慶応ボーイの植木屋修行

ランドスケープアーキテクト福川成一のエッセイとオーベルジュ・スミの庭の記録

母の料理3

2007-04-17 12:07:15 | オーベルジュ・スミ物語
飯田深雪先生には昭和33年から習い始め、アートフラワーの教室も合わせ長くお教えを頂いた。今もチーズケーキやパウンドケーキは深雪先生のレシピが生きている。グレープジュースも深雪先生に教えて頂いた方法で毎年、山梨のブドウ園から取り寄せたブドウで作り続けている。

 その後フランス料理はご主人が三菱商事のパリ支店長の時にコードンブルーでフランス料理を習われた上野道子先生に教えていただいた。深雪先生が家庭料理とすると当時、かなり本格的なフランス料理を教えて頂いていたようだ。先生はレシピを示されてご自身では作られず、各グループに作らせる方で、いつも母のグループが一番おいしいとおっしゃり、やがてオーベルジュ・スミを始める事を勧めて下さった方だ。

 中華料理は馬遅白昌先生にご自宅で教えて頂いていた。本格的中華料理のために次々に道具が増え、銅の煙突付きのしゃぶしゃぶなべまで揃ってしまった。日本料理は土井勝先生の特別クラスの常楽会で土井先生の料理作りを拝見しながら弟子さんが作った料理を試食する会で土井先生と色々な美味しいお店を食べ歩くこともしていた。辰巳濱子先生の鎌倉のご自宅でのお教室にも月1回おじゃましていた。父の海外出張にもついて行くようになり、当時、普通の主婦では食べる機会もないような経験をし、さらに美味しいものを覚えていった。

 誰の紹介だったか赤坂の京ふじの親父さんが懐石の教室を始めるとそこで懐石まで覚えるしまつだ。今でも京ふじで習った料理はよく我々の食卓を豊かにしてくれる。特に正月のおせちは京ふじで母が習ったものがベースになって発展して、今やわが家では日本一おいしいおせちと称して、娘を含めた三代がしつかりと受け渡しに成功し、毎年素敵なものに進化している。

 父はともかくお客を呼ぶ、父はほとんど深夜まで毎晩飲み続けていた。銀座のバーが閉店する頃、最後はバー・スミに行こうと母のもとへお客をつれてご帰宅だ。休みの日も大抵誰かを招待するので、いつも料理を作らなければならない。習ったものは直ちに利用され、母なりにアレンジされ、皆の反応をみながら、それらはやがてわが家の料理となっていった。



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