狭山市広瀬の廣瀬神社には、明治初期に県令(県知事)だった白根多助さんが読んだ和歌が記された
石碑があります。
「ななこおり 広瀬の浪のあやなるを
たれ川越の 名に流しけん」
(斜子織は狭山市広瀬でたくさん作られているものなのに、
誰が 川越に持って行って「川越」の名前を付けてしまったのだろう…でしょうか?:拙訳)
近隣地域の織物として 江戸時代より斜子織はあったのですが、
流通の事情などにより 周りの町村から川越に集められた斜子は「川越斜子」と
呼ばれて、江戸へ送られていたそうです。
白根多助さんは、清水宗徳さんが機械製糸場を作った(埼玉県では初!)明治の初め頃、
狭山市広瀬に来て 当地の斜子織産業の盛んな様子を見て、
『広瀬こそが本場の産地だと思います。皆さん頑張ってください』と斜子に関わる人たちを励ますために
石碑にある和歌を作った、ということらしいです。
清水宗徳は「魚子(ななこ)織広瀬組合」を作り、「広瀬斜子」の名前を広めます。
白根多助さんの和歌が入った「広瀬組」の商標札が、狭山市立博物館に展示されています。
斜子織を作っていた人たちは、自分たちの商品にこの札を付け、自信をもって
世に送り出していたのでしょうね。
石碑があります。
「ななこおり 広瀬の浪のあやなるを
たれ川越の 名に流しけん」
(斜子織は狭山市広瀬でたくさん作られているものなのに、
誰が 川越に持って行って「川越」の名前を付けてしまったのだろう…でしょうか?:拙訳)
近隣地域の織物として 江戸時代より斜子織はあったのですが、
流通の事情などにより 周りの町村から川越に集められた斜子は「川越斜子」と
呼ばれて、江戸へ送られていたそうです。
白根多助さんは、清水宗徳さんが機械製糸場を作った(埼玉県では初!)明治の初め頃、
狭山市広瀬に来て 当地の斜子織産業の盛んな様子を見て、
『広瀬こそが本場の産地だと思います。皆さん頑張ってください』と斜子に関わる人たちを励ますために
石碑にある和歌を作った、ということらしいです。
清水宗徳は「魚子(ななこ)織広瀬組合」を作り、「広瀬斜子」の名前を広めます。
白根多助さんの和歌が入った「広瀬組」の商標札が、狭山市立博物館に展示されています。
斜子織を作っていた人たちは、自分たちの商品にこの札を付け、自信をもって
世に送り出していたのでしょうね。