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NHK大河ドラマ『勝海舟』、そして神様との決別へ②~「愚者の旅」より

2006年11月06日 11時47分05秒 | 倉本聰さん関連

さて、とうとう核心の『神様(NHK)との決別~第2章~』です。


計算してみると、この頃って倉本聰氏はまだ30代後半なんですよね。自分の年齢と重ね合わせると、怖いものがあります。

──さて、本の内容へ戻りましょう。
演出家であるT氏との確執はくすぶっていたものの、「勝海舟」の仕事を倉本さんは楽しんでいました。T氏を除く他のディレクター連中とは意志の疎通もはかれていたし、後から加わった松方弘樹をはじめ、役者たちと毎週のように飲み明かす日々。現場での不満はあるものの、ホンを書くこと、俳優たちとのコミュニケーションはクリエイター魂を満足させて余りあるものだったようです。

だからその頃に、朝日新聞の天声人語で「勝海舟」の主役交代をネタにNHKが叩かれたとき、むしろその記事に憤慨したくらい…。

そんなとき、NHKの広報を通してヤングレディから取材の依頼が来ます。記者は最初からNHKの体質を批判する記事を書きたかったらしく、そういう態度が随所に見え、へそ曲がりな倉本さんは徹底的にNHKを弁護する側にまわってしまったのでした。記者は面白くなさそうに話を聞いていたのですが、最後に、

「それではNHKに対し全く文句がないのですね?」

と聞いた。そんなことはあるはずもなく、倉本さんは真実を答えました。
「たとえばどういうことですか?」と問われ、倉本さんはそれまでの不快ないきさつや、組合問題の複雑さを語ってしまったのです。何となく嫌な気がし始めたのは、記者と別れてしばらくしてからでした。

『ヤングレディに電話を入れ、ゲラを見せて欲しいと要求した。そのゲラを見て僕は仰天した。NHKを弁護した一時間余りの主文は全てカットされ、最後にしゃべったところだけが過激な口調に変えられて拡大され、いわば殆どデッチあげられたNHKへの告発文になっていたのである。僕は急いで編集部へ電話を入れ記事の差止めを要求した。するとその記者とデスクが現れ、今日が最後校了の日だから今さら何ともならないという。
激怒した僕は二人を家へひっぱりあげて改めて目の前で記事を書かせた。そうしてもう一度ゲラを見せて欲しいと迫った。デスクは、最終ゲラは明朝朝四時にしか出ないとふてくされた。ならば朝四時に僕の方から貴社へうかがってゲラを拝見するというと、もう半分喧嘩状態になっていた彼らは「ご勝手に」という捨てゼリフを残して去った』

未だによくあることですが、新聞等、メディアの記事は都合よく削られます。「インパクトのある面白い記事」であればいいのであって、書かれた人がどれほど傷つこうが知ったことではない。しかも読者はその文をそのまま鵜呑みにしてしまう。

その朝(赤字を入れて戻った直後)倉本聰氏は電話で叩き起こされました。NHK制作部長とプロデューサーのNさんからです。

「朝刊見ましたか?ヤングレディの広告を!」

すぐ行く、と言われて電話が切れ、倉本さんは朝刊の広告を見て愕然とし、手が震えたそうです。

『倉本聰氏、「勝海舟」を内部から爆弾発言』

大きな活字が踊っている。あんなにゲラの文をチェックしたのに、ゲラには見出しが書かれていなかった。粉飾された文につけられた見出しは、そのまま新聞に載ってしまったのです。

家に到着したNHK制作部長とプロデューサーのN氏に発売したばかりのヤングレディを見せられた倉本さん。文章は今朝チェックした通り確かに改められていました。そしてその意見の一つ一つは倉本さんにすれば全て正当なものです。ただ一つ、見出しのニュアンスを除けば──。



倉本さんは、「あの日、それからの屈辱と口惜しさを僕は一生忘れないだろう」と書いています。
謝罪する以上弁明はしまいと心に強く決めていたものの、昨日までの仲間がてのひらを返したように誹謗する吊るし上げの波に、倉本さんは一時間以上さらされ続けました。
誹謗の理由は本読みを含むそれまでの倉本さんの脚本家としての態度、そして今回の広告。ヤングレディの内容には全く触れず、ひたすら倉本聰という脚本家の人間性が標的になったのです。多少とも自分のことは判っているつもりだったものの、ここまでの憎悪、ここまでの攻撃に倉本氏はショックで打ちのめされました。

『やっと解放され、NHKを出たとき、ふいに涙が胸底から突き上げた。この顔を家人には見られたくなかった。サングラスで目をかくしタクシーに乗って羽田と告げた。北海道へそのまま飛んだ。昭和四十九年、六月十七日のことである』

このとき何故か「敗北」という言葉が頭に浮かんだそうです。敗れた者は北に向う…。なるほど「敗南」とは言わないな、と…。
あの天下のNHKを相手に前代未聞の事件を起こした。もうこの業界では生きていけないだろう、と覚悟を決めた倉本さん。

そのまま札幌に住み着き、毎日飲んだくれながら2ヶ月は航空便で原稿を送りつづけ、肝臓を壊し、それを理由に正式にNHK降板──。前払いだった原稿料はきれいさっぱりNHKに叩き返し、「貯金が七万円しかなくなった」と笑いながら奥様に電話をもらったそうです。

飲み屋のつけは数十万円、貯金は七万円。タクシーの運転手
にでもなろうか?それともトラックか?(すすきのの飲み仲間からは顔がトラック向きだと勧められたそうで…^_^;

しかし
本気でトラックの運転手になろうと免許取得に着手した頃、東京から垣内氏(淡島千景さんのマネージャー)嶋田親一氏(ニッポン放送時代の先輩)が現れ、中村敏夫氏(のちの「北の国から」「拝啓、父上様」
のプロデューサー、現在フジテレビ取締役)ともご対面。

「NHKとのトラブル、バッシングに負けてはいけない!
あなたは今こそホンを書くべきだ!」


分厚い封筒を差し出され、貧窮と感動のあまり不覚にも涙を流し、また脚本を書くことになった倉本さん…。
(早速ツケを払いまくりながらまた彼らと飲んだそうです…^_^; )

その後の倉本聰氏の活躍は、皆様、よくご存知だと思います。
後日談は、また機会があったら是非…。いつもながら、つたない文章を読んでいただいて、本当にありがとうございましたm(__)m


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2 コメント

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Mine (taitan)
2011-01-25 08:10:49
お役に立てて何よりです。
私も本を読んで驚きました。
倉本さんはドラマもエッセイも面白く、読み応えがあります。
健康に気をつけて、またぜひ書いて欲しいと思っています。
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Unknown (Mine)
2011-01-25 02:51:52
そうだったんですか。全然知りませんでした。つい先日、倉本さんの富良野塾の閉塾ドキュメントをみて、「どうしてNHKともめることになったのか」気になり、情報を探していました。

倉本さんご自身もすごいけど、その人生そのものも、いろんなドラマがあったんですね。改めて感動です。

アメリカ フリーライターより
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