といわれるようになった私。心の病はだいぶよくなってきたかな。今度は食事や運動に注意して本当の健康体にならねば。多くの人に支えで、今こうして生活している。“すきま風”の歌詞のように、生きてさえいれば“優しさに、微笑みに、幸せにめぐり会える”。それを体で感じて生きていることに感謝している私です。
生きていると・・・
悲しいことも・・・
つらい時も・・・
でも・・・
楽しいこともたくさんありますよ・・・
郵ちゃんバンドと、どこかで逢えたらいいですね・・・