たまゆら夢見し。

気ままに思ったこと。少しだけ言葉に。

我が背子 大津皇子49

2019-03-31 12:45:11 | 日記
以前より「天皇不在時は政務の全てを皇后と皇太子に任せる。」として詔は出ていたが、天武は大津に譲位し朱鳥元年7月大津は天皇となった。

天武の療養中ということもあり即位式はごく質素に済ませ宮も建て替えなどせず、恩赦、民の労役をやめたり、租税の軽減などを行った。
また、皇太后とよく相談し草壁を皇太弟にし高市皇子、川嶋皇子、忍壁皇子も参政させて天武朝を後継していく姿勢を見せた。不比等はもちろん除外とした。草壁に「皇太弟となられたのだからそなたは大津天皇を支えることだけを考えよ。」と皇太后が厳しく伝えた。

「神のような皇子が天皇になられわれらを救ってくださる。天武上皇のように戦がない日が続くであろう。これまで以上に安寧な御代となりますように」と言った声が各地で聞こえた。
盗み、放火といった犯罪も減った。

しかし一方で「弱った天武さまを大津天皇が恫喝し譲位を迫った。」「大津天皇は山辺を立后させようとしない。斎宮の任も解かれない。また、浮気虫が冷めないならしい。」「子が産まれぬから草壁さまを皇太子にしたらしい。」という噂がどこから出たが「馬鹿馬鹿しい。」と噂好きの官人らも呆れられ流布されず消えていった。

大津の身分の上下なく人を遇するのは、一部の自意識、身分貴く産まれたものには面白くない部分ではあったがそれを凌駕する人徳が大津にはあった。なので些細なことで声を荒げたり叱責したりすることもない人格の高さに皆敬服していた。

皇太后の政治力を考えれば、山辺に立后は残念ながら相応しくはなかった。ただ微笑みをいつも絶やさず毎日を支えてくれている山辺は立派な妃であった。大名児は得意な歌を大津に披露しては楽しませた。
そして大津に仕える者たちは道作をはじめそんな当主を尊敬してやまなく規律を乱すことはなかった。
天皇に仕える采女達も大津になんとかお目に留まりたいと百花繚乱とばかりに競いあった。
しかし大津は質素な出で立ちでも、ここが華とばかりの圧倒的な美しさを誇っている大伯だけを想っているせいか、しらけて映った。
また、異母弟姉妹の皇女も所望することもなかった。
すでに草壁皇太子、高市皇子、川嶋皇子、忍壁皇子らが脇を固めているからあえて一石を投じたいという異母弟姉妹らもいなかった。

天皇が詔を出し、現存している限り大伯の斎宮解任は出来ないのは当たり前の話であった。

「姉上に父上を一目お会いさせたいが…」と大津は思いもしたが、斎宮が見えたとあってはこちらから死期を覚悟させるようなものでよろしくないであろうし悩ましかった。