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今秋98才佐藤愛子さんが最後のエッセイ集「人の悪さでここまで生きてこられた」

2021-08-30 12:00:00 | 日記

下記の記事はNEWSポストセブンオンラインからの借用(コピー)です。

 2016年8月に出版されると大反響となり、2017年の年間ベストセラー総合第1位となった佐藤愛子さんのエッセイ集『九十歳。何がめでたい』。それから丸5年、この度刊行した佐藤愛子さんの最新&最後のエッセイ集『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』がベストセラーになっている。本書をもって断筆宣言をした佐藤さんに、70年超の作家人生についてお話を伺った。
 * * *
母が「お前といると、どんなことになるかわからない」と
 規格外の両親のもとで育ち、佐藤さんにも、知らず知らず、人間を見る目が養われていった。
「門前の小僧習わぬ経を読むというやつです。何しろ、父も兄も、ものを書く人間でしたから、お客さんが帰ろうとしてまだ靴を履いているうちから、『なんだあいつは』って人物月旦が始まるわけです。
 私が作家になれたのも、おそらく人間に対する感性が身についていたからで、親は別に教育しようと思っていたわけではなく、自然に吸収していたんでしょう」
 子供の頃、クリスマスプレゼントがなじみの洋品店の箱に入ってるのを見て、「サンタはいない」と察したのに、「サンタクロースさん、ありがとう」と言うように父から指示され、なんとも言えない気持ちになった。そのときの心の動きがみごとに書かれていて印象に残る(「『ハハーン』のいろいろ」)。
「子供ながらに、言うに言えない感情があるのね。そのときの自分がどう思ったのか、記憶をかき分けていっていまも考えるんですけど、思い当たる言葉がないですね」
 2歳のときの記憶という。利発で繊細、父である佐藤紅緑が末娘の「アイちゃん」を溺愛したというのもよくわかる。
「佐藤さんのうちへ行ったら、朝から晩まで先生が『アイちゃん、アイちゃん』と言ってるって近所で有名で、私は嫌でね。50のときの子ですから、孫みたいなもんですよ。4人いた兄はそろって不良でしたしね。母は冷静な女だから、『この子は賢い、楽しみだ』って父が言うたびに、『ふん』って顔を必ずしましたよ」
 特殊な家庭環境に加えて、2度の結婚・離婚や、2人目の夫の会社が倒産し莫大な借金の肩代わりをしたことで、作家佐藤愛子はできあがった。
「私は本当にぜいたくに、豊かに育ってるんですよ。ところが夫が破産して、貧乏のどん底に沈んだ。そんなときは誰でも、さぞかしショックを受けるものだろうと思うんだけど、私は別にどうということはなかったんです。嘆いているうちに先に進むことを考えてました。それはやっぱり、佐藤家に流れていた、いろんな雑多なものをそのまま飲み込んでいく血というのか。細かいことをいちいち気にしていたら、生きていけないような家でしたから。
 子供の頃から、お菓子でもおもちゃでも、『あれ買って、これ買って』と、ねだってまでほしいと思ったことがないんです。欲望に対して淡泊ですから、貧乏になっても、どうってことない。だいたい、金持ちがえらいと思っている人を、佐藤の家ではバカにしてましたからね」
 金銭に淡泊、かつ困難から逃げない気性のせいで、支払う義務のない元夫の会社の数千万円の借金も、書いて書いて、完済した。
「だって、借りておいて返さないっていうのは悪いに決まってるじゃないですか。単純なんですよ、私は。
 だからいま住んでいるこの家も、四番抵当にまで入っていて。母と夫とでお金を出し合って建てた家だったので、母は怒りますわね。私が肩代わりして抵当を抜いてそのまま住めることにはなったんですが、母がつくづく、『お前といると、どんなことになるかわからない』と嘆いたの」
 さらに母を嘆かせたのは、佐藤さんがこの後、株に手を出したことだった。
「ようやく借金を返し終えた頃にね、北杜夫が電話をかけてきて、『これこれの会社の株を買え』と言うんです。北さんは、新幹線で隣り合った国会議員かなんだかに『この会社の株を買ったらものすごく儲かる』と言われたんですって。何千万かの借金を払って金銭感覚がおかしくなっていたので、面白半分でたくさん買ったら、みるみる暴落して。
 北さんに、『えらい下がってきたね』って電話したら、『そうなんだよ、ああいう国会議員がいるから日本の政治はだめなんだ』とか言ってごまかされちゃった。それからも、北さんと一緒になって株を売り買いして、1億ぐらい損して、それでさすがにやめましたけど、北杜夫に1億損させられたとは思わない。だいたい私は数学が低能ですから」
人間の面白さに触れることによって悲劇とも思わずに
 1億損しても、同人雑誌時代からの北杜夫との友情は、まったくゆるがなかったそうだ。生活人としてのマイナスも、作家としてはプラスに転じるようである。
「たいして才能がないにもかかわらず作家になれたのは、私の人生にあまりにもいろんなことが起きたためで、これは神様のお恵みだと思っています。会社の倒産騒ぎがあったから『戦いすんで日が暮れて』が書けたわけでね。あれがなかったら、作家になれていたかどうか、わからないですよ」
 一難去ってまた一難、借金を払い終えて北海道に別荘を建てれば今度は超常現象が起きて──「禍福は糾える縄の如し」という言葉のままの人生だ。出世作の『戦いすんで日が暮れて』にしても、本来は、時間をかけて大長編にしようと思っていた題材を、小説誌の依頼で急遽、短篇に書いたものだった。
「あれは(400字原稿用紙)50枚でしたか、1枚でもはみ出ては困るというのよ。ほとんど無名でしたからね。『小説現代』の大村彦次郎さんの好意で書かせてもらったんですけど、自分としては不本意なところもありました。
 だけど、直木賞取ったでしょ? 当時の金貸しにはいろんな人がいましたけど、その中にしょっちゅう電話してきては怒りまくる婆さんがいたのよ。私が直木賞を取ってテレビに出たら、5分とたたないうちに電話が鳴って、その婆さんがいままで聞いたことのないような猫なで声で、『おめでとうございます。よかったですねぇ、がんばってください』って。これで借金のとりはぐれはなくなったって、ほっとしたんでしょう、多分。それがとても面白くてね。元気が出たりしたものですよ。
 私は、人間の面白さを見つけることによって、普通なら泣きの涙で暮らすいろいろな悲劇を、悲劇とも思わずに通りすぎることができた。思えば、人の悪さのおかげでここまで生きてこられた気がします(笑い)」
 何でも面白がってしまうのが佐藤愛子の特質なのだ。
「結局、私には書くこと以外できることがほかに何もなかったんですよ。たとえば瀬戸内寂聴さんみたいに、多才で、何をやっても成功するような人だったら、別の方面に行ってたかもしれません」
 3年ほど前から、日記をつけるようになったと言う。
「私の肉体はもう、半死半生という感じで、昨日、飲むべき薬を飲んだかどうかも忘れるので、だから日記をつけ出したの」
 それを聞いて、エッセイもまた書いてほしいと思う人がたくさんいますよ、と編集者が言うも、「いや、そうでもないでしょう」とにべもない。
 これから何かしたいことはありますかという質問への答えは、「死ぬことです。何とかうまく死にたいものだわ」。とはいえ、「退屈で退屈で」とも言っておられたので、ここは執筆再開に望みをつなぎたい。
◆『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』
『九十歳。何がめでたい』が大ベストセラーになった結果、ヘトヘトの果てになり、ついに昏倒した顛末や、前作でも人気を博した佐藤さんの「勝手に人生相談」、北海道に別荘を建てた裏側にあった仰天エピソード、幼い頃の記憶から断筆宣言まで、佐藤さんが2019年2月~2021年5月まで女性セブンで気まぐれに連載した、ゲラゲラ笑えて深い余韻の残るエッセイを21編収録。
取材・構成/佐久間文子 撮影/江森康之



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