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41歳で余命知った肺癌医師が遺した死への記録

2020-11-11 14:49:45 | 日記

下記の記事は東洋経済オンラインから借用(コピー)です。

死を覚悟した病床で綴ったホームページ
2001年2月17日(土)
「お父さん、長生きしたい?」
内心ドキッとしながら答える。
「長生きしたいよ。(でも、中学生になった君たちの姿は見られないだろうな)」
「お父さん、何かしたいことある?目標は?」
「そうだな、自分のホームページを作ることかな。(本当の目標は、来年の君の10歳の誕生日まで生きていることなんだけど、ちょっと難しいんだ)」
(闘病日記より)
半年、1年先まで生きていられたら。少なくとも完治は望めない──。子どももまだ小さく、働き盛りで仕事でもやりたいことがたくさんある。そんな時期に、自らの命がまもなく終わりを告げると知ったら、人はどんな人生を送ることができるのだろう?
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「肺癌医師のホームページ」というサイトがある。故郷の愛媛県で内科の医師として活躍してきた、ハンドルネーム「どじつき」さんのホームページだ。更新期間は2001年3月から2002年3月で、どじつきさん自らの更新は2001年11月までとさらに短い。根治が難しい癌の治療を続けながら、病室でPHS通信することを特例で認めてもらい、この短い期間に自らの闘病日記や医者のとしての提言をアップしていった。
自らの体がどんな状況にあり、将来どうなっていくのか。医師ゆえにかなり正確につかめる。奇跡的な回復を遂げる可能性もゼロではないが、大半が辿るプロセスは統計的にわかっている。末期は思考がまとまらなくなることも念頭に置かなければならない。すると、自分に残された時間はとても少ない。
どじつきさんが残したテキストを読むと、そうした現実を受け止める覚悟がひしひしと感じられる。それでいて文体は理性的で、とても落ち着いている。目前に広がる死と真正面から向き合った、ある種究極の記録かもしれない。
闘病日記はサイト公開の2カ月近く前、2001年1月22日から始まる。
2001年1月22日(月)
「次はブロンコ(気管支内視鏡)ですかね。」
自分のCT像を見て、目の前にいる放射線科医に発した最初の言葉である。
それから、しばらく頭の中が真っ白になった。
そして、最初に浮かんだのは、日航ジャンボ機墜落事故で、家族に走り書きのメモを残した父親のことを伝えるテレビ番組だった。
「あの人に比べたら、自分にはまだ時間がある。」そう自分に言い聞かせた。
(闘病日記より)
微熱や咳などの症状が長く続いていたため胸部CT検査を受けたところ、より詳しい所見を得るために気管支から内視鏡カメラを入れる検査(ブロンコスコピー、略称ブロンコ)を提示された。年に2回は健診で胸部写真を撮ってきたが、それまで異常が疑われたことはない。しかし、長年の内科医としての経験が、この段階で肺がん、それも手術不能なタイプである可能性が高いと伝えてきた。
脳裏に浮かんだ「走り書きのメモ」
そこで脳裏に浮かんだ「走り書きのメモ」とは、1985年の日航機123便墜落事故で犠牲になった50代の会社員男性の胸ポケットから発見された7ページにわたるメモを指す。単独機による世界最悪の航空事故がショッキングに報じられるなかで、このメッセージは世間に別のインパクトを残した。
○○○
○○
○○○(※それぞれ子どもの名前)
どうか仲良くがんばって
ママをたすけて下さい
パパは本当に残念だ
きっと助かるまい
(中略)
ママ こんな事になるとは残念だ
さようなら
子ども達の事をよろしくたのむ
今6時半だ
飛行機はまわりながら急速に降下中だ
本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している
(当時の報道資料より一部抜粋)
123便のドライブレコーダーには、18時24分頃に機体に異常が発生し、墜落した18時56分までのコクピットの音声が残されていた。その間わずか30分強。メモの後半に「今6時半だ」と記載があることから、男性は異常発生直後に手帳を取り出し、いつ終わるともわからないわずかな猶予を使って家族に別れの言葉を書きとめたことになる。
あの人に比べたら──。自分に残された時間は数分、数日というわけではない。その間は生活の質(Quality of Life)を高く保ち、家族と過ごす時間が最優先できるように病と向き合っていこう。
同月末、自分で入院先への紹介状を書いて入院。その後、脊椎にがんの多発転移が見つかり、予想どおりに手術不能な状態にあると確定する。ここで、もう1つのやりたいことが頭に浮かんだ。この体験を伝えるホームページを作成しよう。それを人生最後の目標にしたい。
「肺癌医師のホームページ」プロジェクトはこうしてスタートした。
入院し、放射線治療と化学療法を受けながら、どじつきさんは精力的に動いた。
2001年2月8日(木)
両親に手術不能癌であることを打ち明けた。
母は当然泣いた。
父は、「葬儀や墓はどうする?」と聞いた。
さすがは我が父である。脱帽。
2001年2月9日(金)
外泊。遺影用の写真を撮る。
2001年2月11日(日)
勤務先のパソコンを片づける。
生きがいだった医師としての仕事に復帰することはもうあるまい。
寂しい。
(闘病日記より)
親族とのコミュニケーションや葬儀の準備、持ち物の整理。いまでいう終活や生前整理と呼ばれる取り組みをこなしつつ、ホームページ用のテキストをiBookで執筆し、病室でのインターネット接続に試行錯誤する。窓際ならなんとかPHS通信ができた。そのPHSをUSB接続のアダプターで接続したら、iBookのブラウザーがウェブページを表示した。2月25日のことだ。
開設間もない頃のトップページ
そして3月10日、ついに公開。すでに書きためたテキストがたくさんあり、コンテンツは充実していた。がんのタイプや余命宣告の本来の意味合いなどを丁寧に解説した「がん入門編」や、末期がん患者の心境や医療現場の現状を伝える「末期癌に関して」、若年層に向けた「10代の女性達に」「悩んでいる若者に」など、末期がん患者であり内科医であるからこそ発信できる情報を本音で綴っている。
「最後のあいさつ」は2001年3月17日にアップした
最優先は家族、そのうえでのホームページ
当時の個人サイトは自己紹介のために、電話番号や住所、家族構成など、かなり詳細に個人情報を記載するケースが珍しくなかった。どじつきさんも「プロフィール」欄で出身校や職歴などを具体的に記載している。それでも本名だけは伏せていたのは、2人の子どもたちだけには病名を知らせていなかったのが主な理由だと思われる。
もっとも優先すべきは家族であり、それが守られたうえでのホームページ作成だ。「末期癌に関して」に端的な記述がある。
実際に末期癌になった私がどんなことを考えているかというと…
(1)最も優先する希望は、子供たちに苦しむ姿を見せたくないということです。特に、下の娘は、まだ「死」というものをとても恐れています。できることなら、死の直前に苦しむ姿を見せる事だけは避けたいと思っています。
(末期癌に関して/1.末期癌患者の心理 より)
公開から1週間後、告別式での挨拶を想定した「最後のあいさつ」をアップしたが、そこでも家族への言及が重い位置にある。
公私ともに充実した幸せな人生であったと皆様に感謝しております。
ただ一つ心残りなのは、家族のことです。
私は、夫として妻を幸せにする誓いを守れず、親として子供達を成人するまで育てる義務を果たせませんでした。
遺された家族は、これからいろいろと苦労することになるでしょう。
どうか皆様、私の家族にこれからも暖かいご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。
(最後のあいさつより)
たびたび綴られる家族に対しての心残り。そこに込められた感情は、走り書きメモの男性とぴったりと重なる。
人格の崩壊した様を見せたくない
家族愛と並んで印象に残るのは、どじつきさんの強固な理性だ。
数千の闘病サイトを追いかけていると、不安や憤りなどのマイナスの感情を爆発させたり、性格がガラリと変わったように見えたりする日記にもしばしば出合う。また、終末期にさしかかり、それまで皆無だった誤字脱字が頻発するようになったり、支離滅裂にもとれる記述が増えていったりするケースも珍しくない。
人間の感情は多面的だし、死に至る過程で文章を構成するほどの集中力を保つのはどんどん難しくなっていく。性格の変化や発信の限界のようなものが垣間見えても、それはごく自然なことだし非難する人はいないだろう。というより、死に至るぎりぎりまで健康な頃の人格を維持するというのは不可能に近い。
医師であるどじつきさんは当然そこを熟知していた。だからこそ、前述の「末期癌に関して」では終末期に向けて率直な願望を書いている。
(2)最期まで脳転移による精神症状がないことを願っています。人格が崩壊した様を、子供たちには決して見せたくありません。精神症状が出るくらいなら、鎮静剤で眠らせてほしいと思います。
脳転移による精神症状が表れなくても、がんの終末期はせん妄などの意識障害が起きたり気力が低下したりもする。その状態まで残したくはない。だから、どじつきさんはつねにサイト更新のやめ時を気にかけていた節がある。
公開から1カ月も経たないうちに現存する大半のコンテンツがそろい、4月以降は闘病日記の更新と掲示板での読者とのやりとりがサイト運営の中心になっていった。いわば、「肺癌医師のホームページ」プロジェクトは船出からしばらくした時点で8割がた完成していたようなものだ。残るはどうピリオドを打つか、だ。
終わりの予感は10月に入ってから
「闘病日記」はどじつきさんの最後の生き方を細やかに残す。
2001年6月1日、放射線療法が終了したのを機に4カ月ぶりに退院。療法の明らかな効果はなかったと診断されたが、自宅で家族と過ごす時間を最優先にした。腫瘍は大きくなり、背中や右臀部などに新たな痛みも感じるようになってきた。状況は厳しい。けれど、娘の誕生日は自宅で祝えたし、息子とキャッチボールもできた。妻とは映画を観に出かけられた。
9.11米国同時多発テロにも言及している。どじつきさんらしい見解
痛みの増大から予定を早めて7月に再入院を余儀なくされたが、その後も体調がいいときは外泊して家族との時間を過ごすなど、当時の日記からは意欲的な様子が伝わってくる。
2001年8月4日(土)
今日は42歳の誕生日。第1目標に到達した(非小細胞肺癌ステージ4の平均生存期間に相当)。次の目標は、来年の正月を越えること。
(闘病日記より)
終わりへの予感が高まってきたのは10月に入ってからだ。
2001年10月2日(火)
予定を繰り上げて、明日転院することになった。
最後になるかもしれないので、無理に外泊し、家族と過ごした。

(闘病日記より)
翌日、長らく特定の集団からの荒らし攻撃を受けていた掲示板の閉鎖を決めたとの報告に添えて、読者と子どもに向けたお別れのメッセージも載せている。
2001年10月3日(水)
<子供たちへ>
昨夜君たちを両脇に抱いてベッドで話した至福の10分間を、君たちはもう覚えていないだろう。
しかし、このHPはこうして今も存在し、人の役に立っています。
お父さんは、このHP作成によって、恵まれた闘病生活を送ることができました。
とてもいい人達との新たな出会いもあれば、心を病んだ悪人が存在することも思い知らされました。
さあ、君たちはどんな人生を送っているだろうか。健闘を祈る。お母さんを大切に。
ここから急速に本調子が遠ざかる感覚が深まっていったのかもしれない。それから短めの日記を数回更新したのち、10月21日に改めてお別れの意味合いを込めた文章をアップした。
2001年10月21日(日)
両親が来て、家族みんなで昼食。宮崎アニメ「魔女の宅急便」を観る。
入浴し、夕方病院へ。痛みが強いため、麻薬を開始することになった。

<どじつきより>
麻薬の開始に伴い、今後錯乱を生じる可能性があります。従って、闘病日記はここでいったん終了させていただきます。痛みがおさまって、麻薬を中止することができましたら再開致します。これまで、ありがとうございました。
(闘病日記より)
すでに起き上がると痛むため、インターネットに接続することも困難になっていた。ここで幕引きという意識も確かにあっただろう。
それでも11月に掲示板を復活させると、体調がいいときはサイトを覗いたりした。モルヒネによる幻覚や錯乱症状もいまのところ起きていない。闘病日記も再開することにした。
2001年11月7日(水)
掲示板を再開したところ、癌患者や家族の方達から続々とはげましの書き込みがある。大半は、以前から訪れていて下さった方々からの初めての投稿である。このHPがたくさんの人の役に立ってきたのだなと改めて実感できて、とてもうれしい。
中には、麻薬服用後の様子も知りたいとの要望もある。確かに参考になるだろう。できるだけ、闘病日記も再開したいものだと思い、中断後これまでのところを記す。
(闘病日記より)
体調としては、安らかな最期を迎えるためのターミナルケアに身を委ねるか、もう少し化学療法を続けて延命を図るかという段にきている。どの道遠くはない未来に備え、愛着ある勤務先の病院に転院手続きをとる。
そして、11月26日に次の日記をアップした。
闘病日記、最後の投稿
2001年11月26日(火)
モルヒネの持続静注が続いて、錯乱が生じてきたよう。人の名前もあまり思い出せなくなった。これ以上のHP更新は困難と判断す。
いまの自分が本来の人格だと思えるギリギリの段階で紡ぎ出した文章。これが本当の最後の投稿となった。
亡くなったのは2002年1月6日。その翌日、どじつきさんの兄姉たちが連名で訃報を掲載した。それが現在もホームページのトップに置かれている。
それから18年以上経った。復活した掲示板は2005年頃に閉鎖されたが、それ以外のコンテンツは現在まで残っている。
インターネット上の情報は半永久的に残る印象があるが、更新が止まってから10年以上も存続しているサイトは実のところかなり少ない。SNSや無料ブログなら、運営元の大船に乗ることで誰にも気づかれないまま残っているというパターンはある。けれど、「肺癌医師のホームページ」は独自にドメイン(インターネットの住所)を取得して運営されている。誰かが引き続き管理していないと成り立たない。
では誰が管理しているのだろう?
『僕はガンと共に生きるために医者になった 肺癌医師のホームページ』。2013年には電子書籍版も発行された
ドメインの所有者を検索すると、どじつきさんとは苗字も異なる人物の名前がヒットした。記載されているメールアドレスはかつての所属先のものだったので不通だったが、現職の所属先がわかったのでそちらに連絡すると応対してくれた。
開設から今日まで管理しているのは、どじつきさんの高校以来の友人のYさんだった。
「2000年の年末に帰省したら呑もうと約束していたんですが、『風邪を引いたみたいで咳が止まらないんだ』と。その数週間後に『実は肺がんが見つかった』と言われました。お見舞いに行ったら、自分の闘病生活を多くの人に伝えたいと、ホームページの相談を受けたんですよ」
ホームページは現状のままで公開し続ける
Yさんは全面協力を約束した。当時、勤務先で情報システム部に属していたYさんはホームページ作成のノウハウも持っており、帰宅後すぐに自宅にサーバーを立てて環境を整えた。職場や職種が変わった現在は、定額を払って外部サービスに委託している。
このホームページは現状のままでずっと公開し続けようと思っているという。やめるとしたら、遺族から閉鎖の意向を受けたときだけだ。
その遺族もサイトの行く末はYさんに委ねている。
『僕はガンと共に生きるために医者になった 肺癌医師のホームページ』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
ホームページの内容は、2002年8月に光文社新書から『僕はガンと共に生きるために医者になった 肺癌医師のホームページ』として書籍にまとめられている。著者名はどじつきさんの本名になっているが、著作権者は妻の氏名だ。遺族はサイトの内容を熟知していて、そのうえでYさんに任せていることがうかがえる。
何年も更新が止まったサイトは、検索エンジンにすくい上げられにくくなり、廃墟のようにみられることもある。しかし、そこには複数人の生きた意志が存在していることもある。「肺癌医師のホームページ」がこれだけの長い年月を生き抜いている根底に、どじつきさんが残した真摯な生き様があるのは疑いようがない。

(闘病日記より)
(末期癌に関して/1.末期癌患者の心理 より)


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