私の記憶と感性 そして 下書きのない日記 №52

多可が50 去れども半世紀の人生で この三百六十五段の湯けむり漂う
町に来てからの記憶と感性です

★まだ街には倒れている私の子供たち    撃ち殺された・・・

2015-10-01 15:59:13 | 日記
    肉親や人間に近づくとビルの上に隠れている狙撃兵に狙い撃ちを去れる

   

   

   

   

   1992年3月に誕生したボスニア・ヘルツェゴビナは,ムスリム人,セルビア人,クロアチア人からなる多民族国家であった
   そして 同国の政治権力は もっぱら多数派のムスリム人に委ねられたため冷遇されたセルビア人はボスニア・
   ヘルツェゴビナからの分離 独立運動を画策し積極的に武力に訴えるようになった

   ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるセルビア人の武装蜂起を陰で支えたのは 隣国の(新)ユーゴスラビアであった 
   ボスニア・ヘルツェゴビナとは対照的にユーゴスラビアでは セルビア人が多数派であったことから同胞を助けるとともに
   みずからの勢力圏を拡大する目的で紛争に介入したのであった
   しかし ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人勢力が民族浄化に手を染め敵対民族を大量に殺害・迫害していたことが
   明らかになると国際世論はこれに強く反発しユーゴスラビアを批判する声も日増しに強くなっていった

   こうした状況を受けて国際連合は ユーゴスラビアへの経済制裁やユーゴスラビア政府の国連代表権剥奪を決議し
   さらには国連防護軍(UNPROFOR,国連PKOのひとつ)をボスニア・ヘルツェゴビナに派遣した
   しかし 思うような成果を挙げることはできず ついに1994年4月,しびれをきらした北大西洋条約機構
   NATOは セルビア人勢力に対する空爆を敢行した
   これによってセルビア人勢力も強硬な態度を改め1995年11月,和平案に合意した

    翌12月に正式調印されたボスニア・ヘルツェゴビナ和平協定では,ボスニア・ヘルツェゴビナをボスニア連邦とセルビア人
   共和国からなるひとつの国家として維持していくことが定められた
   また これを受けて1996年9月には最高機関である幹部会の選挙が実施されムスリム勢力のイゼトベゴビッチが
   幹部会議長に就任した

   ★この作品は 観覧人数が二位に成りました 有り難う御座います

          s10683726@ybb.ne.jp

          

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