9/15 連休中日、結局阿蘇の噴火口は覗けず、臼杵へと向かいます。大分県南部、遠いです。
谷の斜面のあちこちに石仏が刻まれています。というか、崖の岩を彫り出したもの。
屋根は、国宝指定前の修復の時につけられたとのこと。
柔らかな凝灰岩は彫刻に向いているとか。
風化しかかったところも深い味わい。
石仏にはベンガラなどを塗って彩色。
鎌倉彫刻らしい明快さと力強さ。
古園石仏
み仏との対話。
日本のふるさと。稲も緑に。
石仏は火山性の柔らかな石に彫られている。たくさんの石仏もこの石あればこそ。都から遠く離れたこの地で、こんなにレベルの高い石仏があるのは、奇跡というよりも、豊かな土地だった証しかも。おそらく都の寺院の荘園などがあり、宗教集団が常住していたのでは・・・とロマンはどこまでも広がります。
決して辺鄙な土地ではなく、豊後水道から瀬戸内を通って、都との交流も容易だったと思う。
石から仏を彫り出すのではなく、石の中に隠れている仏に出てきていただく。仏師はその手助けをするだけ。この石仏群を見ているとそう思います。ミケランジェロもなんかこんなこと言ってましたね。
それにしても石はどの段階から仏様になるのだろうか。未完成の石仏でも、見る者の信仰心と呼応した時に。
風化していく仏は、人の一生を軽く超える長い時間を顕している。その時々で信仰した人を思うとき、自分のまたそれに連なることに安心する。
仏は風化して、どの段階からただの石に戻るのだろうか。いやいや、一度仏になった石は、頭が落ち、体も砕け、崖にその輪郭しか残さなくなってもその気配が仏で在ったことを主張する。辺りに低く祈りの声が漂っている。
一度仏になった石は二度とただの石には戻れないのかもしれない。
不在の在・・・つまりは仏とは見る者の心の中にあり、像はその手助けをするだけ。像を見て、同じものが心の中に姿を結ぶ。
信仰心のない私だけど、ふとそんなことを考えた。南無阿弥陀仏。
いつの間にか忘れていた臼杵ですが、沢山の画像を拝見できてよかったです
よい旅をなさいましたね
画像を拝見出来て、私も心が洗われる思いになりました
ありがとうございます
私も長年の念願が果たせました。
昔は別府までフェリー、向こうはたぶん国鉄などで今より簡単に行けたかもしれませんね。
車社会になり、それ以外の旅は却って不便ですよね。
昔は仏頭が落ちていましたが、今は載せ直したそうです。
周りも観光施設が充実していました。機械があればぜひいらしてくださいね。