2010年に宮崎県で起きた口蹄疫に続き、
2011年の今年は、放射能や食用わらに含まれたセシウムに汚染された汚染牛、
汚染米、野菜が物議を醸している。
10月10日(月・祝)には、大分県議の近藤和義氏が、牛肉を食べるイベントで、
「セシウム牛はいりません」と叫んだ、という。
記事はこちら。
その前は、セシウムに汚染されたわらを食べた牛が出荷され、混乱した事態に陥ったし、
原発付近で収穫された米や野菜は汚染されているのではないか、といった風評が立った。
牛や馬、米、野菜が、独りでに汚染されるわけではない。
われわれ人類が作った原発や、口蹄疫のウィルスによって汚染されるのである。
口蹄疫のとき、処分が決まったときの農家の人たちや牛、豚の映像、
飼育していた牛を牛舎に残したまま避難した農家の人たちや牛の映像が流れるたび、
わたしは胸が痛む。
人間の食料となるべく、飼育されている牛や豚、米や野菜なのに、
その使命すら全うできず、捨てられていく。
人間は、なんと自分勝手で残酷なのだろう。
深い哀しみを感じ、中原中也の「汚れちまった悲しみに・・・」という詩を思い起こすのだ。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
詩集『山羊の歌』より、「汚れつちまった悲しみに……」
いっそ死んでしまったほうが楽かもしれない、そんな絶望を感じるのだけれど、
きっといつか夜明けは来る、
夜明けが来るまで、希望の灯を抱いて生きていくことができますように。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます