saoの猫日和

小学生5年生から、ジュリーとタイガースのファン。
猫が好き。ガーデニングとレトロ建築巡りが趣味です。

②(7月9日)沢田研二 LIVE LINE CUBE SHIBUYA

2024年07月11日 19時44分59秒 | コンサート・ライブ

 

二日間、渋谷のジュリーLIVEとTOKIOの街を満喫して、昨夜帰ってきました。

一緒に上京したジュリ友さんらと、JR渋谷駅からこれで道は間違っていないのかな?と、オタオタしながら、西武やパルコの道の前を登っていきました。

会館を見つけて、一安心(^^)

LINE CUBEの席は、1階の一番後ろで、ジュリーからは遠かったけれど、ジュリーの動きや表情もなんとなく見えました。まいどおいどは定番になったようですね、お江戸はなくて。

お前にチェックイン」で、ホーミータイ!ホーミータイ!(Hold me Tight)両腕を体の前でグっ! それがス~ッゴク可愛いよ~ カッワイイ~

76歳を可愛いと思えるなんて、ジュリーの外に誰もいない(笑) 双眼鏡で覗いた、清々しさを感じる品の有る表情に見とれました。他のジーさんと比べるのは大きな間違いなんだけど、あんなに素敵なジーさん他にいない。ウットリ、見とれてきました。

そんなジュリーが、デビュー前のことを話してくれて、京都のファニーズの4人は右京区の金閣寺。自分は銀閣寺で地味・・ 君が入れば日本一に成れる!と言っていたが、あの4人は4人だけでも日本一になれると思っていたに(笑) バンド合戦では、自分は見ているだけだったけど、どれだけカッコ良かったたか!!には、本当に力を込めて、心の底からカッコ良かった!!と話していましたが、だからといって 自分がいなくても(とは、思わない)にまた(笑) 演奏はともかく、優勝✨✨

バンド合戦に出場してたナンバ一番の先輩たちについての話、キングス(オックスの福井さんがいた。キングだから王子様のような恰好をしていた) ※キングスは、GS専門のサイトでは地味地味とかなり辛口の評価です。⇒  ザ・キングス ジュリーは実力が有ると評していたのにね。ジュリーがいうように実力よりもルックス!華があるかないか、なんでしょうね😓

同じくバンド合戦に出場した、バックボーン(このバンドには、のちにオックスの野口ヒデトさんも入ったはず、ジュリーがナンバ一番にいた頃は、まだ入っていなかったのかも)このあたりのGSについては、ジュリーの発言が非常に興味深かったです。

日劇に出演した時の裕也さんの、若いタイガースへの心配りにも感激。良い場面で出してやろうと、歌の上手い尾藤いさおさんと一緒に出してもらった。裕也さんがその時に歌ったという「キャデラック」を少し口ずさんだジュリー、裕也さんを思い出していたんでしょうね。タイガースがすぐに人気者になったのは、裕也さんのお陰です。

去年、尾藤いさおさんの出演した心斎橋でのライブに参加してきましたが、その時にタイガースの思い出を聞くことができました。以下のリンクからどうぞ ⇒タイガースの歴史をスリージージーズ・ライブで知る




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3 コメント

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Unknown (高杉セブン)
2024-07-14 14:43:22
中森明菜と沢田研二のテレビでの共演は87年の紅白歌合戦が最後だった。そうだったかも知れませんね。
明菜が難破船でジュリーがCHANCEでした。もうあの年のジュリーはヒット歌手としては終えていたけど、テレビスターとしてはギリギリ踏ん張っていました。紅白にも出場危うしと言われながら踏み止まりました。
沢田研二ショーを見ていたけど、明菜さんの回は見ていません。梅沢富美男さんの回とかは見たけど。知ったのはその年の暮れの女性週刊誌で苦戦した83年。沢田研二ショーで明菜とも共演するなど奮闘したとグラフが出ていました。ベストテンもジュリーがチャートインしなくなったから明菜さんが昇って行ったから。
6番目のユウウツの最後のチャートインが82年11月18日の第8位。セカンドラブの最初のチャートインが82
年12月2日の第6位。翌々週の16日には1位に上り詰めます。完全なすれ違いでした。新旧交代。私は長く、
吉川晃司とチェカーズにヒット歌手としての引導渡されたという認識でしたが、沢田研二から中森明菜に時代が移行した。そんな気もします。あくまでもデータ上の話だけど。
あれから42年経って共演という話があったのですね。
ジュリーも明菜も好きですが、このままの方が良いかな。沢田研二と山口百恵の共演なら見たい気もします。矛盾してるけど、ジュリーと百恵さんは時代を共有した戦友だったから。多分、これも実現しないと思います。今年の紅白でちあきなおみさんが復帰して喝采を歌う事が無いと同じように。
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Unknown (高杉セブン)
2024-07-14 18:10:06
訂正します。沢田研二と中森明菜のベストテンでの接点。ありました。少女Aの事をすっかり飛ばしていました。中森明菜が最初にチャートインした少女Aと沢田研二が最後にチャートインした6番目のユウウツ。
82年9月30日から11月11日までの7週重なっていました。きっとこの時に並ぶ事とかあったのかなあと思います。
少女Aに当初は沢田研二のために書かれたというのは数年前の朝日新聞土曜Beの売野さんだったかの記事で知りましたが、元のタイトルが聖少女Aだったというのはさっきウィキペディアで見て知りました。しかしあの年は先に西城秀樹が聖,少女という歌をヒットさせています。見せられたらジュリーだってなんで秀樹君と似たタイトルの歌を歌わなあかんのやとNGだったと思います。6番目のユウウツになって、明菜さんが少女Aを歌ったのは良かったと思います。
ス・ト・リ・ッ・パ・ーも当初はロックンロールで不眠症という歌が本命だったと聞きました。誰が書いたのか。売野さんだったのか。でもあの当時だから三浦徳子さんが歌詞を書いたのだと思います。お蔵入りした2作聞いてみたいです。
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Unknown (sao)
2024-07-14 20:55:02
>高杉セブン さんへ
>訂正します。沢田研二と中森明菜のベストテンでの接点。ありました。少女Aの事をすっ... への返信

高杉セブンさん、今晩は。詳しい私見を有難うございます。
明菜さんがゲストの沢田研二ショーは見ました。
2人の共演は年齢と年代の違いが、かえって刺激的でとても魅力的でした。
とても見たいですが、明菜さん、百恵さんとの共演は実現はしそうにありませんね。
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