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アウシュヴィッツ(ナチスのユダヤ人収容所)生き延びた101歳の苛烈な手記

2021-09-23 15:30:00 | 日記

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です。

ナチスに両親の命を奪われ、強制収容所に何度も送られた体験を持ちながら、自らを「世界でいちばん幸せな男」だと語る男性をご存じだろうか。
ユダヤ人大虐殺はまだ過去ではないことを、彼の語りから知ることができる。
エディ・ジェイクは1920年にドイツに生まれたユダヤ人で、今年101歳を迎えた。 彼が苦境に屈せず生きることができた背景には、彼自身の知性と前向きな性格はもちろん、父親や友人の存在が大きく影響している。
ナチス政権下、ユダヤ人の迫害が加速する中で、息子の行く末を案じた父親の計らいにより、エディは「ドイツ人孤児」として腕のいい機械技師になった。 収容所ではユダヤ人への暴虐が行われたが、ドイツに利益をなすとみなされた者は生かされた。
「ヒトラーさえ憎まない」と語るまでに、彼はどれだけの悲しみと苦しみを経験してきたのか。 そして、絶望的な環境で生きる希望となったものは何だったのか。 『世界でいちばん幸せな男』より、一部抜粋してお届けする。
−8℃の極寒でも裸で寝かされた
アウシュヴィッツは死の収容所だった。
朝、目覚めても、夜ベッドにもどれるかはわからない。 いや、ベッドなどなかった。 幅2メートル半もない硬い木の板でできた粗末な台で、凍えそうな夜に10人が並んで眠る。 マットレスも毛布もなく、他人の体温だけが頼りだ。 瓶詰めのニシンのように10人がくっつき合って眠った。 それが唯一の生きのびる方法だった。 零下8度というきびしい寒さでも、裸で寝なければいけない。 裸なら逃げられないからだ。
夜中にトイレに行ってもどってきたら、くっついて寝ている10人目の両端の者を揺り起こして中心に移動させる。 そうしなければ、凍死するからだ。 毎晩10人から20人が両端に長くいすぎたせいで死ぬ。 そう、毎晩だ。 生きのびるため、隣の男と抱き合うようにして眠りにつき、目が覚めるとその男は凍死して硬くなっている。 死んで目を見開き、こちらをみつめているのだ。
夜を生きのびると、冷水のシャワーと1杯のコーヒーで目を覚まし、1切れか2切れパンを食べる。 そのあと、ドイツの工場まで歩いて仕事をする。 どの工場でも働くのは被収容者だ。 ドイツで非常に評判のいい企業の多くは――現在も存続している企業もふくめ――わたしたちを利用して利益をあげていたのだ。
わたしたちは銃を持った兵士に見張られながら、片道最大1時間半の道のりを歩いて仕事に行った。 雪、雨、風から身を守る唯一のものは、薄っぺらい服と、安物の木と帆布でつくった靴だけだ。 荒く削った木のとがった部分が、一歩ごとに足の柔らかい部分に食いこむ。
仕事場への往復中につまずいて転んだら、その場で撃ち殺され、ほかの被収容者がその遺体を抱えて収容所まで運ばなければならなくなる。 ところがすぐに、みんな遺体を抱えられないほど体が弱り、長いぼろ布を持ち歩くようになった。 それを担架がわりにして運ぶのだ。 遺体を運べなければ、ナチスはわたしたちも殺す。 ただし、その場では殺さない。 収容所に全員がもどるまで待ってからみんなの前で撃ち殺して、見せしめにするのだ。 働けなくなれば用はなくなり、殺される。
アウシュヴィッツではぼろ布は黄金と同じくらい、いやおそらく、それ以上に貴重だった。 黄金があってもたいしたことはできないが、ぼろ布があれば傷口をしばったり、服の下に詰めて暖かくしたり、少し体をきれいにしたりできる。 わたしはぼろ布を使って靴下をつくり、硬い木の靴を少しだけはきやすくした。 3日ごとに前後を逆にし、とがった部分が足の裏の同じところに当たらないようにした。 そんなちょっとしたことで、生きのびられたのだ。
最初の仕事は、爆撃で破壊された弾薬庫の跡地の片付けだった。 アウシュヴィッツからそう遠くないところに、前線に送られる弾薬や兵器の供給基地になっている村があった。 わたしたちはその場所まで行進させられ、素手で爆発した弾薬の破片を拾った。 きつくて危険な作業だった。
親友の存在が支えになった
とてもつらかった。 いっしょに仕事をしているユダヤ人には、ドイツ人のわたしを信用してもらえず、しだいに自分の殻に閉じこもることを覚えた。 ただ、親友のクルトだけは別だった。 わたしの両親は亡くなり、妹が選別で生き残ったかどうかもわからない。 昔の生活と幸せだった時期を思い出させてくれるものは、クルト以外になかった。
はっきり言って、当時のわたしにとってクルトとの友情ほど大切なものはなかった。 彼がいなければ、両親が殺されたあと、絶望に負けていただろう。 バラックは別だったが、1日の終わりには必ず会い、いっしょに歩いて、話をした。 ささいなことだが、それだけでわたしは十分生きていけた。 わたしを大事に思ってくれるだれか、わたしが大事に思っているだれかが、この世にいるとわかっているだけでよかった。
クルトと同じ仕事が割り当てられることはなかった。 政府は詳細な記録をもっていて、ドイツ全土のユダヤ人の住所や職業を知りつくしていた。 これが彼らを恐ろしいほど有能な殺人者にした理由のひとつだ。
しかしクルトは運がよかった。 彼に関する情報はアウシュヴィッツになかった。 クルトはドイツとポーランドの国境にある町の出身で、ナチスはその町の記録をもっていなかったのだ。 職業をきかれたクルトは「靴職人です」と答え、収容所内の工房で腕のいい靴職人として働いていた。 彼は屋内で仕事をしていて、わたしやほかの被収容者のように雨や雪のなかを歩いて工場まで行かなくてよかった。
わたしたちは腹をすかせ、足に水ぶくれをつくって帰ってきたが、彼は安全な場所で、雨や雪にも降られず、食事もわたしたちより多かった。 被収容者に残飯が回ってくるときはいつも、まず仕立屋や靴職人や大工など、収容所内で働く人たちに回された。 わたしが働いていた工場は、帰る前に食事をくれることになっていたが、十分な量が出たことはなかったし、収容所にもどってもなにもないことがよくあった。
そういう意味でクルトは恵まれていたので、余った分を少しとっておいて、よくわたしに分けてくれたものだ。 わたしたちは互いのことを気づかうことができた。 これが本当の友情だ。
ある日、穴が開いた大きな鍋が捨てられているのをみつけた。 わたしはいいことを思いつき、その穴をふさいで持ち帰り、何人かの被収容者の医師に声をかけた。 アウシュヴィッツにはたくさんの医師がいた。 おそらく、収容されているドイツの中流階級のユダヤ人のうち、10人に2人は何科かの医師だったと思う。
クルトがいなかったら今、私はここにいない
彼らは毎朝、バスでいろんな病院に連れていかれ、仕事をしていた。 時には、戦場からもどったドイツ人負傷兵の手当てのため前線に送られることもあり、そうなると何日も帰ってこなかった。 彼らは毎日、日当の代わりにジャガイモをもらっていた。 1日の仕事の報酬が生のジャガイモ4つだ。 しかし生のジャガイモは毒なので食べられない。
だから、彼らはわたしのところにきた! わたしは4つのジャガイモをゆでる代わりに、ひとつもらうことにした。 これでクルトと分けられる食料が少し手に入る。 夕方になると、ポケットにジャガイモを入れてクルトのところに行き、夕食に2つか3つのジャガイモを分け合った。 ある晩、乱暴で有名な親衛隊員とすれ違った。
彼はいきなりわたしの尻を蹴飛ばそうとしたが、わたしが身をかわしたため、ポケットに詰めこんだジャガイモを蹴飛ばした。 わたしはけがをしたふりをして、足を引きずりながら逃げた。 そうしないと、もう一発くらわされる。 わたしはクルトにこう言った。 「悪い、今日の夕飯はマッシュポテトだ!」。
まちがいなく言えるのは、クルトがいなかったら、いまわたしはここにいないということだ。 彼という友人のおかげで、生きのびることができた。 わたしたちはお互いの面倒をみた。 どちらかがけがをしたり、具合が悪くなったりすると、もうひとりが食べ物を手に入れて助けた。 お互いが生きる支えだった。
アウシュヴィッツにいた被収容者の平均生存期間は7カ月だ。 もしクルトがいなかったら、わたしはその半分も生きられなかっただろう。 わたしが喉を痛めたときは、喉を温めて治せるよう、クルトは自分のスカーフを半分に切って、わたしにくれた。 おそろいのスカーフをみて、兄弟だと思った人もいた。 それほどわたしとクルトは親しかった。
わたしたちは毎朝目を覚ますと、仕事の前に周囲を歩きながら話をし、はげまし合った。 ささやかなプレゼントの隠し場所は、トイレの壁のなかだ。 わたしがレンガをひとつはずせるようにしておいたのだ。 ここに石けんや歯みがき粉、ぼろ布などを隠した。
この友情と彼への感謝の気持ちは、ヒトラーがつくり出した非人道的な場所で生き抜くのに欠かせないものだった。 多くの人は生きるよりもみずから命を絶つことを選んだ。 それが普通になり、こんな言葉まで生まれた。 「フェンスに行く」。 アウシュヴィッツ第2収容所のビルケナウは、いくつかの収容所の集まりである広大なアウシュヴィッツ収容所の一部で、周囲の有刺鉄線には電気が流されていた。
人の営みの中で最もすばらしいのは愛されること
このフェンスに触れると確実に死ねるので、ナチスに殺す喜びを与えずに自分の人生を終わらせられる。 多くの人はフェンスまで走って有刺鉄線をつかんだ。 わたしの親しかった友人もふたり、この方法で死んだ。 ふたりは手をつないで裸でフェンスまで走った。 彼らを責めることはできない。 わたしだって、死んだほうがマシだと思う日がよくあった。
だれもが寒さに凍え、体調も悪かった。 わたしは何度もクルトに言った。 「フェンスに行こう。生きててどうなる? 明日も苦しむだけじゃないか?」。
『世界でいちばん幸せな男:101歳、アウシュヴィッツ生存者が語る美しい人生の見つけ方』(河出書房新社)。 書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします。 紙版はこちら、電子版はこちら
クルトは首を振った。 彼はわたしをフェンスに行かせようとしなかった。
わたしがいままで学んだなかで最も重要なことはこれだ。
「人の営みのなかで最もすばらしいのは、愛されることだ」
特に若い人には、何度でも大声で言いたい。 友情がなければ、人間は壊れてしまう。 友人とは、生きていることを実感させてくれる人だ。
アウシュヴィッツは悪夢が現実になったような、想像を絶する恐ろしい場所だった。 それでもわたしが生き残れたのは、親友のクルトがいたからだ。 もう1日生きのびたら、また彼に会えると思えたからだ。 たったひとりでも友人がいれば、世界は新たな意味をもつ。 たったひとりの友人が、自分の世界のすべてになりうる。
友人は、分け合った食料や暖かい服や薬よりも、ずっと大切なものだ。 なにより心を癒やしてくれるのは友情だ。 友情があれば、不可能も可能になる。
(翻訳:金原 瑞人)



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