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ヨハネによる福音書 6:33〜40

2021-01-10 18:28:39 | 聖書
2021年1月10日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:33〜40(新共同訳)


 イエスは群衆に言われます。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(6:33)

 イエスの許に集まってきた群衆は、イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人を超える人たちを満たした奇跡・しるしを経験した人たちです。彼らは、イエスが病人たちにされたしるしを見て、イエスの許に集まってきました。そして今度は、自分たち自身が五つのパンと二匹の魚の奇跡を体験しました。こうしてさらに関心を抱いた彼らは、湖を渡ってまでイエスを探してやって来ました。

 その彼らにイエスは言われます。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(6:33)
 集まった人たちが「神のパン」で考えるのは、出エジプトの荒れ野の旅で、神が与えてくださったマナのことでしょう(出エジプト 16章)。そこで彼らはマナをイメージしながら、イエスに言います。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(6:34)。
 イエスは彼らに「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(6:27)と言われたので、これこそ求めるべきパンだと思ったのでしょう。それは間違いではありません。しかし、罪人の理解は残念なことにずれていってしまいます。

 イエスは言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)
 イエスは、ご自身が「天から降って来て、世に命を与える」「神のパン」だと言われます。イエスご自身こそ「永遠の命に至る食べ物」であると言われたのです。永遠の命に至る食べ物・命のパンを頂くには、信じて受け取るのです。だから「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(6:29)と言われたのです。
 「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」(6:36)イエスを見ても信じないのです。彼らは言います。「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」(6:30)けれど、彼らは既にパンと魚の奇跡を体験しているのです。けれど信じないのです。信じて共に歩もうとはしないのです。
 つまり、人々は神が与えようとしているものが分からないのです。神がわたしたちに必要だと考えているものの意味も大切さも分からないのです。

 イエスは言われます。
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)イエスご自身が命のパンなのです。イエス キリストを信じて受け入れるとき、この世の滅びゆく命とは違う永遠の命を受けます。イエスを信じるとき、新しい命に満たされていきます。「永遠の命にはまだ足りない」と飢えることも渇くこともありません。
 神が与えようとしておられる永遠の命は、神と共に生きる命です。死をもたらした罪から解放されて、神と共に生きる命です。
 ヨハネによる福音書は、神がイエス キリストを遣わされた理由を「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と記しています。ですから「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(6:37)とイエスは言われます。
 わたしたちは「自分は拒絶されるのではないか」「門前払いされるのではないか」という不安を持つ必要はないのです。わたしたちの救いのために人となってこの世に来られ、十字架まで負われたイエスが「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(6:37)と言われているのです。

 さらに「それは父の御心である」とはっきり言われます。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(6:38~40)
 イエスは「一人も失わないで・・復活」させてくださいます。それが父の御心だからです。イエスは五千人の給食の際も「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(6:12)と言われました。これは、父が与えてくださったものはパンも人も、一人も失わず、少しも無駄にならないようにされるイエスの救いの御業を示しておられたのでしょう。

 そしてわたしたちは、イエスにより復活させて頂くのです。そのためにイエスは死に至ってくださいました。死に囚われているわたしたちの手を取り、死から救い出し、導き出すために、イエスは自ら死のただ中に来てくださいました。イエスが死の中にまで来てくださいます。だからわたしたちは死んでも大丈夫なのです。死んだらおしまいではないのです。死の先に復活が備えられています。イエスは、死の中にまで希望を携えてきてくださいました。

 それを「父の御心である」とイエスははっきりと言われます。神が与えようとしているものが分からない人々に、見ても信じない、自ら経験しても信じない人々に向かってはっきりと言われます。わたしたちが罪から救い出され、復活することは、父なる神の御心なのです。

 そして父の御心をなすために、イエスは人となって世に来られ、十字架を負われ、死をその身に負われ、死のただ中に立ち、そこから神の国に至る復活の道を開かれました。そしてわたしたちの手を取り、死から復活させてくださるのです。

 この救いに与るために、聖霊も働いてくださいます。イエス キリストがわたしの救い主であることの確信を、聖霊が与えてくださいます。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント 12:3)と聖書が教えるとおりです。

 このように、父なる神も・御子イエス キリストも・聖霊なる神も、わたしたちの救いを願い、御業をなしてくださっています。だからわたしたちは一人も失われないのです。父なる神も、御子イエス キリストも、聖霊なる神もわたしたちへの愛で満ち満ちておられます。この満ち満ちた神の愛から失われる者は一人もないのです。だからわたしたちは、安心して信じるのです。

 イエスは、神が与えようとしているものが分からない人々に対して、神の御心を明らかにしてくださいます。
 ヨハネによる福音書は、ここで1章のイエスが神の言(ことば)であるということと(1:1, 1:14)、4章のサマリアの女性の話 −イエスが「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われると、女性が「主よ、渇くことがないように・・その水をください」とイエスの話を理解できなかったこと− を(4:14~15)重ね合わせながら記しています。
 ヨハネによる福音書は、イエス キリストを通して神を知るのだということを伝えようとしています。イエスが語られたこと、イエスがなされたこと、イエスご自身を通して、わたしたちは神を知るのです。イエス キリストを通して、わたしたちはひとり子を遣わすほどにわたしたちを愛しておられる神を知ることができるのです。

 だから聖書はこう祈ります。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ 3:17~19)

 だからわたしたちは、イエス キリストへと思いを向けていくのです。キリストを信じ、安心して生きていくのです。わたしたちはこの不安な世の中、この不確かな世にあって、イエス キリストを信じ、神を信じて生きていけるのです。わたしたちの救いも命も、そして未来も、わたしたちを愛して止まない神の内にあるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの救いのため、復活のためにイエス キリストをお遣わしくださり、感謝します。イエス キリストを通して、あなたの御心を深く知ることができますように。どうか信仰から信仰へとイエスと共に歩み、永遠の命に生きるあなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン