愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 136飛蓬-43: 小倉百人一首 (右近) 忘らるる

2020-03-03 10:44:18 | 漢詩を読む
(38番) 忘らるる 身をば思わず 
誓いてし 人の命の 惜しくもあるかな
                 右近
<訳> 忘れ去られる私の身は何とも思わない。けれど、いつまでも愛すると神に誓ったあの人が、(神罰が下って)命を落とすことになるのが惜しまれてならないのです。(小倉山荘氏)

「忘れられたからといって、私はどうでもよいのよ。ただ天罰で貴方の命が縮まるのが惜しいのよ」と。あの人の身を案じているようにみえる作者の歌の本音はどこにあるのでしょうか?

“和歌を漢詩に翻訳する。多くの課題を抱えながらも、現在50余首の漢詩化を達成し、峠を越したところです。この辺で翻訳した漢詩を例証しながら、課題とその対応策を提示して、読者のご批評を仰ぎ、次に備えていきたく思います。

今回の和歌は、まさに漢詩化を始めた初っ端に、遭遇した難題の一つを含んでいます。七言絶句に仕立ててみました。以下、ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>  [入声六月韻]
 遥想古情人 古(カツテ)の情人(コイビト)を遥想(オモイヤル)
初逢不管発誓愛, 初の逢(瀬)で愛を発誓(チカウ)も、
就你毁约天要罰。 就(スグ)に你(ナンジ)は毁約(キヤク)す 天 要(カナラ゙)ずや罰せん。
安憶此身君所忘, 安(イズク)んぞ憶(オモ)わん 君が忘れし此の身を,
却心甚惜君徂殁。 却(カエッ)て心 君の徂殁(ソボツ)を甚(ハナハ)だ惜しむ。
 註]
  遥想:思いやる。    不管:…にもかかわらず。
発誓:誓う。        你:あなた。
毁約:約束を反故にする。  徂殁:世を去る、死ぬ。
※“誓い”と“契り”:百人一首では、男女の約束事に“誓い”と“契り”が現れる。“誓い”は、神や仏にかけて約束することを言い、“契り”は、普通の約束、将来の約束を言う と。

<現代語訳>
 曽ての恋人を思いやる
初めての逢瀬の折、永遠の愛を神に誓ったのに、
今やあなたは誓いを反故にした、きっと天罰が下ることでしょう。
君が忘れてしまった私の此の身のことなど、何で私が思うことがあろうか、
却って心中 惜しむのは、君に天罰が下って命を縮めるであろうことなのです。

<簡体字およびピンイン>
 遥想古情人 Yáoxiǎng gǔ qíngrén
初逢不管发誓爱, Chū féng bùguǎn fāshì ài,
就你毁约天要罚。 jiù nǐ huǐyuē tiān yào fá.
安忆此身君所忘, Ān yì cǐ shēn jūn suǒ wàng,
却心甚惜君徂殁。 Què xīn shèn xī jūn cú mò.
xxxxxxxxxxxxxxxx

百人一首漢訳の数の上で峠を越したのを機に、和歌の漢詩化に当たっての苦労話を2,3紹介します。愚作の理解にお役に立てれば、と願いを込めて。

漢詩化に当たっては、五言または七言の絶句にすることを念頭に据えた。三十一文字からなる和歌は、・語数が少なく、・言葉の遊戯の面が強い。一方・物語性がありながら、・“結論“を導く過程は直接語られていない場合が多い。

語数が少なく、言葉の遊戯の面が強い、という点については稿を改めて触れます。本稿では、・物語性がありながら、・“結論“を導く過程は直接語られていないという面について考えます。

掲題の和歌はまさにその例と言えます。上の和歌と漢詩を対照して見て頂きたい。歌の“意味”は、直接的には漢詩の後半二行(転句と結句)で完全に表されています。しかしそれだけでは歌の“きっかけ”とか、なぜその“結論”に至ったかは伝わらない。

漢詩圏の外国の人にも読んでもらいたい、日本文化の一つ和歌を理解する一助になってほしい…との願いを叶えるには、後半二句のみでは不親切極まりないと思える。和歌の漢詩化を考えた際、初っ端に突き当たった点は、その対応法であった。

課題は、歌の“結論“を導くに至った”物語“をも含めて如何に漢詩に表現するか、すなわち”四行の短文“を一読すれば歌に含まれる”物語の全体像“が読み取れる、これを可能にするには如何なる対応をすべきか という点であった。

そんな折、貴重な講演会に接した。講師 王岩先生(南山大学非常勤講師)【司会 白雪梅先生(漢詩研究家、NHK漢詩サロン他講師)、主催 みのお中国文化に親しむ会(代表者 市村晃)】 による「与謝蕪村の俳諧2880句の漢訳」と題する講演であった。

講演では、俳句を漢訳する際の多くの経験が紹介された。その中で筆者にとって最も印象的であったのは、俳句中一単語で表現されている“情景”を複数の語を使って“膨らませて”表現し、“情景”を活き活きと蘇らせていく手法(?)であった。

その手法(?)をヒントに、“結論“を導くに至る過程の情景描写―(起句・承句)―を追加して、物語を完結させるという、現在の手法に至った次第である。和歌によっては、”いかなる情況下で詠った“と、詞書(コトバガキ)がある場合があるが、多くはない。

詞書のない和歌では、掲題の和歌がそうですが、歌の解釈は、ある意味、自由度は高く、読者に委ねられることになる。このような場合、追加された情景描写が、この読者の“読む”自由度を狭めるのではないかという心配はあります。

和歌の“物語”を読者に理解してもらう今一つの手立ては、“詩題”の設定です。 歌・詩のきっかけ”または内容を一言で提示することができます。但し詩題や、詞書のない和歌の場合の追加の情景描写は、翻訳者にとって最も荷の重い作業と言えます。
  
歌の作者・右近について簡単に触れます。平安中期の人ですが、生没年は不詳。右近衛少将藤原季縄の娘で、第60代醍醐天皇の皇后穏子(オンシ)に女房として仕える。960年「天徳内裏歌合」(閑話休題-132 & 133参照 )に出るなど、優れた歌人である。

恋の遍歴も華やかである。その遍歴は『大和物語』に語られているようで、藤原敦忠(百人一首43番)と結婚するが、敦忠は38歳で亡くなる。その後、恋の相手は高貴な男性ばかりで、百人一首に歌を残している男性でも4人数えられるようです。

上掲の歌には詞書がなく、相手は藤原敦忠であろうとされています。また歌の趣旨は、・捨てられたとはいえ、なおあの人の身を真に案じている、・口先だけで身を案じている風に見せている、あるいは、・いっそ神罰で死んでしまえ…と。

このように歌の解釈の自由度の高い歌にあっては、翻訳に当たって注意を怠ってはならない と自戒頻りです。読者のご批評を仰ぐ所以です。
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2 コメント

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Unknown (Rumi)
2020-03-05 20:55:13
Carl Munzingerという1880年頃に日本に来たドイツ人宣教師で、日本人を観察して本を書いた人がいるようです。
日本語訳も出ているみたいですね。その題名は「日本人」。
私が出会ったのは一文だけですが、日本人の(日本語の)本質をついてるんじゃないか、と思って印象的でした。
そして本ブログを読んだ時、ここと繋がってる、と思いました。

„[Der Japaner] denkt mit seinen fünf Sinnen, und der Ausdruck dieses Denkens, das ist die Sprache, steht unmittelbar auf dem Grunde der Wahrnehmung.
ネットでの翻訳機にかけると、こうなります。↓
[日本人]は彼の五感で考えており、この思考の表現、つまり言語は、知覚に直接基づいています。

本ブログで書かれている以下の点と重ね合わせてみると。
「歌の“きっかけ”とか、なぜその“結論”に至ったかは伝わらない。」
「歌の“結論“を導くに至った”物語“をも含めて如何に他言語に表現するか」

日本人は知覚に基づいた思考を言語で表現する(Carl Munzingerによると)ので、理路整然と起承転結型での表現方法よりは、知覚をメイン部分として完結させる表現方法が多々とられる傾向にあり、特に文字が限られている和歌や俳句などは、感覚・感情の露出表現に集中した、という事か、と思います。

どうでしょう???
Unknown (Rumi)
2023-07-07 19:36:50
こんな記事を見ました。
https://news.nifty.com/article/item/neta/12136-2431405/

上記で私が言いたかった事、同じ事を言ってくれていませんか?

英語圏 : 言葉の方が物事を認識する時の強制力になっている。証拠主義、証言主義。要するに誰かが言ったことが、比較的起こった出来事に言葉や表現が比較的近い

日本語 : 自分の気持ちに言葉が近い

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