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再び巡り合う 魂の伴侶

2009年01月24日 01時09分32秒 | 懐かしいとき
 
私は、以前 消された真実 天智と額田を書きました。

この日、本当は 別の事を書こうと思っていましたが
「あかねさす・・・あかねさす・・・」と何度も何度も
メッセージが降りてきて あのような内容になりました。

追記をしたくても、もう文字数の関係で出来ません。
ですから、もう少し ここで書き綴っておこうと思います。



なぜ、こんなに力を入れて書くかというと
私は、「額田王」が 世界を変える鍵を握る人物の一人であると
強く 確信しているからです。

日本の成り立ち、仏教と神道、天皇、国歌、韓国(朝鮮)との関係・・・

これらが、どのように繋がって 現在に至っているのか
そう遠くない未来 明らかになる日が 訪れるように思います。



歴史は勝者が作ったもの。真実は、葬られていると 言われています。



                                 


天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり
               日本書紀 巻29 天武2年(674年)2月


たったこれだけの記述で
なぜ 額田王は天武を愛し続けたと解釈されたのでしょう?

子供を産んだ記載だけで
なぜ 生涯 愛し続けていたのは天武とされてしまうのでしょう?

なぜ 天智と額田の関係そのものを なかったこととしている説が
優勢になっているのでしょう?

額田王について書かれた本は たくさん出版されています。
額田王が天武を愛し続けたと 全ての書籍には書かれていません。

直木 孝次郎さんは、天智と額田は相思相愛であったと記されています。

(旧海軍で軍隊生活も経験された難波宮跡の保存運動などで知られる90歳の老学者
日本の古代史研究をリードしてきた日本の歴史学者。大阪市立大学名誉教授。文学博士)




あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王・万葉集20)
むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも(大海人皇子・万葉集21)


この二首は、相聞の部でなく 雑歌の部に分類されています。
雑歌とは、公式の場で詠われた歌のことです。

題詞には「額田王の作る歌」とあり
額田王が、天武天皇個人に 向けて思いを伝えた歌「贈る歌」でなく
宴などで 公に披露した歌です。

万葉集への収録が 雑歌であって 相聞歌ではない以上
恋の歌ではなく 公式の場に相応しい 神事を詠った歌です。



「野守」 は番人=天皇を指すのではなく 「国魂」 を表し
「袖振る」 は 「相手の魂を呼ぶ」しぐさで、この場合は招魂の儀礼のことです。

「 朝の光のさす標縄の野で、国魂の神は見たのでしょうか
あなたが招魂受霊式で袖を振るお姿を 」 という硬い内容を
一見 相聞歌(恋の歌)風に詠ってみせた、額田王の技量が見て取れる歌です。



又、天武天皇は 自らを国魂の神に擬して
紫の服を着た人間の女性たち(人妻)の美しさを 詠われた歌と思います。

ですから、この歌から 額田が天武を愛し続けている。
天武から額田を奪ったのは 天智と解釈するのは かなり無理があります。



万葉集 巻4と巻8にそれぞれ重複して採られている
天智と額田を結びつける題詞がある歌

  近江天皇(天智)を思ひて作る歌
「君待つと わが恋いをれば わが屋戸の
 すだれ動かし 秋の風吹く」 4-0488 8-1606 額田王

あなたが恋しくて恋しくて、心待ちにして恋い慕っていると
 すだれが動いて、あなたと思ったら、それは秋の風でした。


待つということで 天智天皇が生きていた時に詠まれたと
通常は考えられていますが、私は 愛しい夫亡き後の歌ではないかと思います。

天皇に対する呼称には、ある程度の法則があります。
今上天皇に対しては単に「天皇」
今上よりも、以前の天皇に対しては「○○天皇」

そして、その法則は万葉集そのものにも見受けられます。
万葉集の巻1と2は、天皇の時代ごとに歌をまとめられていて
その天皇の時代に詠まれた歌の題詞は、基本的に「天皇」
それ以前の天皇ならば「○○天皇」となっています。

近江天皇
つまり、天智天皇ですが 万葉集の場合は
天皇としての諡よりも 宮を構えた地で表すことも法則ですから
法則に従うのであれば「近江天皇」と記載されている以上
歌が詠まれたのは、少なくとも大津京が皇都であった時よりも後
となってしまうのです。

この考えだと、この歌は もう天智がこの世にはいない時期となります。



私が、天智天皇亡き後の歌と思う理由は
「この世的解釈」で天智天皇が生きていた時に詠まれたと考えられると思いますが
この世だけでなく、この世とあの世の両方の見解で生きている
巫女、シャーマンに「この世だけの解釈」は 当てはまらないからです。

私は、バックナンバーで
天智天皇の正妃 倭姫王の万葉集における呼称が 額田王として統一されたのであろう。
倭姫王が額田王とすると、額田王は超強力な力を持つ巫女であったと思われる。
と書き残しました。
倭姫王は、万葉集でこのように詠っています。


青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも(万2-148)

青々と旗のように茂る木幡の山の上を、大君の魂が抜け出して
往き来するとことは目には見えるけれども
もはや直かに天皇にお会いできなくなってしまった。
お体に呼び戻してお会いすることは出来ないのでしょうか。



超強力な巫女、シャーマンであるならば
魂が抜け出して 往き来するのが見えるのは当然です。

天智が亡くなった後、夫の魂の訪れを待っていても なんら不思議はありません。
私でさえ、この世には もう存在されない亡くなった人のメッセージを受け取ったり
見えたりするのですから

でも、この時の額田王は 純粋に亡き夫を偲んで詠まれたと思います。
後の世で、何度も生まれ変わり 二人が出逢い 愛し合う確信も
過去 幾転生 愛し合っていた記憶も、薄かったのではないかと思います。

二人は、夫婦として愛し合う姿で世界を大きく動かし続けている魂かもしれません。
愛しい愛しい愛する夫が 先に逝く悲しい最期を何度も何度も経験し
その悲しみの克服と その克服時 数々の人生で付随発生してしまった業の修正を
転生の過程で課題とされているでしょうから 相当の悲しみであったことでしょう。




                                 



次に、ご紹介するロマンスは、現世一代での 再会ロマンス

再会のロマンス 成就 25年越し、京の身障者夫婦に
12月31日10時0分配信 京都新聞



お互い身体障害者で若いころ1度は結婚をあきらめたが
25年ぶりに再会して結ばれた夫婦が京都市伏見区にいる。

妻となった女性が「今昔物語集」に伝わる
再会のロマンスゆかりの勧修寺(かじゅうじ)(山科区)で長年暮らしていたことから
「平安時代の純愛伝説のよう」と周りの人たちも喜んでいる。

足が不自由な小西忠和さん(60)と、右半身に障害がある栄子さん(57)
かつて、忠和さんが野菜を届けに勧修寺を訪ねた際
境内の庵(いおり)に住み込んで尼僧大塚全教さん(故人)に師事していた
栄子さんに出会った。

恋仲になったが、当時収入が少なかった忠和さんは「養える稼ぎがない」と
結婚をあきらめ、2人は別れた。

それから長年、「思いは消えなかった」。
昨年夏、忠和さんが寺を訪ねると、栄子さんが昔と変わらず庵で暮らしていた。
家のローンを完済し、貯金もしていた忠和さんは「今なら2人で暮らせる」とプロポーズ。
同年9月に入籍を果たした。

今昔物語集には、内大臣藤原高藤がタカ狩りの際に偶然立ち寄った屋敷の娘
列子(たまこ)にほれ、6年間離れ離れになったが、再会して結婚したという説話が残る。

勧修寺は2人の孫の醍醐天皇が造営した。
勧修寺の筑波常遍住職らに結婚を報告した忠和さんと栄子さんは
「平成の高藤と列子のよう」と祝福された。

同居し始めて1年4カ月。
段差を少なくするなど生活しやすさに配慮した家で、
一緒に料理や庭の手入れをしたりと仲むつまじい。
忠和さんが体調を崩した時は栄子さんが看病、肩を貸して歩く支えにもなっている。
忠和さんは「1人より2人がいい。妻の笑顔で自分も明るくなれる」と幸せをかみしめている。


                                 


このお二人は、生きている何十年かの 一度の人生の上での再会
もし、お一人が 25年の時の中で 記憶喪失になっていても
再び巡り逢って、愛し合えたでしょうか?



私は、愛し合う二人は 必ず巡り逢い 愛し合うと確信しています。

それは、言葉が要らないもの。科学の方程式のように明確であるからです。
魂の半身 伴侶は、引き合うのです。逃れられないようになっています。

二人が生まれてくる前に 約束した 最も相応しい時に
最も相応しい方法で 巡り逢うようになっています。

私が、時空を超え 彼に出逢ったように・・・



そして・・・勧修寺は、天智天皇陵がある 京都府京都市山科区
天智の魂が、引き寄せたロマンスでしょうか
 

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