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中村メイコ「理想の死に方は女優・杉村春子さんの最期。人生のラストシーンは自宅より病院で迎えたい」

2021-09-29 15:30:00 | 日記

下記の記事は婦人公論.jpオンラインからの借用(コピー)です。

昭和9年生まれの中村メイコさん。最近では骨折と入院を経験され、コロナ禍で女優業も思うようにならないという毎日を送っています。そのような中で自らの人生の最期を考えたなら、自宅ではなく、病院でその時を迎えたいとのこと。常に明るく生きてきたメイコさんが考える理想の死に方とは――。
「在宅死」より「病院死」のほうがいい
慣れ親しんだ自宅で最期を迎えたい―。
そう考えている人も多いようだが、私は違う。人生のラストシーンはシンプルな病室で迎えたいと思っている。
そのほうが家族は死を受け入れやすいし、後の気持ちの整理もつくからだ。家で亡くなると、そこでまだ私が眠っているような気がして、家族も落ち着かないことだろう。
同居していた姑の最期がまさにそうだった。亡くなった後も彼女の部屋に入ると、最期の日々が思い出されて涙があふれたものだ。家族にそんな寂しい思いはさせたくない。
女優ふうに言えば、家というのは人が死ぬための「セット」として似つかわしくない。やはり病院で死んでいくのがしっくりくるし、人生最後の演技のやり甲斐もあるというものだ。
ひばりさんも、最後の日々は病院で過ごした。私は何度もお見舞いに行ったけれど、家にいたときよりもほっとしているように見えた。
彼女が元気な頃に住んでいた青葉台の豪邸には人が頻繁に訪ねてきて、にぎやかでよかった。でも、病を患って一人で過ごすには大きすぎるし、寂しかったに違いない。
理想は<杉村春子さんの最期>
私は最期の場面を迎えるための準備を少しずつ始めている。
まず、「見限りのいい主治医」が必要だ。延命治療など望まないし、「頑張って」などと言われたくない。頑張りすぎず、ありのままに生きることが信条だったのだから、それを貫き通したい。
「田舎のバス」(作詞・作曲:三木鶏郎)がヒットした頃の中村メイコさん。『婦人公論』昭和30年5月号より(写真:中央公論新社)
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ただ死ぬ瞬間まで、お洒落でいることはやめたくない。病院のおしきせの寝間着は嫌だ。私の好きな画家のマリー・ローランサンは、薄いグレーのサテンのネグリジェを着て、淡いピンク色のシーツに包まれ、ふわりと死んでいったという。ちょっと気取りすぎていて、私には似合わないかもしれないが、せめて綺麗にマニキュアはしたまま死んでいきたい。
理想は、女優の大先輩、杉村春子さんの死に方だ。二ヵ月半ほど病院で過ごされて、91歳で亡くなったのは平成9年の春だった。入院は極秘にされていたのでお見舞いに行くこともできなかったが、亡くなられた後に出版された本で、入院中の様子を知った。
見た人が明るい気持ちになるような最期の一幕を
杉村さんは、病院の中でもきちんときれいに浴衣をお召しになっていたという。
中村メイコさん。昭和49年3月25日、中央公論社にて撮影(写真:中央公論新社)
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ハンサムな主治医の先生が大好きで、全面的に信頼していた。その先生が学会か何かで日本を一週間離れることになった。出発の前日、主治医は杉村さんの部屋に来て、言った。
「杉村さん、絶対に大丈夫ですからね。担当の医者たちにすべて指示してあります。お元気で待っていてくださいね」
それを聞いた杉村さんはやおら体を起こすと、「先生、帰ってきてくださるわよねぇ」と、医師の腕をかき抱いた。
「よっ、杉村春子!」という声がどこかから聞こえてきそうだ。人生の最終盤でこんな見事なシーンを演じられるとは! 
私も喜劇役者なりのやり方で、見た人が明るい気持ちになるような最期の一幕を演じ切りたい。
最後の言葉さえ伝えられたなら
昭和56年に亡くなった私の父も、最期を病院で迎えている。いくつになっても元気で病気もほとんどしたことのない人だったが、ある日体調を崩して入院、一週間もしないうちに亡くなった。
大事なものから捨てなさい-メイコ流 笑って死ぬための33のヒント(著:中村メイコ/講談社)
私は仕事で渡米していたため、父の死に目には会うことができなかった。「親の死に目に会えない」ことを不義理だと恥じる人も多いが、私はそうは思わない。
アメリカへの出発直前、父が心配だった私はつい「アメリカに行くの、やめようかな」と言ってしまった。そんな私に、病院のベッドで寝ていた父はこんな言葉をかけてくれた。
「君らしくないことを言うな。メイコは女優なんだから、きちんと仕事をしてきなさい。また会えるよ」
その時、父は背筋を伸ばし、海軍式の敬礼をした。あんなに軍隊が嫌いだった父がそんなことをするなんて。私はなぜかぞーっとした気分になり「ああ、もうお別れなのだ」と悟った。
私の予感どおり、父は私がアメリカに行っている間に亡くなった。その日は自分の誕生日で、ちょうど80歳になった日に父は亡くなった。母は泣きながら「ハッピーバースデー」を歌って、送ったという。
不思議なことに、人は自らの死期が近いことを悟り、メッセージを伝えることができる。最後の言葉さえ伝えられたなら、旅立つ瞬間に一緒にいたかどうかはどうでもいいことだ。
病院であっという間に息を引き取りたい
私の母が亡くなったのも病院だった。亡くなる三年ほど前から、私たちと同居していたが、母は自分でごはんを作り、洗濯もしていた。
ところが散歩中に土手で転びそうになり、手をついたら骨折。それから少しずつ元気がなくなっていった。検査を受けたいというので近くの病院に検査入院をしたら、肺癌が見つかった。年齢を考えると、手術は困難という状況だった。
母は見かけによらず怖がりなので、告知はしないことにした。病院の個室に入れて、病室を綺麗に整え、友達を頻繁に呼んだ。友達が来るたびに缶ビールを開けて、本人も飲んで、小さなパーティのようだった。
入院して二ヵ月ほど経ったある日の夕方、病院から電話があった。「今日がお別れの日になるでしょう」と担当医が告げた。
急いで病院に駆けつけると、母は意識があるのかどうか分からない状態で、目を閉じたまま、フーフー、ハーハー苦しそうにしていた。そんな母を見ていたら涙があふれてきて、あまりの悲しさに言葉が出てこない。何十年も女優を続けてきた私が、台詞ひとつ言えなくなったのだ。
すると夫が後ろからそっと囁いてくれた。
「今まで、どうもありがとう。メイコはママが大好きよ、と言うんだよ」
混乱していた私は、そのまま言葉を伝えた。お医者さんから「あまり長くいるのもいけない」と言われ、病院を出てしばらく歩いたところで携帯が鳴った。「今、お母様が亡くなりました―」
またしても、私は親の死に目に会えなかった。
でも、こう思うこともある。亡くなる瞬間はあまりに悲しくつらいものだ。だから、怖がりの私がそんな苦しみを味わうことのないように、神様が死に目に会えないよう配慮してくださったのだ。
私自身も、子どもたちにつらい思いをさせたくはない。病院で医者に囲まれながら、あっという間に息を引き取るのが理想だ。
※本稿は、『大事なものから捨てなさいーメイコ流 笑って死ぬための33のヒント』(講談社)の一部を再編集したものです。



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