私の記憶と感性 そして 下書きのない日記 №52

多可が50 去れども半世紀の人生で この三百六十五段の湯けむり漂う
町に来てからの記憶と感性です

★ にっぽん人#2         その 男は ・・・

2014-11-20 15:18:22 | 日記
工藤俊作 旧日本海軍中佐 1901年明治34年1月7日山形生まれ 1979年昭和54年1月12日に死去
1942年 スラバヤ沖海戦でイギリス海軍の水兵達を422名救難する命令をだし漂流者達を全員保護した男でした
その後 工藤艦長は船を移り当時の乗組員達は数ヶ月後にイギリス海軍に船もろとも撃沈されて部下達は全員戦死しました
終戦を一人だけ無事に迎えてしまった 工藤は当時の部下達をを殺して終ったのは私の責任かも知れないと言う思いで戦争の事やイギリス兵を422人も救難した事は奥さんにも喋らずに埼玉県の病院で淡々と事務の仕事をして生涯をとげたが 当時のイギリス水兵が工藤そして 我々敵兵を海に飛び込んでまで命を助けてくれた恩人の日本兵達の肉親に礼を告げる為にイギリス人が日本に来日したが工藤艦長は他界していて当時イギリス人達を救った工藤と日本兵の物語を始めて知ったマスコミが有りました

工藤艦長は明治生まれの日本人丸出しの人間ですが身長は185cmで体重は95㌔と行った当時の日本人では化け物扱いの大男で
柔道の師範代だった相です
私はサイトで工藤さんが孫と遊んでいる老いた姿を視ましたが当時の大男で日本海軍の軍人だったなんて面影は無く何処と無く影が有り淋しそうな老人に見えました
私は大正8年生まれの母から明治の男は寡黙(カモク)で何一つ自慢はしないと聞いていましたが何かが淋しいと思い増した



工藤の船 雷イカズチに英国水兵を乗員させて居る所 1942年3月2日



雷の甲板上の英国水兵たち



雷からオランダ病院船オプティンノ-トに英国水兵を引き渡す日本海軍水兵



中学校時代の工藤少年



戦艦長門の甲板で柔道を指導する 工藤艦長



工藤夫妻には 子供に恵まれずに工藤家は 絶えたそうです

★この作品は 観覧人数が三位に成りまして有り難う御座います
★この作品は 観覧人数が一位に成りました有り難う御座います
★2015年10月18日に又また観覧人数が一位に成り有り難う御座います
★2016年1月に再び観覧人数が一位に成り有り難うございます 

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