2019年6月12日、当ウォーキングで度々話題に上がるジャカランダの花を見に行こう!と、一心寺と天王寺界隈のウォーキングを実施した。
行程は、天王寺駅 ⇒ 四天王寺 ⇒ 一心寺 ⇒ 茶臼山 ⇒ 慶沢園 ⇒ 芝天広場 ⇒ 天王寺
歩く距離は、2.6kmと少ないので、歩くのは苦手とする人の参加もあり、参加者は35名となる。参加者の中に、天王寺界隈に詳しい人がいて、説明を聞きながら楽しくウォーキング。
谷の清水井戸 清水井戸地蔵尊
天王寺駅から玉造筋を東に行き、四天王寺南大門へ出る通りを左折して北に少し行くと、谷の清水<たにのきよみず>(清水井戸地蔵尊)がある。
安政年間(1854~60年)に編纂された『摂津名所図会大成』には「谷清水 庚申堂の南一丁許にあり。清泉にして甘味なり。四天王寺名水の其一なりと云」とあり、地蔵堂があり、江戸時代から名水として親しまれてきたという。
少し歩くと、四天王寺庚申堂の赤い門が見えてきた。日本最初の庚申尊出現の地とされている。さらに北へ向かうと、四天王寺の南大門が見えてきた。
南大門を入ると、正面に中門が見える。中門(仁王門)の左右には金剛力士像が祭られている。上に見えるのは五重塔の相輪。
仁王門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、周りを回廊で囲む伽藍配置(四天王寺式伽藍配置)となっている。
左右に配置された、金剛力士
太子引導鍾堂
聖霊院 虎ノ門前(太子殿の入口の門のあたり)に野沢菜原種旅の起点という記念碑がある。野沢菜は、1756(宝暦6)年に健命寺(野沢温泉村)の住職が修行先の大阪から持ち帰った天王寺蕪の種を寺で育てたのが起源と伝えられている。高冷地のためカブの部分が大きくならず葉だけが育ったのが野沢菜である。
天王寺蕪は、なにわの伝統野菜の普及活動をしている、楽畑(堺市中区)で、1年間農業体験をしたので知っていたが、そのときに野沢菜の起源と教わったかもしれないが、認識していなかった。
次に向かったのは、宝物館入り口前にある、大阪府有形文化財に指定されている、天王寺の石槽。2メートルくらいの花崗岩の1枚岩をくりぬいたものです。
右が亀井堂。石彫の亀から水が流れ出し、お盆、お彼岸などには各お堂で供養された故人の名前が書かれた経木(キヨウギ)流しに使われています。今日もその行事が厳粛に執り行われていて、撮影禁止。亀から流れ出た水を受けている石槽が、先ほど見た石槽によく似ているように思ったが、思い違いかな?
大寺池と六時堂 石舞台
六時堂は文化8年(1811)建立の重要文化財で、ここには、薬師如来が安置され昼夜六回の礼讃が行われたのが名の由来。
その前の大寺池は、かっては蓮の花、今は亀が多いが、石橋がかかっていてその上に石舞台がくまれている。石舞台は江戸初期元和九年(一六二三)の造営で重要文化財。ここで修正会・精霊会がおこなわれる。
精霊会(しょうりょうえ)
聖徳太子を救世観音として供養する法会で、忌日(2月22日、現在は4月22日)な行われる。金堂の仏舎利と精霊院の太子像を六時堂まで巡行させ、堂の前の石舞台で舞楽・管弦が奉納される。
亀がいっぱい 太鼓楼
北引導鍾堂 西大門
西大門は別名「極楽門」と呼ばれている。浄土信仰では、西に極楽があるとされていて、西大門から極楽浄土に通じると考えられ特別視されている。
金堂 五重塔
西重門
弘法大師の像
四天王寺の西にある、一心寺に向かいます。
一風変わった、山門と仁王像に驚かされます。門の扉には、彫刻が施されていました。
開山堂 念仏堂
伽藍が並ぶ奥に、見上げるような大きなジャカランダの木があり、説明書きがある。
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この木は高すぎて、肉眼では花がよく見えない。振り返って左手に本多忠朝の墓があり、ここのジャカランダは背が低くて素晴らしい花をつけていた。
「酒封じの神」としての忠朝
酒封じ祈願 本多出雲守忠朝(ほんだいずものかみただとも)の墓(案内板文面)
本多出雲守忠朝は徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の第ニ子で、関ヶ原の合戦に武功をあげ大多喜五万石に封ぜられていたが酒を過したため大坂夏の陣(1615)において戦死した。死に臨んで深く酒弊を悔い将来酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられる。
爾来、酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところとなり酒弊の除滅に信を得ている。
墓碑周辺の杓文字(しゃもじ)は参拝者による断酒祈願 墓碑は元和2年(1616)に建立されたものである。
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東日本大震災の慰霊の少女像があった。
一心寺で思う存分ジャカランダの花を楽しみ、茶臼山に向かう。
大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となった。
合戦の陣取り図がある
茶臼山の南側に河底池があり、慶沢園に通じる真っ赤な橋が架かっている。
橋を渡り、少し上がったところに、慶沢園の北門がある。
慶沢園は、純日本風の池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園で、大正15年(1926)、江戸時代からの大阪の豪商・住友家15代吉左衛門(号は春翠)から大阪市へ、本邸とともに寄贈されたもの。中島を浮かべた大池を中心に、三方に築山を築き変化に富んだ地形をつくり出している。周辺には園路や飛石、橋をめぐらせ、茶室や四阿(あずまや)が配されている。
当会開催のうたごえ広場のフルートの先生の指揮で唄う。 芝天広場近くにあったブロンズ像。(いのちいきいきと銘板に)
天王寺で一次解散したあと、阪堺線の低床車両(堺トラム)に乗る予定だったが、2時間に1本とかで、残念ながら従来のチンチン電車で大小路まで。(65歳以上100円)大小路から堺東まで歩き、堺東から南海バスで泉北高速泉ヶ丘駅まで帰る。(65歳以上100円)堺市民で65歳以上は、200円で天王寺から泉ヶ丘まで移動できる。時間の余裕のある方はどうぞ!
大変だったでしょうね。感心しました。