よかったね!!今回のゴチは全く予想のつかない展開だったが、なんにしても良かった。我がことのように嬉しい。倒れて突っ伏して起き上がれないあの感じ、分るよ!!
今回も、ひらめきはあるんだが神童になれなかった幼少期の私の思い出。
実家は自営業で、学校が終わると一人で過ごすことも多く、気楽にテレビをつけてお絵かきなどしていた。ある日、手を洗おうとキッチンの流し台に行くと、シンクにナメクジが1匹這っていた。それはドッキリするような大きなナメクジで、もうすっかり手を洗うことなんか失念するほどだった。
ナメクジといえば、そう、塩だ。ナメクジに塩をかけると縮む。縮んで最後にはなくなってしまうという人もいたが、それは信じがたい。当時の私はこう考えていた。「塩をかけると、体表面の膜から水分が沁みだして、体が小さくなる。最後にはカラカラになった皮や内臓が残るはずだ」。ひらめきというより確信。浸透圧・浸透膜の概念は習わなくても想像できた。
さすがだ!幼少期の私!早速検証しようと塩を探す。ところが塩はどこにあるか分からなかった。塩がないからといってあきらめ切れない。そこで目に付いたのが台所洗剤だった。私の浸透圧論はさらに発展を遂げた。「体液よりもずっと高濃度であれば、塩でなくとも同様の効果が得られるはず(洗剤はかなり濃いそう)!」、またひらめいちゃった。
もちろん私はすぐに実行した。ナメクジの体表面を覆うのに十分な量の緑色透明な液体をこってりとかけた。イメージでは細かい泡とともに水分が沁みだし、少しずつ小さくなっていくナメクジ。ところが私の想像とまるで違って、洗剤をかけられた途端ナメクジが全身をくねらせてもがき始めた。表情は分からないが明らかに苦悶。前後左右に体を伸び縮みさせていて、まるでB級SF映画で未知の生物が誕生するシーンのようだった。もしナメクジに声が出せたら、すごい声で叫んでいただろう(逆に、ナメクジはどうやっても声は出ないんだな、という確認になった)。
私は心底恐ろしくなって、まったく見ていられなくて、衝動的にガス湯沸かし器のボタンを押し、お湯で流してしまおうとした。もともとねっとりとしていたので簡単には流れず、さらなる刺激にもだえる様は悪夢のようだった。ようやく流れたときにはものすごい罪悪感で長い間憂鬱になった。
洗剤は動物の細胞膜を溶かす作用があることは大人になってから知った。今回は血の出るようなケガはしなかったが、心的外傷はあった。ひらめき、特にサイエンスの分野のひらめきってホント危険。
実家は自営業で、学校が終わると一人で過ごすことも多く、気楽にテレビをつけてお絵かきなどしていた。ある日、手を洗おうとキッチンの流し台に行くと、シンクにナメクジが1匹這っていた。それはドッキリするような大きなナメクジで、もうすっかり手を洗うことなんか失念するほどだった。
ナメクジといえば、そう、塩だ。ナメクジに塩をかけると縮む。縮んで最後にはなくなってしまうという人もいたが、それは信じがたい。当時の私はこう考えていた。「塩をかけると、体表面の膜から水分が沁みだして、体が小さくなる。最後にはカラカラになった皮や内臓が残るはずだ」。ひらめきというより確信。浸透圧・浸透膜の概念は習わなくても想像できた。
さすがだ!幼少期の私!早速検証しようと塩を探す。ところが塩はどこにあるか分からなかった。塩がないからといってあきらめ切れない。そこで目に付いたのが台所洗剤だった。私の浸透圧論はさらに発展を遂げた。「体液よりもずっと高濃度であれば、塩でなくとも同様の効果が得られるはず(洗剤はかなり濃いそう)!」、またひらめいちゃった。
もちろん私はすぐに実行した。ナメクジの体表面を覆うのに十分な量の緑色透明な液体をこってりとかけた。イメージでは細かい泡とともに水分が沁みだし、少しずつ小さくなっていくナメクジ。ところが私の想像とまるで違って、洗剤をかけられた途端ナメクジが全身をくねらせてもがき始めた。表情は分からないが明らかに苦悶。前後左右に体を伸び縮みさせていて、まるでB級SF映画で未知の生物が誕生するシーンのようだった。もしナメクジに声が出せたら、すごい声で叫んでいただろう(逆に、ナメクジはどうやっても声は出ないんだな、という確認になった)。
私は心底恐ろしくなって、まったく見ていられなくて、衝動的にガス湯沸かし器のボタンを押し、お湯で流してしまおうとした。もともとねっとりとしていたので簡単には流れず、さらなる刺激にもだえる様は悪夢のようだった。ようやく流れたときにはものすごい罪悪感で長い間憂鬱になった。
洗剤は動物の細胞膜を溶かす作用があることは大人になってから知った。今回は血の出るようなケガはしなかったが、心的外傷はあった。ひらめき、特にサイエンスの分野のひらめきってホント危険。

幼い子供を見るとすごく子供らしくて、話し方や考え方の未熟なところがたまらなくかわいらしく感じる。でも思い出の中の自分は、4-5歳でもかなり一人前に考えたりしていて、今の自分とそう変わらなく感じるのが不思議なところだ。大人からみれば吹き出してしまうような滑稽な場面もあっただろうが、幼児期の私は大真面目で、でも涙もろかったり舌足らずだったりして。
姉さんと近所の公園に遊びに行ったときのこと。ブランコがやっと怖くなくなって思い切りこげるようになった頃、やはり4-5歳であろうか。座りこぎで風を切ってグングンこいでいる。後ろに下がるときは膝を曲げ、前進で思い切り足を伸ばす。そのとき、ふとひらめいた。それは物理のひらめきだった。「ブランコに乗った私は鎖の上端を支点に回転運動をしているが、一番高いところで私が手を離せば私は鎖の軌道から離れて前に飛び出し、一旦高く上がってから放物線を描いて着地するであろう」、そう思ったのだ。もちろん普通の幼児だったから、放物線とか支点とかいう言葉は知らず、あくまでイメージだ。でも高校時代とくに物理が得意でなかった私から見て、そのひらめきは幼児期にしてはわれながらたいしたものだったと感心する。
問題は、ひらめいた瞬間に、私がそれを実践してしまったことだ。手を離した私は放物運動を体感するゆとりなく地面に顔から叩きつけられ、鼻血を出した。びっくりしたのは姉である。楽しく遊んでいた空気は一変し、公園はパニック状態だ。大人のいない公園でさぞ心細かったことだろう。私はあまりの痛みに何も考えられず、しばらく動くことさえ出来なかった。いつも姉と双子に間違えられるほどデカかった私を負ぶって帰ることも出来ず、さらに何が悪くて妹が怪我をしたのか理解に苦しみつつ、姉は私を励まして手を引いて家までつれて帰ってくれた。
その後「一体どうしたの?」と聞かれるたびにそのひらめきを説明しようと試み、語彙がないことを歯がゆく感じた。結局、「物の運動にはそのものの重量が大きく影響していて、さまざまな実験には重力の影響がかなり邪魔をするということを体感した」、と当時の私は感じていた(←やっぱり、幼児期の私は我ながらスゴイ)。
姉さんと近所の公園に遊びに行ったときのこと。ブランコがやっと怖くなくなって思い切りこげるようになった頃、やはり4-5歳であろうか。座りこぎで風を切ってグングンこいでいる。後ろに下がるときは膝を曲げ、前進で思い切り足を伸ばす。そのとき、ふとひらめいた。それは物理のひらめきだった。「ブランコに乗った私は鎖の上端を支点に回転運動をしているが、一番高いところで私が手を離せば私は鎖の軌道から離れて前に飛び出し、一旦高く上がってから放物線を描いて着地するであろう」、そう思ったのだ。もちろん普通の幼児だったから、放物線とか支点とかいう言葉は知らず、あくまでイメージだ。でも高校時代とくに物理が得意でなかった私から見て、そのひらめきは幼児期にしてはわれながらたいしたものだったと感心する。
問題は、ひらめいた瞬間に、私がそれを実践してしまったことだ。手を離した私は放物運動を体感するゆとりなく地面に顔から叩きつけられ、鼻血を出した。びっくりしたのは姉である。楽しく遊んでいた空気は一変し、公園はパニック状態だ。大人のいない公園でさぞ心細かったことだろう。私はあまりの痛みに何も考えられず、しばらく動くことさえ出来なかった。いつも姉と双子に間違えられるほどデカかった私を負ぶって帰ることも出来ず、さらに何が悪くて妹が怪我をしたのか理解に苦しみつつ、姉は私を励まして手を引いて家までつれて帰ってくれた。
その後「一体どうしたの?」と聞かれるたびにそのひらめきを説明しようと試み、語彙がないことを歯がゆく感じた。結局、「物の運動にはそのものの重量が大きく影響していて、さまざまな実験には重力の影響がかなり邪魔をするということを体感した」、と当時の私は感じていた(←やっぱり、幼児期の私は我ながらスゴイ)。

死の告知
2008-11-26 | 事件
またニノの話から。某番組で手相の話が出たとき、自分は生命線がすごく短いと言い出した。見ると本当に短い。2~3cmくらいしかない(あれ?それ運命線?)。手相を見てもらったときに、占い師に「あなたもう死んでますよ」と言われたそうだ。
そんな言い方あるかい!もう死んでるなんてアンタ、こんなに生きてんのに失礼じゃないか。・・・ん?・・・なんか、思い出したぞ。
私が幼稚園の頃のことだ。体育館で幼児たちが思い思いに走り回って遊んでいたとき、私も走りながら転がっているボールを蹴ろうとしたのだが、足がボールの上に載ってしまい、勢いよくすっ転んでしまった。そのまま後頭部を床で打撲し、先生が体育館の隅まで連れて行ってくれてしばらく横になっていた。その頃仲良しだったリエちゃんが心配してずっと付き添ってくれた。先生は誰だったか思い出せないが、リエちゃんが「せんせー、サキちゃん大丈夫?」と聞いたら、先生はなんと「サキちゃんね、すごく頭打っちゃったから、もう死んじゃうよ。かわいそうにね」と答えたのだ。リエちゃんは、びっくりして自分のせいでもないのに泣きそうだった。
実際、木の床であんまり痛くなかったし、嘔吐や痙攣があったわけでもないし、そんなに大変に思っているなら病院や救急車の騒ぎにしないといけないんだから、全くのジョークとして言ったんだろう。お粗末な保育師め、子供しか聞いてないと思って配慮のない発言をしたもんだ、と今は思う。当時の私は特に悲しんだり泣いたりはしなかったが、家に帰ってからこの話を母に伝えたところ、「子供にそんなこと言うなんて!」とすごく憤慨していた。
全然気にしていないも同然だったが、心の奥に「5歳の頃、もう死ぬといわれた」ということだけが小さく残った。思えばあのときから私は「かわいそ村」に足を踏み入れていたんだな。と、話をニノに戻して終わります。あ、私の生命線は普通ですけど。
そんな言い方あるかい!もう死んでるなんてアンタ、こんなに生きてんのに失礼じゃないか。・・・ん?・・・なんか、思い出したぞ。
私が幼稚園の頃のことだ。体育館で幼児たちが思い思いに走り回って遊んでいたとき、私も走りながら転がっているボールを蹴ろうとしたのだが、足がボールの上に載ってしまい、勢いよくすっ転んでしまった。そのまま後頭部を床で打撲し、先生が体育館の隅まで連れて行ってくれてしばらく横になっていた。その頃仲良しだったリエちゃんが心配してずっと付き添ってくれた。先生は誰だったか思い出せないが、リエちゃんが「せんせー、サキちゃん大丈夫?」と聞いたら、先生はなんと「サキちゃんね、すごく頭打っちゃったから、もう死んじゃうよ。かわいそうにね」と答えたのだ。リエちゃんは、びっくりして自分のせいでもないのに泣きそうだった。
実際、木の床であんまり痛くなかったし、嘔吐や痙攣があったわけでもないし、そんなに大変に思っているなら病院や救急車の騒ぎにしないといけないんだから、全くのジョークとして言ったんだろう。お粗末な保育師め、子供しか聞いてないと思って配慮のない発言をしたもんだ、と今は思う。当時の私は特に悲しんだり泣いたりはしなかったが、家に帰ってからこの話を母に伝えたところ、「子供にそんなこと言うなんて!」とすごく憤慨していた。
全然気にしていないも同然だったが、心の奥に「5歳の頃、もう死ぬといわれた」ということだけが小さく残った。思えばあのときから私は「かわいそ村」に足を踏み入れていたんだな。と、話をニノに戻して終わります。あ、私の生命線は普通ですけど。
母のオリジナルではなく、実在でした!!私がなんか気に入らないときに母に「意地悪~」というと必ず母は歌ったものでした。「いじわーるーこがらーしーふきすーさーぶー・・・」てっきり、即興で作ったものかと。「意地悪木枯らし」という曲でもないんだね。ザ・ピーナツが歌って大ヒット!母も歌詞をお忘れでしょうから。
「心の窓に灯を」
横井 弘 作詞
中田喜直 作曲
いじわる木枯らし吹きつける
古いセーターぼろシューズ
泣けてくるよな夜だけど
ほっぺをよせてともしましょう
心の窓にともしびを
ホラ えくぼが浮かんでくるでしょう
真珠にかがやく飾り窓
うつる貧しいシンデレラ
ポッケにゃなんにもないけれど
かじかむ指でともしましょう
心の窓にともしびを
ホラ 口笛ふきたくなるでしょう
暖炉をかこんだ歌声を
遠くきいてる細い路地
ちっちゃなたき火は消えたけど
お空をみつめともしましょう
心の窓にともしびを
ホラ 希望がほのぼのわくでしょう
名曲です!!!
「心の窓に灯を」
横井 弘 作詞
中田喜直 作曲
いじわる木枯らし吹きつける
古いセーターぼろシューズ
泣けてくるよな夜だけど
ほっぺをよせてともしましょう
心の窓にともしびを
ホラ えくぼが浮かんでくるでしょう
真珠にかがやく飾り窓
うつる貧しいシンデレラ
ポッケにゃなんにもないけれど
かじかむ指でともしましょう
心の窓にともしびを
ホラ 口笛ふきたくなるでしょう
暖炉をかこんだ歌声を
遠くきいてる細い路地
ちっちゃなたき火は消えたけど
お空をみつめともしましょう
心の窓にともしびを
ホラ 希望がほのぼのわくでしょう
名曲です!!!

ランチ2
2008-05-29 | 事件
2度目の友人ランチが行われた。今日はこんなところにこんなお店が!?と感心するようなマリンスタイルの可愛いレストランだった。セレブ感は前回より若干下回るものの、料理もおいしく店内も気持ちがいい。小さいパンが6種類食べ放題になっていて、胃袋が許せばもっと食べたのだが、クリームパンとカレーパンしか食べられなかった。だってメインのおかずもフレンチな感じでしっかりあったし、鯵やダルマ鯛のおすしもあったし。これで1000円とは・・・。平日であったが少し待ってからの入店となった。
前回と同じメンバーで、特にとりとめもなく、思いつくままの会話で楽しかった。今回は子供の話が多かったかな。同級生の話になると、4人全員が思い出せない場合が多く、しかも話してる人の記憶もかなり怪しいので、「・・・?!」となってしまう。「1年のときに同じクラスだった○○君がねぇ」「同じクラスになったことないよなぁ」という会話が何回も。あれから20年たつのだな、と感無量である。
食いしばりになんかなるのはストレスによるものが多いといわれ、自分に何がそんなにストレスなんだろう?と考えてみるが、何かと心配事はあるものの歯軋りするほどのことはないんだがと思い、実は自分では気づかないようなショックを受けていたりして、と自分に勘ぐったりすると余計にストレスだ。理由などとりあえず置いといて、発散を心がけよう。友人ランチは格好のストレス解消だ。
友人の娘(小学2年生)がかなり濃いキャラクターのようで、他の友人にも評判だった。女の子にはありえないくらいのハスキーボイス(声の出しすぎで声帯結節が出来ている)で、とにかく予想のつかない行動に出るのだと。聞いているとすごく面白そうで、一度家に遊びに来てくれといったら、「器物損壊の危険性が高いので」と断られた。うちの子も泣かされそうなので、まず私だけで遊びにいってみようと思う。
前回と同じメンバーで、特にとりとめもなく、思いつくままの会話で楽しかった。今回は子供の話が多かったかな。同級生の話になると、4人全員が思い出せない場合が多く、しかも話してる人の記憶もかなり怪しいので、「・・・?!」となってしまう。「1年のときに同じクラスだった○○君がねぇ」「同じクラスになったことないよなぁ」という会話が何回も。あれから20年たつのだな、と感無量である。
食いしばりになんかなるのはストレスによるものが多いといわれ、自分に何がそんなにストレスなんだろう?と考えてみるが、何かと心配事はあるものの歯軋りするほどのことはないんだがと思い、実は自分では気づかないようなショックを受けていたりして、と自分に勘ぐったりすると余計にストレスだ。理由などとりあえず置いといて、発散を心がけよう。友人ランチは格好のストレス解消だ。
友人の娘(小学2年生)がかなり濃いキャラクターのようで、他の友人にも評判だった。女の子にはありえないくらいのハスキーボイス(声の出しすぎで声帯結節が出来ている)で、とにかく予想のつかない行動に出るのだと。聞いているとすごく面白そうで、一度家に遊びに来てくれといったら、「器物損壊の危険性が高いので」と断られた。うちの子も泣かされそうなので、まず私だけで遊びにいってみようと思う。

高校1年のときの仲良し4人組でランチをした。4人のうちの1人が最近結婚して京都へ行くことになったので、というのが集まった理由かな?や、そうでもないか。
もともとこれまでもみんなばらばらの土地にいたのだ。その時々で住所も分からん、年賀状も出してない、結婚式にも呼ばれない、というお互い疎遠な関係が何年も続いたりしていた。4人のうち誰かにあえば、いつかみんなで集まりたいね、などと言うものの、高校卒業後はほとんど集まれていない。
高校1年で同じ組になり、2年はバラバラながら学園祭でバンドを結成しヘタクソだったが何とか出演した。3年はさらにバラバラ感はあったが有志で劇をした。それぞれ4人以外の友人も交えての企画だったが4人が中心という気がした。思い出すといつも笑い転げていたようだ。
小学校から大学までなぜか私はクラスや学年でトップレベルの可愛い女子と仲良くなってしまう。別に顔で選んでいるつもりはないし、あくまで気が合う人としか付き合えないんだがずっとそうだ。あ、もちろんそういうタイプじゃない仲良しもいっぱいいるよ、可愛いけど親しくなれなかった子もいるだろうし。でもチョッと感心するくらい多いんだよね、美形の友達。
今回久しぶりに集まってみて、みんな変わらず華やかだったし、18年のブランクを感じさせないで楽しく過ごせた。それぞれに家庭が出来たり仕事頑張ってて、バラバラなのになんか共有してる。理解できる。笑い転げる。みんな肩書きは立派になって、隠れ家的なレストランを予約してのセレブ的ランチだったが全然気取る場面がなかった。
今回は日常で少し行き詰った様子の1人が頑張ってみんなに招集をかけて実現した有意義なランチだった。悩みみたいなものも聞いても良かったが、あえて明るく笑いあうことで元気になってくれればと思う。聞けば京都に行く友人もしばらくはこちらと行ったり来たりの生活だそうだ。1ヵ月後にランチの約束をして分かれたが、すぐ、楽しかったねとメールしあうのもなんだか高校生みたいなノリだな。
もともとこれまでもみんなばらばらの土地にいたのだ。その時々で住所も分からん、年賀状も出してない、結婚式にも呼ばれない、というお互い疎遠な関係が何年も続いたりしていた。4人のうち誰かにあえば、いつかみんなで集まりたいね、などと言うものの、高校卒業後はほとんど集まれていない。
高校1年で同じ組になり、2年はバラバラながら学園祭でバンドを結成しヘタクソだったが何とか出演した。3年はさらにバラバラ感はあったが有志で劇をした。それぞれ4人以外の友人も交えての企画だったが4人が中心という気がした。思い出すといつも笑い転げていたようだ。
小学校から大学までなぜか私はクラスや学年でトップレベルの可愛い女子と仲良くなってしまう。別に顔で選んでいるつもりはないし、あくまで気が合う人としか付き合えないんだがずっとそうだ。あ、もちろんそういうタイプじゃない仲良しもいっぱいいるよ、可愛いけど親しくなれなかった子もいるだろうし。でもチョッと感心するくらい多いんだよね、美形の友達。
今回久しぶりに集まってみて、みんな変わらず華やかだったし、18年のブランクを感じさせないで楽しく過ごせた。それぞれに家庭が出来たり仕事頑張ってて、バラバラなのになんか共有してる。理解できる。笑い転げる。みんな肩書きは立派になって、隠れ家的なレストランを予約してのセレブ的ランチだったが全然気取る場面がなかった。
今回は日常で少し行き詰った様子の1人が頑張ってみんなに招集をかけて実現した有意義なランチだった。悩みみたいなものも聞いても良かったが、あえて明るく笑いあうことで元気になってくれればと思う。聞けば京都に行く友人もしばらくはこちらと行ったり来たりの生活だそうだ。1ヵ月後にランチの約束をして分かれたが、すぐ、楽しかったねとメールしあうのもなんだか高校生みたいなノリだな。

身内に不幸があり、忙しくはあったが、故人も高齢で長く寝たきりだったこともあり、湿っぽくはならずに親類と旧交を温めた。
火葬を待つ間、はややハイになっていた(灰ではなく)喪主のはなし。
「わしが子供のころはまだ道路が舗装されていなくて、車も少なかったからでこぼこのままだったけど、友達と二人で通りかかった馬車に乗せてもらったりすると左右にそれはものすごい揺れて・・・。道の向こうから進駐軍のトラックが来たりするな。」
(し、進駐軍? GHQ?! 隣に座る母に「ハナ、マッカーサー元帥。」と囁きかけるも「シッ」と喪主の話に夢中。私が鼻をかむとあんた、いっつもそういってたじゃない!)
「すれ違うときにちょうど両方が内側に向かって揺れたから、ぼが~んとぶつかっちゃって、わしは大丈夫だったけど、そっちに座ってた友達は馬車の破片ごとぼ~んと飛んじゃったな。・・・そのあと、昭和天皇が来て道はみーんなきれいにされたな。」
(いやいやいや、友達の話の続きは?!道の話だったんかい!!「友達はどうなったの?」って当然みんなが聞きました。やれやれ。)
「あたまが骨ごとパカッとなって、昔だからな、今ほどきれいに治してもらえん」
(進駐軍や馬車の話はカットですか!でもとりあえず生きてるのね、ほっ)
「進駐軍?なんか二人くらいニヤニヤして降りてきて、ガムくちゃくちゃしながらな、そいつトラックに載せてったから、病院行ったんだろう。わし?馬車でそのまま帰ったよ。そりゃそうだろ。そんで家帰って、大人に話したりそいつの親に伝えたりしたんじゃないか?」
・・・じゃないか?って、あんた。その後も喪主は進駐軍がたびたび登場する昭和初期の話を時間いっぱい続けていた。あまりお力を落とさないように、って言われることがないように頑張ってたのかな。
火葬を待つ間、はややハイになっていた(灰ではなく)喪主のはなし。
「わしが子供のころはまだ道路が舗装されていなくて、車も少なかったからでこぼこのままだったけど、友達と二人で通りかかった馬車に乗せてもらったりすると左右にそれはものすごい揺れて・・・。道の向こうから進駐軍のトラックが来たりするな。」
(し、進駐軍? GHQ?! 隣に座る母に「ハナ、マッカーサー元帥。」と囁きかけるも「シッ」と喪主の話に夢中。私が鼻をかむとあんた、いっつもそういってたじゃない!)
「すれ違うときにちょうど両方が内側に向かって揺れたから、ぼが~んとぶつかっちゃって、わしは大丈夫だったけど、そっちに座ってた友達は馬車の破片ごとぼ~んと飛んじゃったな。・・・そのあと、昭和天皇が来て道はみーんなきれいにされたな。」
(いやいやいや、友達の話の続きは?!道の話だったんかい!!「友達はどうなったの?」って当然みんなが聞きました。やれやれ。)
「あたまが骨ごとパカッとなって、昔だからな、今ほどきれいに治してもらえん」
(進駐軍や馬車の話はカットですか!でもとりあえず生きてるのね、ほっ)
「進駐軍?なんか二人くらいニヤニヤして降りてきて、ガムくちゃくちゃしながらな、そいつトラックに載せてったから、病院行ったんだろう。わし?馬車でそのまま帰ったよ。そりゃそうだろ。そんで家帰って、大人に話したりそいつの親に伝えたりしたんじゃないか?」
・・・じゃないか?って、あんた。その後も喪主は進駐軍がたびたび登場する昭和初期の話を時間いっぱい続けていた。あまりお力を落とさないように、って言われることがないように頑張ってたのかな。
