徒然草庵 (別館)

人、木石にあらねば時にとりて物に感ずる事無きに非ず。
旅・舞台・ドラマ・映画・コンサート等の記録と感想がメインです。

9days Queen 九日間の女王(3月8日公演第一幕)

2014年03月09日 | 舞台

というわけで5日(水)の夜、ひとつの曲がり角を越えた感のある(私の)9dQ。
公演も中日を過ぎ、自分の中でもすごく楽しみにしていた2回目の週末が巡ってきました。



ま さ し く 神 回 !



何かを表現するときに「神何とか」という言い回しは、その響きの安っぽさゆえに?どこか冒瀆のように感じられて好きではないのですが、今回3月8日の夜公演に関しては「敢えて」使ってみることにしました。

舞台を愛する人間として、バーンと芝居が大きくはじけた瞬間に立ち会うこと、それを見届けること、終わった後に反芻しながら感想を語ること、これが何よりの喜びです。

そして初日から私の中で葛藤に近い紆余曲折があった『9days Queen 九日間の女王』――今まで観てきてよかった!上川さんのファンでよかった!芝居が好きでよかった!と心から叫びたくなるほどに、8日ソワレでは震えるような感動がありました。

終演後は文字通り拍手が鳴りやまず、ついに3回目のカーテンコール!そして初日のご祝儀的な?スタンディングオベーションではなく、雪崩れるように観客が立ち上がり、大きな拍手を舞台上のキャストに送り続けました。私もこの日は最前列!「今日は凄い!ホントに凄い!」と興奮して頷きながら手を叩き続け、キャストのある方とふっと視線が合った瞬間、思わずお互いに笑顔になってしまったほどの「感動と熱狂」でした。

舞台の神様は、確かに存在しています。
でも、神を呼び寄せるのは、そこに集う人々の力、想いかもしれません。


4月にCSの放映が決まり、映像収録が11日(火)公演に行われるようですが「この夜こそ、永遠に心にとどめたい」そう思った夜でした。


  ◇   ◆   ◇


≪参考:物語の主な舞台≫
(後方壁面に映し出される地名/場所や、会話に出てくる都市など)

チェルシー・マナー Chelsea:キャサリンが未亡人となった後住まっていた宮殿。ロンドン市内のチェルシー地区にある。現在のハロッズやケンジントン宮殿(故ダイアナ妃の住居)にも近い。

ブラッドゲイト・ハウス Bradgate:イングランドの中部(ちょうど真ん中あたりに位置する)レスターシャーにあるグレイ家代々の居館。サフォーク公爵夫妻(ヘンリーとフランシーズ)そしてジェーンが(宮廷に出仕するとき以外に)住んでいる。ロンドンからは150キロほどの距離。堀北さんと白井さんが特番で訪れた廃墟がここ。

オックスフォード Oxford:ロンドンから西へ100キロほど離れた町、大学で有名。廃嫡され庶子身分となった元王太子メアリー王女がロンドンを離れ(おそらく一時的に)住んでいた館がある。エドワード王治世下でのメアリーはロンドンの宮廷には顔を出さず、専ら自領のあるサフォーク、ノーフォーク、エセックスなどの地方を転々として過ごしていた。

ノーフォーク Norfolk:農民の反乱が起こった場所。イングランド東海岸、北海に面した農耕と毛織物産業の盛んな地域。メアリーが即位を宣言したノリッチ Norwichの町(16世紀当時イングランドではロンドンに次ぐ大都市であった)はここにある。

シオン館 Syon:ロンドンにおけるノーザンバランド公爵邸。ジェーンとギルフォードの新婚生活の場。ロンドン西部にあり、現在のヒースロー空港やキュー・ガーデン(植物園)に近い。(ちなみに市内からは結構離れている)

ロンドン塔 Tower of London: テムズ河畔にある要塞兼宮殿。英国国王は即位後のしきたりでこの宮殿に一定期間滞在する。4つの塔とそれらをつなぐ大要塞で、王の住居としての機能のほか、一部は監獄としても使われていた。


  ◇   ◆   ◇


≪3月8日ソワレ 第一幕≫
客席のざわめきを優しく包んで消して行く弦の音…メロディーが緩やかに立ち上っていく。この舞台の序曲とも言うべき『石の記憶』、ブラックバード:青葉さんの澄んだ歌声とともにソワレの幕が上がった。最前列上手、舞台に立つ役者たちの息遣いさえ聞こえる「境界線上」に、私はふたたび身を置いていた。

ブラックバードの歌声に誘われるように、舞台上に上川さん演じるロジャー・アスカムが姿を現す。初日の印象と比べると、随分と引き締まった面差し、そして体躯(苦笑)…いや!誤解のないように?!言うならば、座席の遠近に関わらず、3人中3人が「胸からお腹、キリッと締まったねw」「ウォンバット的な『もそもそ感』が消えた!w」と感想を述べていたので間違いないかと! ←やめなさいw

連日の舞台がフィジカルな変化を生むのは当然としても、私たちの感じたのは別のところだった。つまり、纏う空気感が明らかに変容した――観客の反応が、拍手が、批判が、役者を美しく磨いていく。役者も舞台上で感じるナマの反応を糧に毎日変化していく。それを分かりやすい形で目の当たりにした、とでも言おうか。『渇いた太陽』での深化も凄まじかったが、今回はもっと静かで、エネルギーを秘めた印象。

第一幕・第一場・第一声。文字通り「語り部」ロジャーの(観客への)お披露目。客席に語りかけ紡がれていく言葉、見つめる眼差しのゆるぎなさ。これが、初日あれほどに「様子見」の躊躇した演技を見せていた上川ロジャー?5日の時点で感じていたものを目前にして、私は確信した。


全 然 違 う 。


心地良い緩急のついたキレのある台詞回し。ふっと振り向く姿の凛々しさ。万感、と描写するだけでは薄っぺら過ぎる、深く澄んだ情感のこもった横顔。落ち着いた表情のまま、視線が虚空の一点を見据えている…そう、これだ!この一枚の「画面」――白井さん演出では時にあざといまでの「見せ方」「様式美」があると感じているが、ハマったときの芸術性はやはり、流石と言うしかない。私の心が近づいた瞬間、その場面は一幅の美しい歴史画と化した。


「この国は、誰のものだろう?
 時の王のものか。政治家のものか。その時々の民衆のものか。
 もし王のものならば、国とは一体何だろう?
 国土、国民、あるいは魂。彼らが支配したいものは何だろう?
 国を欲しがる人たちは……本当は、何が欲しいのだろう?」



低く高く、抑揚豊かな声が内に秘めた激情を包み込んで響く。独白部分で滲む透徹した哀しみはバックに流れる美しい旋律と絡み合い、トランペットの晴れやかな音色に負けないハリのある叫びが場面を彩る。語り部としての説明部分ですら鮮やかなインパクトを与える声音。

まさしく「たった一人で」劇場中を流れの中に一気に引きずりこむ、力強いその声に導かれるように中央のドアが開き、戴冠式に臨む盛装のエドワード6世を囲んで全キャストが姿を現す。華やかなそのさまを上手からブラックバードとともに静かに見守る立ち姿。



これこそ、上川隆也のロジャー・アスカム!
私の観たかった9dQ!!!


 

「私が生涯忘れることのないであろう女性、
 この国の何ものをも欲しがらなかった、ただ一人の女王、
 9days Queen、九日間の女王。親愛なる…レディー・ジェーン・グレイ…」

 


ロジャーの言葉にいざなわれ、私の意識は16世紀のロンドンにふわりと降り立った…誰よりも「彼の視線に」寄り添って。彼の心の中に生き続ける、白く輝く美と知性のイデアそのものとも言えるジェーン・グレイ、その生涯を追うために。


  ◇   ◆   ◇


この日のソワレは、最初のインパクトの鮮烈さが全てを決したのかもしれない。奔流のようにストーリーが流れ始め、各キャストは生き生きとそれぞれの人生を紡ぎ始めた。私の目に、キャサリンの館に集う人々がこれまでにないくらい生々しく映る。皆がイキイキとしている。皆が自由に見える。恋するキャサリンの華やかな声を存分に生かした芝居、エドワードの闊達さと心優しさ。メアリーの慎重なまでの奥深さ。エリザベスの乾ききった存在感。集う貴族たちも前より「キャラが馴染んできた」安心感がある。台詞にわざとらしいアクセントを付けたり、偽悪的な表情を浮かべたり、浅い・深いの差はキャスト間で歴然としてあるのものの、それぞれが個性をモノにしている楽しさを見て取れる。初日に感じた「個性的で素晴らしい役者の集まりだが、バラバラな芝居」は、やはり場数を踏んだことで緩やかな融合に向けて動いていた。

(余談)宴会でロジャーが酒杯を下げる場面、序盤の舞台での「むせる」から「不良品のワインでも飲んだ時のように眉を軽くひそめて」グラスの匂いを二、三度嗅ぎ、「美味しくない」とでもいうようにそっと衛兵に手渡す小芝居になっていた。さて、これは後の「美食も好きな俗物」演出に繋がると思っていいのだろうか?(笑)運動が好きというのは『弓術論』なる著書があることで知られているけれど。

浅利さん演じるエドワード6世の(元気なころの)姿と振る舞いは、もし神が彼に人並みの寿命を与えたのならば良き治世を実現したであろうと思わせる、若いながらも非の打ちどころない君主像。『おのれナポレオン』での見事な裏表を有した名演が記憶に新しい上に、『怪奇大作戦』でのゲスト出演(メアリーさまの部下だったw)、加えて映画『猫侍』での折り目正しく+とっぽい(笑)若侍の可愛らしさもオーバーラップして、やっぱり観るものの心をぐっとつかむ。文句なしに上手い!

第二幕では病が重篤になり、キャサリンの亡霊に語りかける場面での鬼気迫る、しかし悲しいまでの真摯な願いを体現する渾身の演技。床に倒れこみながら「教えてくれ、キャサリン!僕の判断は間違っているのか?」と手を伸ばし嘆く姿は涙が滲む痛々しさ。ジェーンへの素直な好意、もちろん舞台の設定はフィクションではあるものの、もしも歴史のifがあるなら、二人を結婚させてあげたかった。浅利さんのエドワードのイメージが清冽なだけに、ラストシーンまで「彼の遺言の真実」が重い意味をなす、そんな思いを抱いた。


話はジェーンとアスカムの出会いに戻る。

「一番好きな本は何ですか?」
「ええと…プラトンの『パイドン』です」
「英語で?」
「いえ、原語で」
「ギリシャ語で?!」
「その方が、ソクラテスの魂に触れられる気がして」
「『魂の不滅』だ…!」
「…ええ!」
「貴女は『魂の不滅』を信じますか?」
「信じ…たい、と思っています」
「信じたい、ということは、『本当は信じていない』ということ?」
「真実かどうか、それは今の私にはわかりません…自分が『その時』になってみないと」


プラトンの『パイドン』を軸に、お互いの精神世界を共有する二人――魂の共鳴。

ところで『パイドン』とはアテナイで死刑宣告された大哲学者ソクラテスの最後の日々に、彼の弟子と交わされた「魂の不滅と肉体」「死と永遠」に関する著作である。ソクラテスは「その思想でアテナイの青年を惑わした罪」に問われ、死刑を宣告される。弟子たちが彼を牢獄に訪ね、肉体と魂の関係性、死と生について厳しくも率直な論議を交わす。十歳そこそこの少女が(翻訳版たる英語ではなく原語のギリシャ語で)耽溺して読む内容ではない。それは周囲の、他ならぬ彼女の父親の表情で分かりやすくあらわされている。幼いジェーン・グレイは数年後に迫る自らの運命を知るはずもなく、ただ無垢に知的好奇心を満たすべくアスカムに語りかけていた。

ロジャーの眼を通して…いやロジャーの傍らに立つ思いで、私は彼女を観ていた。エドワードの戴冠、キャサリンの再婚、ジェーンのもとに舞い込んだ幸運、新たな出会い、不協和音の兆し――この場面が舞台の最終局面でリプライズされるのが分かっているからこそ「失われた幸福な日々」の象徴として胸に突き刺さる。

この共感性はなんだろう?初日から比べて「進化した」部分、「衰えた」部分があったのは確か。しかもそれはキャスト間格差がとても激しい。変わっていない、あるいはこれ以上変化の見込めない人も正直いた。とはいえ「上手い人たち」の纏う空気の変化は舞台を支配し、安定感のある芝居と、突破力のある芝居がぶつかるシーンは文字通り火花を散らすような緊張感だ。

声がやや舞台嗄れしても、圧倒的な気品と迫力で存在感を見せつけるキャラクター…メアリー(=田畑智子さん)がいる。初日の鮮烈さに思い切りと磨きがかかり、時に漫画的なやり過ぎ感もありつつ、それが舞台巧者と絡むことで物語に爆発的なエネルギーを生み出すキャラクター…ギルフォード(=成河さん)もいる。ベテラン勢ではノーザンバランド公ジョン・ダドリー(ギルフォードの父=田山涼成さん)の猫撫で声が策略をめぐらし、「腕一本で成り上がり」感をも存分に見せる殺陣が光る。観客席とはいえ「間合い」に入ると身の危険を感じるほどの激しいぶつかり合いは、何と剣が折れるほど。サフォーク公爵ヘンリー・グレイ(ジェーンの父=神保悟志さん)の非情で温かみの欠片もない権力の亡者っぷりは、娘のジェーンの首に手をかけ蹴り倒す激しい所作に集約され…その光景を見つめるロジャーの静かな怒りが熱く鋭い眼差しにこもる。その怒りと悲しみ、自らの無力さを嘆く心は、指で触れそうなほど、私のすぐ傍にある。数多のキャラクターの感情表現が舞台の上で交じり合う。あの「バラバラ感」が遠い過去のようだ。

全てのシーンでタガが外れて?いい意味で「計算以上のもの」が舞台に降臨していた。

そして、流れの中心には常に堀北真希さんの美しく可憐なジェーン・グレイがいる。舞台3作品目と聞いているが、ことジェーンの役に関しては「演技力云々というより、存在感そのもので納得させてしまう」としか言いようがない。それほどにハマっている。史劇らしいメイクや衣装の似合い方、(マイクを通してとはいえ)十分に張りのある澄んだ声の通り方、舞台後方からでも無邪気さや凛とした表情を鮮やかに伝えてくる大きな瞳。身に纏う純白の衣装はいやでも観客の視線を釘付けにする効果があるものの、それだけでは絶対にない「説得力を持った美しさ」は、彼女を見守るロジャーに寄り添う私にも、常に眩しく映っていた。

ロジャーの役そのものも、初日の「つかみどころのなさ」(=理解のしにくさ)をかなり観客寄りに分かりやすく修正してきているのが分かる。まず声が違う。歩き方も違う。私の特に大好きな!田畑メアリーと絡む場面は大人同士の腹の探り合い?とでもいうような「俗っぽさ」を前面に出し、時々浮かぶ笑みは(ジェーンに見せる暖かな保護者のようなものではなく)共犯者、あるいは交渉者としての秘やかな色気すら感じさせる。そういえばメアリーとロジャーはほぼ同年代。無邪気なままでは生き残れない、宮廷の厳しさや大人の事情もイヤというほどに分かっているはずである。本来エリザベスの家庭教師でありながら、何故かメアリーと並んで立つ場面での「距離の近さ」、その窺い知れぬ内面を垣間見せる「食えない表情」が、どこまでもオトナの匂いだなあ…と感じる。先王ヘンリー8世と対立して処刑された大法官トマス・モアの記憶も未だ褪せぬ時代、ロジャーには同じ学者として決して他人事ではなかったのかもしれない。

サマセット公爵(=春海四方さん)が議会や宮廷をまとめきれない有様を見て、ロジャーの「自分なりにこの国を良くしよう」という理想は現実との妥協を強いられる。だからこそ、ジェーンの純粋さに心惹かれていくのだろう。彼女を生身の女性として見るのではなく、プラトン的に表現するならばやはり「美と知性のイデア」…魂と肉体は別、と夢見るように語るジェーンの姿は、白い鳩のように浮世離れして美しい。(←「長生きできそうにないね」とは思うものの…苦笑)

その対極にあるのがキャサリンやトマス・シーモア、エリザベス、そしてメアリーといった「生々しい人間の欲望に生きる」エロス的存在だろう。エリザベスとトマス、キャサリンが修羅場を演じる場面で、ジェーンは困惑し彼らから目を背けるしかない。ロジャーにはもう少し別の思いがあっただろうが、傍らに立っている彼の仕草や語りかけ、ジェーンを「守りたい」と願う姿からは「男女の関係云々」ではなく「自分の中の理想を具現化している彼女への憧憬」をより強く感じていた。

そんな「生々しさのない本の中だけの世界」に生きるジェーンが結婚の話を聞かされて戸惑う姿は(それまでの無垢な少女像がイヤミにならないゆえに)印象深いが、彼女を見つめるロジャーもまたこれまでの振る舞いとは別人のような動揺ぶりを演技にのせてくる。上流貴族、まして王位継承権を持つ者であれば男女を問わず常に政略結婚がついて回る当時、ロジャーは「ジェーンだけは薄汚い政争の道具にはなるまい」と勝手に思い込んでいたのだろうか。青ざめた顔のまま、辞去するジョン・ダドリーに会釈すら忘れて立ちすくむ姿は、やや油断していたであろう彼の内面を観察するに相応しい「わかりやすい」芝居である。

泣き崩れるジェーンを躊躇いがちに抱き寄せる姿もまた絵になる。今や見事にロジャーのアイコンとなった「左手」が(台詞はないにも拘らず)彼の心を…迷い、怒り、哀しみ、諦めといった切ない感情を雄弁に語る。立ち去る彼女を見送り、残されたロジャーは自身の左手を無言で眺め、ぬくもりを確かめるように二・三度そっと握りしめる。その背後ではギルフォードとジェーンの結婚式が粛々と執り行われていく。愁いを帯びたジェーンと、祝いの言葉に応えて能天気な笑顔を振りまくギルフォード、そして表情を消したままのロジャーが三者三様にスポットの中に浮かぶ。


「もう、止められない」歴史が動き出す瞬間。


ステージ中央に美しく飾られた巨大な十字架とその下に歩み寄るジェーン、見守るロジャーの背中に私たちは何を感じるだろう。ブラックバードがジェーンの嘆きを旋律にのせて歌う中、イコン(聖画)にも似たトライアングル配置での静止場面は、第一幕の締め括りに相応しい「美しい一幅の絵」として観客の胸に深く刻み込まれていた。


「メアリーの言葉が思い出された。私と彼女とは、棲が違う……と」


そして、舞台として爆発した最大のカタルシスは…第二幕終盤のクライマックス。
ロジャーが「ある条件」を携えて、ロンドン塔に収監されたジェーンのもとに赴くシーンだった。


しかし、その前に私にはもう少し記憶を総動員して書き留めておきたいことがある。
映像のように、とは行かないまでも、あの奇跡のような夜を永遠に心にとどめておくために。


  ◇   ◆   ◇


(3/11 加筆)

≪第一幕での好きな台詞たち≫
第二幕の感想を書き始める前に、前半で織りなされる会話で印象的な、あるいは面白かった台詞をメモしておきたい。


メアリー(歩きながら傍らのロジャーに話しかける)「人は生まれながらにして棲(すみか)というものが決まっておりますのよ。政治家は政治家同士、音楽家は音楽家同士、それぞれに棲を作って交われば良い。他人の場所に無遠慮に踏み込もうとすれば、相応の報いを受けることを覚悟しなければなりません。何か起きても言い訳がかなわず、ついには自分の安住の地さえも失うことになりかねない…」
ロジャー(やや驚いた様子で)「私に、サマセット公と縁を切れ…そうおっしゃっているのですか?」
メアリー(無表情に振り返って)「察しのよろしいことね」
ロジャー「ですが、私は私なりにこの国を良くしようと…!」
メアリー(遮るように)「あなた、ラテン語の他に得意な言葉はある?」
ロジャー(戸惑いがちに)「英語以外ですと…さあ…ドイツ語でしょうか」
メアリー「覚悟とは、左様なことを言うのです」



理想を追うことで政治に深入りし、結果母国に居られなって外国に亡命する…そこまでの覚悟がロジャーにあるか、と問いかけるメアリー。ロジャーはその容赦のない冷たい眼差しにたじろぐ。

メアリー(独白めいて)「私の居るべき場所は、母の源たるスペインなのかもしれません。少なくともイギリス、ましてやここロンドンなどではない…」
ロジャー「でも、私はあなたの話す英語が好きです」
メアリー「…………」


何をバカなことを、と言いたげに冷笑するメアリー。その胸中によぎる想いはどのようなものだろうか。私はこの二人の対話する場面がとても好きだ。何故なら自分自身もまた常に迷いを抱えているから。メアリーの韜晦も、ロジャーの逡巡も、時代や立場こそ違えど少しなら理解できる気がする。ある年齢と経験を超えたころに見えてくる悩みや迷い、あるいは諦観といったものも呼び起こされるようにも思う。

そして「あなたの話す英語が好きだ」…これは初日から「あっ、いい台詞だな」と思った。受け取り手によっていかようにも取れる深い示唆に満ちている。メアリーにラテン語を教えているロジャーなら、彼女の口からラテン語はもちろん、生母キャサリン・オブ・アラゴンから習ったであろうスペイン語が出るのも聞いたことだろう。だが彼はあえて「あなたの話す英語が好きだ」と伝えている。当時の英国ではいわゆる英語/イングリッシュは世界言語どころか宮廷言語ですらなく(公用語はフランス語とラテン語)日常語で地位の低いものだったというから、英語の地位向上と、当時主流だった体罰を避ける、生徒を主眼に置いた教育法の祖と言われる、彼らしい言葉かもしれない。ただ「英語を話すあなたが好きだ」ではないので、ここらへんも妄想のし甲斐がある台詞である。(笑)

単にメアリーの語る「英語の形をした明晰な思考」が好きだったのかもしれない。「人が話す言語の種類は、その思考のスタイルを左右する」(個人的な偏見だが)と仮定するなら「ロジャーは英語脳のメアリーが好き(⇔感情的なラテン系言語で話すときよりも)」という意味かな?と想像したり…同じく第一幕でジェーンに「あなたはラテン語で話すときの方が、心を開いているように見える」とも語りかけているロジャーだから、ますます奥が深い。ふふふ、罪な男だロジャー・アスカム(笑)…妄想ついでに「私も『あなたの話す英語(イタリア語でも可!)が好きだ』とか言われてみた~い!」とニヤニヤしていたら、友人に白~い目で睨まれてしまったが…orz (←言語チャネルが切り替わると性格も多少?変わる典型) このあたりは日常的に数カ国語の中に身を置く生活をしているせいか、ついつい空想の翼が広がり過ぎて?楽しい。


そうそう、他ならぬロジャー自身の箴言があった。

As a hawk flies not high with one wing,
even so a man reaches not to excellence with one tongue.
 


(鷹が片翼のみで高く飛翔することがないように、人間もひとつの言語のみで秀逸となることはない。) 


ジェーンも数カ国語に堪能、と母のフランシーズが自慢げに語るくらいだから、きっとさまざまな感情表現をその言語チャネルに合わせて操れる力はあったはず。しかし、彼女にとって言語とは人の語る言葉ではなく、本に書かれた思想や哲学であったのだろう。言語能力に長けていても、コミュニケーション手段である以上、生きた道具として使いこなす(武器とする)には、上流貴族の令嬢として敵のいない環境で純粋培養されてきた彼女には、最も必要な「経験」が不足しすぎていた…。

これに関連して、エリザベスがジェーンを手厳しく詰る「機会を与えられて、それを断ったのでない(→手に入れた)のなら、それは自分が他者から奪い取ったも同然なのよ」という台詞も胸に突き刺さる。メアリーは生母と自身の地位を奪ったアン・ブーリンとその娘エリザベスをこの論理において憎み、エリザベスは同じ論理で彼女の憎しみをエドワードやジェーン、キャサリンに向ける。
自分に向けられる怒りや憎悪が理解できないジェーンの世間知らずさ、「人の心に無知」である致命的な弱さ、何が悪いのかわからないまま謝罪する姿がさらに相手の憎悪をかきたてるという負のスパイラルも、なかなか観ていて面白い芝居になっていると思った。美しく瑕ひとつないイメージを体現するジェーンの唯一にして最大の欠点がこうして暴かれる。それもまた二幕の序盤でのギルフォードとのやり取りや、クライマックスで語られる長い告白に上手く繋がっていっている、と言えるだろう。

また、上川ロジャーの怒りと無力さに震える芝居を引き出すカギは、神保さんのサフォーク公爵ヘンリー・グレイの残酷な台詞と仕打ちだ。これも私の好きな場面のひとつであり、逆に言えば「この場面のロジャーの心に寄り添えなければ、この舞台全編が理解とは程遠いものになる」とすら思っている。ノーザンバランド公爵ジョン・ダドリー(田山さん)がジェーンの態度にいささか気分を害して立ち去った後の、あの場面だ。

ヘンリー「…なんだ、お前の今の態度は!」(…と、ジェーンにつかみ掛かり、壁に突き飛ばす。悲鳴を上げるジェーン)
フランシーズ「あなた!」(驚くが夫を止められない)
ロジャー「……!」(息をのんで立ち尽くす)
ヘンリー(激怒して)「何故言わん。何故、喜んで(縁談を)お受けしますと言わんのだ!」
ジェーン(父親に首元を締め上げられながら涙声で)「嫌です、私は絶対に嫌…!ダドリーの家に嫁ぐのは、怖いのです…!」
ヘンリー「何ぃ!?」


このあたりの神保ヘンリーの演技は恐ろしすぎて(二幕における田山ダドリーのキレっぷりにも匹敵する凄まじさ)、思わず「やめて!」と叫びたくなる。←余談だが昼公演では舞台上の石に足を取られて危うく転ぶ寸前まで体勢を崩したが、みごとに踏みとどまって+ジェーンへの台詞は全くよどみがなく、「凄い!」と観たものを別の意味で戦慄させたジェーンパパである…あの石には農民の怨念がこもっていたに違いないwとは友人談。

ヘンリー「親がこれ以上ないと思って持ってきた縁談に何を言う!誰のおかげでここまで育ててもらったと思っている!」(ジェーンを床に突き飛ばす。倒れたジェーンに思わず駆け寄ろうとするロジャーに、ヘンリーの怒りが向けられる)「あなたですか!あなたが娘にこんな教育を…!」
ジェーン(必死で手を伸ばしながら)「違います!ロジャーは関係ありません!」 ←あると思うけどね、と私の冷めた心の声。
ヘンリー(振り向いて)「口答えするな!」(と、ジェーンを殴りつけようとする。ジェーン、とっさに腕で身をかばう。フランシーズが悲鳴を上げる)


ロジャーはなすすべもなく絶句している。

ヘンリー「学問をさせるのは、ダンスを習わせるのは何のためだと思っている?断じてお前自身のためなどではない!すべては良い家に嫁ぐため、このグレイ家を安泰に、将来を確かなものにするため、良い縁談を勝ち得るための手段だ!それを、お前は…何様だ!」

初日から数回は、その衝撃的な「絵」(ジェーンが突き飛ばされ殺されかねない勢いで実父に罵倒される)に感覚がマヒしていたが、よくよく聞くと心底恐ろしい台詞である。なぜなら、この台詞の語彙を少し変えるだけで、現代にも大手を振ってまかり通っている「旧態依然とした価値観」そのものに通じてしまうからだ。

勉強するのは何のため?大学まで行くのは何のため?資格を取るのは何のため?
社会的に認められたいい会社に入って、安定した給料をもらって、生活の安泰を図るため?

つい先日、学生たちへ就活のプレゼンをしたばかりの身には、(決してそうではないと確信していても)いささか堪えた。
500年経ってもあまり変わらない、この閉塞した価値観は何だろうか。自由を得たいと願えば「焼印を押されて乞食になる」覚悟を求められる…今と何が違うのだろうか?


ついでに書くと、先述したメアリーとロジャーの会話での、最後のメアリーの台詞と冷たい立ち去り方がすごく好き。

「繰り返しますが。ロジャー、あなたは政(まつりごと)のひとではない。
 それについては、もっと賢くなった方がいいと思うわ…」


10年前の自分に聞かせてやりたい。(苦笑)


  ◇   ◆   ◇


閑話休題。

毎日毎晩身を削る思いで書いていますが(笑)続きは幕間に「これまでにないほどの満ち足りた昂揚感!」でスパークリングを飲み干した私wの観た、第二幕です。


(つづく)