2021年1月6日(水) 祈り会
聖書:詩編 146:1〜6a(新共同訳)
きょうの146篇から詩編最後の150篇までの五つの詩編は、詩編を締めくくる讃美の詩編が続きます。この五つの詩編は、最初と最後にハレルヤがあります。ハレルヤは「ヤ(主、神)をハレル(讃美)せよ」という意味です。150の詩編、様々な詩編がありましたが、最後は讃美で締めくくられます。
1節「ハレルヤ。/わたしの魂よ、主を賛美せよ。」2節「命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。」
詩人は、神と共に生きるという経験を重ねてきています。神に包まれ、神を感じつつ生きています。1~2節を読むと、「讃美しなければならない」とか「讃美すべきだ」といった義務感は全く感じません。神に造られたもの、神と共に生きる者の欠かすことのできない当たり前の行為として讃美が語られます。
詩人は自分の信仰を確認するように、自らに「主を賛美せよ」と語りかけます。詩人にとって讃美は、信仰告白に通じる意味合いがあるように思います。詩人は自らの神経験に導かれて「命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう」と告白します。どういう信仰生活をすると、こういう信仰が育まれるのだろうかとうらやましく思います。まるで呼吸をしているだけのように、信仰の言葉が出てきます。詩人は、神の御前にあり、神と共にあり、神に包まれて生きています。
詩人は、神を知っています。神の導きを知っています。だから言います。3~4節「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。/霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。」
詩人は、イスラエルが北イスラエルも南ユダも滅んだことを思い起こしていたのでしょうか。預言者イザヤは語りました。「災いだ、助けを求めてエジプトに下り/馬を支えとする者は。/彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。・・エジプト人は人であって、神ではない。/その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。/主が御手を伸ばされると/助けを与える者はつまずき/助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。」(イザヤ 31:1, 3)
残念ながら人間には救う力はありません。死に至れば、土に帰り、人の思いも失われます。
「彼の思いも滅びる」は他の新しい訳を見ると、「彼の企ても滅びる」(聖書協会共同訳)や「彼の計画は滅び失せる」(新改訳2017)と訳していて、人間の抱いている計画のはかなさが感じられます。聖書は語ります。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言 29:21)
ここまでのところで「魂」「霊」という言葉が出てきました。人は、人間が目に見える体だけでないことを感じてきました。他にも「精神」や「心」という言葉も使われます。目に見えないものを表現しているので、重なり合う部分もあって、明確に区別するすることはできませんが、その言葉の特徴はあると思います。
霊という言葉は、神とのつながり、目に見えないものとのつながりを表します。聖書は当然、神とつながることを勧め、聖霊を受けるようにと語ります。ヨハネによる福音書では、復活されたイエスが弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ 20:22)
ちなみに霊という言葉は元々「動く空気」という意味で、呼吸や風も意味します。そこからも命とつながりのある言葉として理解されています。4節では「霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる」と、霊が失われるとき、命も失われるという理解が示されます。これは、創世記 2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という理解から来ているものです。詩人も、神は命の源であり、神とのつながりが失われるとき、命もまた失われるという信仰に立っています。
ですから、詩人は命の源である神に依り頼み、神と共に生きるところに、命があり、幸いがあると考えています。5~6節「いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人/天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。」
詩人は、神を仰ぎ見るとき、神の御許に救いと命と未来を見ます。だから詩人は1節「わたしの魂よ、主を賛美せよ」と自分自身に語りかけるのです。
魂という言葉は、感情・意思・思考など心や精神という言葉で表されるもの、そして命も含めたその人自身を表す言葉です。詩人は、自分自身を余す所なく神へと向けていこうとしています。聖書の別の表現だと、イエスが第一の掟として言われた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして(あなたの神である主を愛しなさい)」(マルコ 12:30)と同じことを言っていると思います。
詩人は、自分の喜びが神にあることを確信して、自分自身に呼びかけます。「ハレルヤ。/わたしの魂よ、主を賛美せよ。」詩人は、造られたものすべてを愛し、その救いのために今も生きて働かれる神の御業の中で生きています。この喜びを表すには、讃美がふさわしいのです。だから詩人は「主を賛美せよ。/命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう」と自らの喜び・信仰を告白するのです。
皆さんも礼拝において、御言葉を聞くとき、祈るとき、讃美するとき、詩人と同じように神を味わい知ることができますように。皆さんの魂が、神に出会い、喜びと希望に満たされていきますように。
ハレルヤ
父なる神さま
詩人があなたと共に生きたように、その魂の隅々まであなたを経験し、知ったように、わたしたちも今までにも増してあなたを知り、あなたと共に歩むことができますように。どうかあなたにある喜びと希望をわたしたちにもお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:詩編 146:1〜6a(新共同訳)
きょうの146篇から詩編最後の150篇までの五つの詩編は、詩編を締めくくる讃美の詩編が続きます。この五つの詩編は、最初と最後にハレルヤがあります。ハレルヤは「ヤ(主、神)をハレル(讃美)せよ」という意味です。150の詩編、様々な詩編がありましたが、最後は讃美で締めくくられます。
1節「ハレルヤ。/わたしの魂よ、主を賛美せよ。」2節「命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。」
詩人は、神と共に生きるという経験を重ねてきています。神に包まれ、神を感じつつ生きています。1~2節を読むと、「讃美しなければならない」とか「讃美すべきだ」といった義務感は全く感じません。神に造られたもの、神と共に生きる者の欠かすことのできない当たり前の行為として讃美が語られます。
詩人は自分の信仰を確認するように、自らに「主を賛美せよ」と語りかけます。詩人にとって讃美は、信仰告白に通じる意味合いがあるように思います。詩人は自らの神経験に導かれて「命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう」と告白します。どういう信仰生活をすると、こういう信仰が育まれるのだろうかとうらやましく思います。まるで呼吸をしているだけのように、信仰の言葉が出てきます。詩人は、神の御前にあり、神と共にあり、神に包まれて生きています。
詩人は、神を知っています。神の導きを知っています。だから言います。3~4節「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。/霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。」
詩人は、イスラエルが北イスラエルも南ユダも滅んだことを思い起こしていたのでしょうか。預言者イザヤは語りました。「災いだ、助けを求めてエジプトに下り/馬を支えとする者は。/彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。・・エジプト人は人であって、神ではない。/その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。/主が御手を伸ばされると/助けを与える者はつまずき/助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。」(イザヤ 31:1, 3)
残念ながら人間には救う力はありません。死に至れば、土に帰り、人の思いも失われます。
「彼の思いも滅びる」は他の新しい訳を見ると、「彼の企ても滅びる」(聖書協会共同訳)や「彼の計画は滅び失せる」(新改訳2017)と訳していて、人間の抱いている計画のはかなさが感じられます。聖書は語ります。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言 29:21)
ここまでのところで「魂」「霊」という言葉が出てきました。人は、人間が目に見える体だけでないことを感じてきました。他にも「精神」や「心」という言葉も使われます。目に見えないものを表現しているので、重なり合う部分もあって、明確に区別するすることはできませんが、その言葉の特徴はあると思います。
霊という言葉は、神とのつながり、目に見えないものとのつながりを表します。聖書は当然、神とつながることを勧め、聖霊を受けるようにと語ります。ヨハネによる福音書では、復活されたイエスが弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ 20:22)
ちなみに霊という言葉は元々「動く空気」という意味で、呼吸や風も意味します。そこからも命とつながりのある言葉として理解されています。4節では「霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる」と、霊が失われるとき、命も失われるという理解が示されます。これは、創世記 2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という理解から来ているものです。詩人も、神は命の源であり、神とのつながりが失われるとき、命もまた失われるという信仰に立っています。
ですから、詩人は命の源である神に依り頼み、神と共に生きるところに、命があり、幸いがあると考えています。5~6節「いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人/天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。」
詩人は、神を仰ぎ見るとき、神の御許に救いと命と未来を見ます。だから詩人は1節「わたしの魂よ、主を賛美せよ」と自分自身に語りかけるのです。
魂という言葉は、感情・意思・思考など心や精神という言葉で表されるもの、そして命も含めたその人自身を表す言葉です。詩人は、自分自身を余す所なく神へと向けていこうとしています。聖書の別の表現だと、イエスが第一の掟として言われた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして(あなたの神である主を愛しなさい)」(マルコ 12:30)と同じことを言っていると思います。
詩人は、自分の喜びが神にあることを確信して、自分自身に呼びかけます。「ハレルヤ。/わたしの魂よ、主を賛美せよ。」詩人は、造られたものすべてを愛し、その救いのために今も生きて働かれる神の御業の中で生きています。この喜びを表すには、讃美がふさわしいのです。だから詩人は「主を賛美せよ。/命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう」と自らの喜び・信仰を告白するのです。
皆さんも礼拝において、御言葉を聞くとき、祈るとき、讃美するとき、詩人と同じように神を味わい知ることができますように。皆さんの魂が、神に出会い、喜びと希望に満たされていきますように。
ハレルヤ
父なる神さま
詩人があなたと共に生きたように、その魂の隅々まであなたを経験し、知ったように、わたしたちも今までにも増してあなたを知り、あなたと共に歩むことができますように。どうかあなたにある喜びと希望をわたしたちにもお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン