トラちゃんの<のんびり行こう<

在宅介護老老介護予備軍、元長距離トラックドライバー・元自衛官・元調理師。現在は妻の介護と自らの疾病の治療に専念する。

トラちゃんの自叙伝

2016-06-29 20:21:09 | 日記
11年も超長距離トラックに乗っていると、いろんな現象を目にすることがあります。

ある夏の夜中2時頃、秦野の246号を走行中、土砂降りの雨の中、信号が赤になったので

一時停止したとき…小学生が上目遣いでトラックをにらみつけていたのです。

夜中の2時頃・・塾も終わってるはずだし雨の中、傘も持たずに青信号にも関わらず。

横断もしないでじ~っと…トラックを見つめているのです。当方も青信号になったので走り出したのですが・・・・

バックミラーに子供の姿はなく、背筋が凍る・・・そんな思いで厚木に着いたのです。

他にも、京都から福知山に向かう途中、川沿いを走行中に川の上を人魂が飛ぶという・・

山形の寒河江の山中を走行中に「死んだはず」のドライバーとすれ違ったり、配車したはずの

トラックが路肩に泊まっていたりしたものです。

悲惨だったのは9号線のバイパスで、鉄板がはみ出したトレーラーが追い越しをかけて前を走行していたクラウンの屋根後と切り取った事故、もちろん、運転者は首から切断され、

助手席の女性も路肩に激突したクラウンの中で血みどろ・・

吾輩がトラックを降りる少し前には大阪の43号線バイパスを自転車が入り込み・・・

複数台のトラックに轢かれて「ミンチ」状態に・・・

11年間無事故無違反…それは当たり前のことなのだが・・

つい、スピードを出しすぎハンドル操作ができなくなり事故る。

吾輩が、トラックを降りたのは女房が脳こうそくで倒れ、豊橋の救急医療センターに入院。

大阪でマンションを借りて大阪に転院して、7月、退院と共に「退職」。

平成20年7月末日に退職、その後、介護士の資格を取り、続いて介護事務の資格を取り

退院一年で見事に「不眠症」になり、多少、鬱病的になり「自殺未遂」。

しかしながら生きながらえて、今日に至る。

現在、両肩腱板損傷・変形性頚椎症・変形性脊椎症・肋骨軟骨炎症・不眠症・・・

もう、無理が効かなくなったボロボロのジジイになりました。

       概要終了

トラちゃんの自叙伝

2016-06-27 20:37:36 | 日記
さて・・・

このような運送屋故に、毎月の走行距離は基本1万キロ。

およそ9000キロ~11000キロは仕事で走るわけで、もらう給料も上と下では

5万円くらいの差が出るのです。

つまり、年間12万キロは走破しないとノルマを達成したとはいえず、必然的に必死になるわけで・・

むろんトラック自体、会社からリースするような形をとっているので、走らないわけにはいかず

その分、無理な過労運転で事故を起こすドライバーが後を絶たないのです。

ある日、仙台のトラックステーションで休憩していると、石巻から鹿児島の枕崎漁港行の荷物が出て

ちょうど金曜日だったので、荷卸しは月曜日の予定で積み込みに行ったら、

なんと!荷物はマグロ漁船の「網」…総重量も水を含んでいたせいもありおよそ5トン。

カンカン(重量計)に乗るわけにはいかないので、速攻で出発。仙台から国道48号に入り

山形から13号~113号線と乗り継ぎ7号~8号線に入り、そのまま、一気に敦賀まで走り

敦賀から27号線、舞鶴から175号線を少し走り福知山から9号線。

福知山の24時間スーパーで食料を調達して養父の道の駅「但馬楽座」でビール一本と

お刺身(吾輩のトラックには冷凍冷蔵庫を積んでいるので)を食し、しばし、仮眠。

この時の時間が午前2時前、つまりは出発が金曜午後1時だったので23時間、無休で

走った計算になる。とはいえ未だ半分程度しか走ってないので、3時間ほどの仮眠で出発。

5時半、速度90キロ維持で鳥取を抜け、渋滞する7時ころには鳥取県の大栄町の道の駅に到着

ここでも、即仮眠、軽く?昼食をとり、昼間なのでペースは60~70キロで走行。

山口県の津和野に着いたのが夜7時頃。

路肩にトラックを止めて午後9時ころまで仮眠、そして、9時に起きてから時速80~90キロで一気に下関から関門トンネルを超える。

北九州で都市高速の馬場山まで乗り国道200号へ入り筑紫野から国道3号をひたすら南へ走らせ

土曜日の午後5時に無事、枕崎港到着。

カツオ・マグロの本場故に楽しみは新鮮なお刺身・・・のはずだった・・・

やみくもに走り、500円とはいえ高速利用が・・

肝心の財布の中身は1500円( ゚Д゚)

これで二人が食事?できるはずもなく、コンビニでビール2本を買い、100円の缶詰2個と

食パンを購入し、ささやかながらの夕食を取り。

・・・・爆睡・・・・日曜日の12時まで荷卸しする船が返ってこないので・・・

会社に電話する「金送れ!」…結局3万前借したものの阿久根の道の駅までUターン。

今回の走行距離約3000キロ。売り上げ20万(30%が給料)。

火曜日に川内から広島の尾道の三菱までの荷物を、強引?に引き受け朝8時に川内で荷積み。

日通の仕事であくる日卸、つまり800キロを関門トンネルだけの利用で水曜日6時着。

帰りも来た道を逆にたどり、水曜5時尾道着。

日通さんの心遣いもあって朝食にと1000円もらい、広島のバイパスのPAで次の荷物の連絡待ち。

      >また明日<

トラちゃんの自叙伝

2016-06-16 13:44:16 | 日記
さて…このような、人間業とも思えない運送屋で働くといろいろとハプニングや事故が

存在するもので、吾輩が最初に仲良くなったドライバーがその年の冬、国道113号で

大型トレーラーに突っ込み、即死、トレーラーに荷台から突き出た鉄骨が運転席を突き抜ける

大事故になったにもかかわらず、会社はトラックの賠償と言って労災金を遺族に渡そうとせず、

裁判で2000万の労災金を渡すといった、いい加減な「配車係」「事務」にブチ切れた年末。

ドライバー30人ほどに殴るけるの暴行を受け全治六か月の重傷。

吾輩は少し遅れて帰ったので、この騒ぎには参加してはいなかったが、40台しか駐車出来ない

本社の駐車場だけに、帰り遅れると年末の「表彰式」と年始の積み荷の確認が済めば各自、

自分の家に帰るか、トラックで自分の家の近くのコンビニに止めるとか・・・

特に年始に初荷がある場合、積み込みする会社に一番近い場所で、お正月を迎えるドライバーも

少なくないのです。吾輩は姫路市に住所があったので姫路バイパスのPAにトラックを止めて一時

帰宅。住所はあれど家はなし、兄弟の家で大晦日を迎え初詣が終わるとトラックで生活。

何しろ10万円と給料をもらっているので、一日はホテル(ラブㇹじゃないよ)住まい。

あとは近くのパチンコ屋で大儲けするのが毎年の恒例、この年の正月も夫婦で7万程度の儲けが

あり、姫路の歓楽街「魚町」で飲み明かす。

こういう生活が10年ほど続けば地方のトラックステーションの事務員とも仲良くなり、

特に仙台トラックステーションでは「優遇?」されていました。

というのは電話で駐車予約を入れておくと吾輩のスペースを取っておいてくれるのです。

130台あるトラックでも常に綺麗にして居ると、こういうメリットがあるのです。

話は元に戻して、この年の記録では岡山から秋田までの荷物予約が入っており、五日に積み込み

2号線から312号線~27号線~8号線に入り、金沢23時着、軽く食事を済ませ

午前2時に糸魚川のパーキングで仮眠。翌日6時に発車して秋田着21時、弁当屋「キッチンママ?」…確かこのような名前だったと思うが・・しばしの休息と食事。

翌日6時に出て市内の会社へ・・まだだれも来てないので勝手にゲートを開けて中で仮眠。

9時に荷卸しをして、会社へ「空車」連絡するとすぐに山形の南陽市まで回送。

13時に「川崎電気」到着するも、積み込みが何時になるか分からないので仮眠をとる。

結局18時にようやく積み込みが始まり、行先は浜松の医科大学。 国道13号から121号線に入り
会津若松から日光へ向かい日光から4号線に合流。

その後4号線から16号線に入り厚木まで走り246号から沼津。

このとき午前3時、1号線を90キロで走行(ゆっくり走ると事故の元)バイパスを走り

午前8時には浜松のトラックステーションに到着、電話で指示を待つが・・・

この日も、昼からでないと荷卸し不可。 結局14時に荷卸し終了。

またもや浜松で一泊する羽目になったが、パチンコ屋はトラック不可・・

翌日、名古屋から青森行の積み込みとの連絡で名古屋へ回送。

聞けば小牧からなので小牧に行って終了。小牧近くの健康ランドで一泊。

      >また今度<




トラちゃんの自叙伝

2016-06-11 21:11:08 | 日記
さて・・・・

少し前に戻るが、吾輩、21歳で結婚して2児の父親になったのだが・・

命名した、その日の夜に双子の一人が亡くなり・・・・病院も、どちらが亡くなったのか

はっきりと分からなくなり、一応、長男死亡の診断書。

妻は妊娠中毒症に罹り、精神的なダメージも強く「精神分裂症」で入院、回復は見込めないと

告げられた妻の母親(妻が精神的に追い詰められた原因)が離婚を申し出てきて、半年後に離婚。

吾輩も、結構厳しい精神状態が続き自衛隊を退任する羽目になったのです。

しかし、調理師に戻り厨房を任せられるまでになり、朝は5時起き帰りは0時の毎日。

昭和55年で月給35万は、悲しいかな…吾輩の親の格好の「餌食」?

子供の養育費に毎月5万、3歳まで養育費を払ってきたはずが、いつの間にか「叔父さん」にされて

泣く泣く兄の養子に・・・

その後も「お水」の仕事が続き26歳で今の妻と再婚?いや・・居直り妻というべきか?

15年の同棲が続き・・(婚姻届けの出し忘れ)・・

出会ってからは30年は過ぎたのですが結婚してからは17年くらい?

33歳の時、山口組と抗争になり、4人ほど刑務所送りにして調理師を廃業。

さすが親の子、やくざと聞くだけで悪く言えば、殺しても「罪」にならないなどと

信じていた「血の気」の粗さから、鉄筋工に転職。

およそ10年、勤め上げ「職長」「世話役」になり「阪神大震災」ではトラックで救援物資

の輸送・炊き出しなどを経験。復興事業にも貢献?神戸の摩耶の復興住宅の下水管工事を一手に引き受けて

完成まじかで親方と喧嘩…5トンの鉄筋を売っぱらって、退職と同時に神戸の運送屋に

入社。この早業に吾輩ながら驚くが、年に一度しか会社へも帰らない超長距離トラック

ドライバーに・・・

このような会社なので妻も「同乗」させての北は北海道から南は鹿児島まで、休まず?

いや・・休みはどこかの町で仕事が切れた時だけが休みという過酷な仕事ながら。

11年間無事故無違反で毎年表彰状と現金10万円、なぜかというとこの運送屋事故率

が半端なく高いため。

毎年数名は事故死・後遺障害が残る事故を起こすため、事故抑止法として無事故者には

10万円の報奨金が出るのです。

立ち寄った温泉施設は400余り・道の駅600余り。

高速料金は自腹前提なので、常に、休養は取らねば事故ります。確実に・・・

思い出せば…最初の仕事は堺(大阪)から青森まで木材(水濡れ現金)でした。

17時に境を出発して、翌日の朝には柏崎のコンビニに着いてしばしの休息。

3時間ほど仮眠をして116号から7号線に入り道の駅で入浴・食事・仮眠。

夕方?7時を過ぎてから一気に弘前までノンストップ。

で、弘前の道の駅で晩酌を済ませ一時仮眠、翌日6時に弘前を出て8時に青森の工業団地

到着。ところが、荷卸しは順番制で到着順、8時着では最後の荷卸しになるので終わったのは11時半ころ。

当然、このような時間から「配車予約」は取れず、弘前まで戻り道の駅で一泊。

なんとも、恥ずかしい「初出」となりましたが・・・

それはそれ、12時からパチンコに行き夫婦で15万円の勝ち。

それって…日当より高い金額でしょ?

            >また明日<

トラちゃんの自叙伝

2016-06-10 14:36:49 | 日記
    昭和30年11月13日午前10時10分

大阪市浪速区北高岸町8番地(現・敷津町)にて出生。当時は大阪市内でも水洗トイレもなく、

水道もなく、共同トイレ・共同井戸水での生活でした。

父親は「やくざ」も近寄らない暴れ者で、大酒飲み。

生活費もあまり入れず、吾輩も4歳から母親と「南座」などの清掃を助ける日々を送ったものです。

南座・角座などの深夜清掃は、ミカンやお酒の宝庫?まず、おやつには困ることはなく、

たまにお財布などを拾ったものです(きっちりとネコババ)が、当時7千円ほどの親父の給料よ

り、かなり多い稼ぎ?になったのは事実。

3歳で洗濯を覚え洗濯板でよく洗った記憶があります。

5歳になってから「日本橋幼稚園」に入園、その後敷津小学校に入学するも、一念で兵庫県御津

町の小学校に転校、祖母の家での生活でした。

小学校2年生になると姫路市の八幡小学校に転校、これが悲劇?の始まりでした。

父親の「家庭内暴力」は日ごと激しくなり、姉は頭に5針縫う傷、吾輩も頭蓋骨陥没・額に2針

縫う怪我。

兄は跡取りとして可愛がられすぎて、正直馬鹿。2年生の吾輩に4年生の宿題を押し付ける有様

それも、妹が生まれるまで、父親も妹が生まれると家庭内暴力は兄にまで及び、結果的に家出

家出の繰り返し。

こんなバカ親ですが、本家は由緒ある家柄で菊のご紋。

大叔母が「昭和天皇」の乳母に上がり、明治時代は子爵だったといわれている。

事実本家を改築した得「菊の紋」や「三つ葉葵」のご紋の入った着物が出てきたといわれてます

。母型は「室津城主」の家柄で、どちらも「文句のつけようのない家柄」なのですが、

父親は「悪ガキ」が過ぎて養子に出されたのが今の家名です。

15歳で「姫路市立広畑中学」を卒業と同時に吾輩も独立、2DKのアパート(寮)で一人暮らし

を始めたのです。

調理師としての第一歩を踏み出したものの…18歳で一時中断。

海上自衛隊に入隊(舞鶴)。真冬に泳いでよく同僚と酒を飲みに行ったものですが、翌日は

必ずと言っていいほど「風邪」を引いておりました。

舞鶴基地勤務、海上自衛隊三曹で除隊。即応予備自衛官として退役まで予備自衛官を務めあげま

した。

除隊後は元の調理師に戻り、各地を転々と「流れ板」の生活。
             
             >続く<