The Diary of Ka2104-2

小説「田崎と藤谷」第1章 ー 石川勝敏・著

 

この作品はフィクションであり、実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。

 

第1章

今日は一人で来た。考えることもなくいつもに洩れなくだ。彼はさっそく登録に応じ、そして皆の座る部屋の中央にどてっと鎮座しているテーブルに彼も座した。女ばかりである。彼女たちはテーブルの一画に集まっていて、男性と男性が入れ替わるように出入りしたのだが入りの若い一人もそこの会話に参集し、彼一人取り残された格好である。スタッフからの私の皆への紹介もなければ、彼自らたとい自己紹介とて彼女たちに交わろうとしなかった。

 ここはデイケアだ。そこに彼は精神障害者としてやって来ていたのだった。

 面談かつ見学のつもりだった初日だが、登録を済ませたあと、彼が致し方なくスマホでもやろうと席を立って背後のカバン置き場の方に身を翻したとき、目の前に何処にいたのだろう初見の男性が通りがかりその際田崎に目を合わせてうなずきをしたので彼もそのまま同じように返した。カバンの中をまさぐりながら彼を追うと彼は出入りドアを開き去るところだった。田崎の想念はなにがしか揺らいでいて虚空を漂っていた。そこに乗っていたのはその男の何気だが当たり前のような態度だった。挨拶言葉をその男は発するのでもなかったのだ。

 唐突というには余りに前振りがなかった。それほど突然の訪問だった。訪問というよりあれでは立ち寄りだろう。それは口頭でのマンションの大家による住民に対する立ち退き要請だった。実際はマンション解体につき既に大家が他の不動産屋にその土地とマンション管理権を売ってしまっていたあとだった。これが彼のデイケア初日の帰宅後に遭遇した狂気だった。2年ほど前以前のいつもなら福祉施設から狂気をあてられていた。

 2回目の通所、中三日空けての次の回は、彼は着くなり皆とのテーブルゲームに興じていた。デイでは定番だ。彼はそれを誰よりも知っていた。彼は56で障害歴は長く障害者といえば必ず福祉施設を紹介される。たとえば話し相手が精神科医なら御自分の知り合いや友だちでもご存知の社交場でもなく、必ず障害者の孤独にはそれをあてがわれる。なるほど、医者を見ればなんらの知己も行きつけの場も有していなさそうだ。彼女は患者を呼ぶとき受付が患者に振る番号を少し震え少し辿々しくその声で番号に様を付けて読み上げる。それでいて彼女はまた、自身に未知のことを訊かれただけで逆上し、私はそういうことに関しては無知であると言う代わりに心で見えない聞こえないのか大それたことには、なにやら口ごもりながら言い訳めいたことを言う。医者の矜持というには幼い。そういうわけで、田崎のいわゆる俗に言う作業所を主にした福祉施設在籍は頭数といい1つ処での期間といい、総じてその経歴は深く長い。

 マンションの立ち退き案件はそれに際する条件だけは整った。都営住宅の2DKに相当する物件を不動産業を営む大家があちこち手を回しながら見つけ出すということだ。退去料も大家と田崎との話し合いにより田崎が承諾できるものだ。それにしても彼は不安で重圧を感じ、ともすると空中分解しそうになる。彼の精神病には耐えられなかったのだ。彼は孤独に一人で何にでも対応しなければならなかった。今回のこの案件に対しても彼は幾人かを向こうにまわしてたったひとりで交渉に臨ばねばならなかった。変わる前の大家、土地取引人、市の生活福祉課の役人、都営住宅の係りの者、住宅相談窓口、変わったあとの今の大家。かてて加えてちょうどタイミングを推し測ったようにこの頃彼はクレカ被害に遭いまた通販大手サイトの中の小さな外国人出店によるまがい商品をつかまされたため、返金までのやりとりまでしていた。親友がいないためデイスタッフ代表にしか話を持ち込めなかったが、正式相談においてはひと通り耳を貸すものの、それが終わるや否や彼は田崎が終の棲家として人やまだ見ぬ友人をお通しできるよう要望している2DKの間取りをなじる始末だった。「あかんで」とその彼は言った。彼は大阪出身だった。この先大病でもして医者や看護士が往診で押しかけてくることを思うと風通し良くしておかないと一大事だ。

 田崎はアリアの暗譜はともかくリブレット、台本、この場合その抜粋の歌詞の暗記に苦心していた。今度歌っては収録するつもりでいるオペラAndrea ChénierからのCome un bel dì di maggioというテノールアリアだ。彼は精神障害者として生活保護を受けつつも片や声楽家でもあった。パトロンはいない。もう独学で始めてから9年目になる。そうしてまた彼は近年絵も描いている。まったく違うフィールド、歌が動なら絵は静と、彼自身わかってはいたが、彼は彼のブログで自身のことをそのタグでしようなしに二刀流アーティスト田崎正明と記すようになっていた。ところがそのブログにて、彼が文筆にその才を捧げる分量もジャンルも比肩して多くなってきたので、彼は自己をどう表せば良いのかわからなくなっていた。アイデンティティークライシスの逆をいく小さな悩みだった。個人的社会的問わず、彼は詩、短編小説、エッセイ、論文、と染める手を広げていっていた。OpenAIで英語で田崎正明とは?と問うとひとつにはマルチタレントと出てきたのだが、彼はそれは日本語では使いたくないなと思った。

彼は会社でうちの者を社外の者へ敬称抜きの呼び捨てで呼ぶのに憧れていた。正確には「呼ばれるのに」であった。彼は世間の目を尻目に組織に属することを夢想することを愛していた。彼は今日ではや4回目になるデイに、最寄りの駅前のスーパーで昼食としておむすび別個に2つ買って、午前10時頃着で赴いた。そこには彼がいた。初日に目してきたその男性だった。私と同年代ぐらいだろうと田崎からは見えていた。デイのようなところでは珍しい50代でしかも男性だった。

「よっ!」といきなりその男は私に挨拶してきた。あまりの変わり様だが何か私と交わりがあるかのような点においては通底しているといえばうなずけなくもなかった。田崎は皆に向けて「おはよう御座います」としたが、内心その男には引いていた。その男は彼の視界の中で顎を少し上げなにかしら鼻高々ににやけてこちらを見ていた。まるでお前のことは何から何まで知っているぞと言わんかのような態度だ、田崎はそう思った。正直彼には不可解で重たかった。年甲斐もなかった。その男はやおらしゃべり出した。


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