1912年6月6日 今から100年前の大正元年
藤原寛人は長野県上諏訪町大字上諏訪格間新田で元気な産声を発した。
後にペンネーム【新田次郎】が誕生したのです。
私は高校時代に山を知り、週末には学友と良く山登りをしていましたが、
社会人になてからは仕事等に追われ山登りは長い間ご無沙汰していました。
10年程前に本屋で新田次郎著【孤高の人】に出あった。
この小説は皆様ご存知の如く加藤文太郎をモデルにして書かれたもので
、
私は是より先に彼の著書【単独行】
を読んでいたので、新田次郎の【孤高の人】を読んでいる内に加藤文太郎の人物像が
より鮮明に浮かび上がり彼は『仕事は仕事、山は山』と割り切り
会社の一員としての役割を立派に果たし、仕事と山行をうまく両立させている。
【孤高の人】の書き出しは、新田文学が得意とする気象状況を巧みな文章で表現し、
読者を抵抗無く物語の中に引き込んでいく。
また新田次郎は加藤文太郎をリアルに描写し、読み続ける私にはその場面や情景が
手に取る様に立体的に浮んで来たのを思い出した。
6月1日 新田次郎生誕100年を祝って新刊【小説に書けなかった自伝】を買って読んだ。
彼は実在した人物をモデルにし、数多くの山岳小説を書き遺している。
私も新田文学の愛読者の一人で、発売された文庫本の
短編から長編もの迄隈無く読ませて頂いた。
直木賞受賞の強力伝は
強力の小見山正さんをモデルにして書いた新田次郎の処女作です。
新田は独身時代富士山測候所に5年間勤務し、最後は富士山気象レーダー建設の
責任者として勤務したと記しており、
その豊富な経験や記録により多くの富士山を題材にした小説を残している
『富士山頂』 『富士に死す』 『芙蓉の人』 等
新田の故郷 霧ケ峰を題材とした
『霧の子孫たち』の時は神経を使った苦労話が綴られている
『アラスカ物語』では長期のアラスカ取材を行い
長編小説『銀嶺の人』も日本アルプスは勿論の事ヨーロッパに二度出掛けて
現地の山岳風景や風土の調査に基ずいて書いたと述べている
新田次郎は次の様に語っている
「山の小説は他の小説と同様書いて楽しいものではない、むしろ苦しい。
しかし山の風景を心に描き続けることで自分自身が救われる。」
上記の事を心掛けているから新田次郎のどの小説も構成が見事なものである
読んでいて実に面白く、又山行の参考になる。
その影響で忘れていた山登りを私も再会し
現在では
『 山に登るのは、次の山に登るため 』に山行を続けている。
「新田次郎さん生誕100年御目出どとう御座います」
「奥様 藤原てい様の『流れる星は生きている』の本も何時か読ませていただきます」
新田次郎は昭和55年(1980) 心筋梗塞を起こし自宅で死亡
享年67歳の生涯を閉じた 合掌 奇しくも私の誕生日に亡くなっている。
(お釈迦様の涅槃と同日)
次はこの本が私を待っています
少年時代のガキ大将に還って、
無邪気に読んでみようかな~~
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