駆け出した結晶

城の先には無邪気な笑顔と忘れもしない過去と長くてあまり暗くないトンネルがあった。

TOEICがぁ

2011年08月17日 22時59分19秒 | Weblog
やっと、念願の800点突破だぁ。

そんなに大したことじゃないのはわかっているけれど、
今までの厳しさを耐え抜いたから、やっぱり嬉しい。

二年前に745点を突破してから、
点が伸びずにとても辛かったなぁ。

英語に集中したかったから、
会社の若手飲み会を二回キャンセルして、
先輩に嫌味を言われたが、
(ちなみに京都大学でそれほど勉強せずに800点以上とる人)
なんとかここまで来た。

でもそんなに嬉しがっても、しょうがない。

早く900点をとって、
英語に自信を持てるようになりたいし、
英語にかける時間を減らしてゆかないと
自分のやりたいこともできない。

つまり、英語は自分の人生の単なる足かせに過ぎないので、
早く終わらせて次に逝きたい所存。

明日も英語を勉強しよう。

次のテストは9/11。

そして10月にはまた資格の試験。

こんなこを続けていたら、仕事にかける時間がなくなるっていうの!


みなさんお久しぶりです。

2011年08月15日 22時45分57秒 | Weblog
こんにちは。お久し振りです。

ブログをかくのは、三年ぶりぐらいかな。

最近は家族も増えて、はたから見ればいかにも順調そうな人生を歩んでいます。

内面はよく過去を思い出します。

でもたいていは失敗したことを思い出すので、
胸がくるしくなりますが、それでも懐かしく思います。

交友関係はまったくありません。

自分からあえてそうしてみたのだが、
最近少しずつ誰かと話してみたくなりました。

だから、自分と話してみたくて、
自分の考えを形にしたくて、
それを何かに残したくて
書いています。

会社はとても辛いことばかりです。
だからといって、辞めたいわけではありません。

しかし、本当に辛いところです。

周りには僕よりも優秀な人ばかりです。

特に京都大学の人にはやっぱり難しいです。

それでも自分の考えをもって、行動して、
認められるようになってゆかなければならないと思っています。

なんだかんだ言って、かなり前向きです。

だけど、孤独で責任があって、
よくわからん仕事を全て理解しなくてはいけなくて、
やっぱり大変です。

でも明日も頑張ります。

拙い知識と非効率さを武器に邁進してゆく所存です。

最後に私のパートナーはとても前向きで優秀です。

どうにかして、その人を正しい感情を持たせて、
正しいところへ導いてゆきたいです。

結局のところ、
自分自身の整理をして、
きちんと全てに向き合いたいのです。

そのために今日は書きました。

また書きます。

近況を知らせて欲しい人などは
とりあえず、電話下さい。

メアドは一度かえたので、
知らない人もいますが、
ケータイは変えていないので、
多分つながると思います。

一回ぐらいはでます。

その後は、過去の出来事を判断して
行動します。

ではでは。

これから先のことについて

2008年04月13日 16時19分35秒 | Weblog
お久しぶりです。これから先のことについてほんの少しの時間だけれども、見てください。

この度、就職先が決まりました。色々と紆余曲折がありましたが、結局、大手鉄鋼のJ社に決まりました。

個人的にはほっと一息です。何でも、数学系というのはいろいろな技術系の業界から見放されていて、M社からは「数学系は必要ない」とまで言われたぐらいです。なので、第一志望だったこともありとっても嬉しいです。

ところで。日本の存在意義ってなんなのかな?ってことを就職活動をしていて一番考えていました。僕は、これから日経企業で日本で働くのでもちろん日本にかなりの税金を払ったりしてゆくし、かなりの金額を日本で消費していくのでしょう。なので、僕はこれからかなり日本に貢献していくわけです。

そもそも僕らの生活は今までの日本人の方々の頑張りのおかげで、今の水準が保たれているわけです。それを当たり前と思うか、今限りのものと思うかは人次第ですが、少なくとも僕は今の状態は一度しかなく、これからは不透明だと感じています。その中で、僕が日経企業で働くということは、ある程度その水準の状態の構築に関係していくことを意味していると考えられます。

だからって偉そうに扱われたいとかそういうわけではない。単に客観的に見てという話。

働くってこと、とかく日経企業で働くっていうのは、日本人に近づくということなのかなぁって漠然と思います。日本でしか成りえなかった知見を掴んだ私達の大切なモノを自分は見てみたいのだな。それが一番の就職への、特にJ社の就職への意欲。

日本人であること。それは単に僕が今まで追ってきた思想だけではないんだなっていうことに気付かされた半年間だったなぁと少し感慨深げです。

グローバルとか世界とかいろいろと言われていますが、僕はまずは日本人を感じてみたいと考えているなぁ。その後でなら、もっといろいろと考えられるだろう。君と私のことであったとしても。

ふぉふぉふぉ

2008年01月27日 03時34分35秒 | Weblog
これはある人への手紙です。手紙を書いているうちにブログにしたくなりました。受け取るはずだった人はヒントがあるのでわかるはずです。とにかく最近はこんなことを考えたりしています。ではではそろそろお城の整理のために行くとします。それではお元気で。



お元気ですか?

僕はインテリメガネですよ。国立大学院生の。ここまで言えばわかるかなぁ。わからないような気もする・・・それは困ったことです。

では最後にもう一つヒントです。でもあからさまなヒントはインテリ人間としてどうかと思うのですが、「僕はお城を持っています」ってい言えばおわかりでしょう。

ところで、あなたのブログの方は一向に進んでないですねぇ。どうしたんですか?こういうことを言うと恐らく、「あなたもそうでしょう?」といわれるのはなんとなく予想がつきます。そしたら僕は「あなたもやっとネットから帰って来れたんですよ。」って言います。ここまで回答を用意しとくなんて、優しいです。

まぁそんなことは置いておいて、最近はいかがお過ごしでしょうか?なんだかみなさんお元気みたいなのは薄々知っています。僕はもうすぐ大企業の一員になります。といっても来年の春からですが。そうなるとあなたとはもっと距離ができてしまいますね。

何故、今頃連絡したのかというと、ちょうど考えていたのです。音楽と経済の接点について。僕個人の見解としては不安定なのは音楽も経済も同じなのです。でも何故、そんなに敵対しあうのでしょうか?

ちょっと簡潔に書きすぎたなぁ。

僕個人としてはこれから手を繋ぎにゆきます。一概に音楽と経済ではないですが。う~ん。なんだか表現が直接的すぎるなぁ。

そうだ。

ここで置き換えをすることにします。まぁまぁ簡単に言うと、僕が境界になっているんだな。僕を境に僕よりか、もしくはそうでないか。

多分この表現はgoodのはずだ。

少し前まではこれが、分離して、かつ、そうでないやつらは鉄火面のようなモノで有機的ではなかった。多分これは僕自身のせいと僕以外の人のせいだと思う。

つまりは自分のスタンスのせいである。

個人的な感情と他人をある部分に押し込むことで、僕は自分の悲しみを最大限に表現をしていたんだ。

つまりは音楽とやらで、それが現実であるように他人に吹き込ませた。

実のところあまり巧くはゆかなかったが。

でも鉄火面も本当はすごく不安定だっただけで、たまたまあるときその姿が傲慢だったんだ。

それは離れたことによっての今になってよくわかったよ。

多分いろんなことは自分が感じているような、気分の浮き沈みがあって、僕が絶対視しているなにかがあったとすれば、それはたまたま二十三年間そうだっただけのような気が今はしている。

だから今は僕はそうでないモノと手を取り合おうとする。そうすれば少なくとも僕はいろいろな生活に必要なことを手に入れ、かつ失わずにすむんだ。これは希望そのものかもしれない。そうであって欲しいだけかもしれない。

だけどそう思うことによって、拡大的な解釈となるのだが、モンスターがいなくなる気がするんだ。モンスターが溶け合うんだ。僕と。

そのために僕は手を取り合うことにする。僕はモンスターと過ごした二年間は決して幸せではなかった。そう確信できる。

しかしモンスターとの生活によって、僕は希望を手に入れたのかもしれない。いやきっとそうなんだろう。

モンスターはもしかして、未来の希望の卵かもしれない。

もしそうであったなら、あなたと過ごせた日々はなんて尊いものだったのでしょうね。

これからあなたはどうするの?

今日の僕の意見から作り出す、一握りの世界からは、きっとあなたの思う日々も未来も見えないということをしっているわ。

だけれどもあなたにとっての幸せはなんなの?

それは多分、山本周五郎からは少しは離れているわ。

城から抜け出すんだ

2007年02月12日 11時10分06秒 | Weblog
今日は普通の文章を書こうかしらって思います。なんだってむ~たんの最終回なんですから。

思い返せば、結局、自分の自己同一視の話なんだろう。別に自分は何者なんだろう?っていうわけではなくて、自分の中の自己の存在性とその凶暴でセンチメンタルな部分の共存って感じ?伝わるかなぁ。僕としても、なんだか言葉の羅列のさせているようにしか思えないが。

君はどうするか知らないけれど、自分としては自分にしかわからない、いや、他人には例のない感覚?、というかそれを他人に話しても理解してくれない、自分のそれを見つめてみようと考え始めました。

ものや風景が言葉を持つなんて、起りえないよ。君との共有する時間の中ではね。でも僕の感じる時間なら、それが起りえるような気がする。僕はそれを信じてみるんだ。だから、僕は時間を感じ続けたい、僕なりの、空間が許されて、生命を帯びる隅々に茶褐色が征服しだす愛情を胸に、ある意味の剣をただ携えるだけ弱弱しい西洋の馬車馬、それそのもの。

なんだって、彼らが本当に考え出すものに僕はリアリティを覚えずにはいられないから。

だから、城を抜けすんだ。もう閉じこもる必要なんてないじゃないか。僕を必要とする人の傍にいることとだけが、自分の人生なんかじゃない。いつだってその感情は嘘をつかなかった。ただ一瞬たりとも、彼らの嘘は無邪気だ。それには僕は首を縦には振りたくない。僕は決して同士ではない。君たちの感情ゲームの見苦しい連鎖の同士ではない。だから城を抜け出すんだ。それに身を投げ打って、自らを老いさせてゆきたくはない。

これから僕は夢を見に行くんだ。これからは夢についての話なんだ。それが僕の何年か後の居場所への贈り物なんだ。今思う。僕はなんだって好きなように、やりたいようにやってきた。何かを見出して、そのために逃げ出そうと。その結果、僕は失って、そのかわり手に入れたんだ。僕が欲しかったものを。

それは夢だった。過去の自分から見た夢だった。人は夢を見続けるべきだと思った。このことがもっと前からわかっていれば、城に閉じこもることもなかった。火を食べることもなかったんだ。

ようやく僕はここまでこれたんだ。それはおめでたいことだよ。多分ね。やっぱり普通の文章なんて書けないね。ちょっと無理です。でもそういうことだよ。この文字の羅列が意味することは。

そんなわけで今は歩いています。城にはだれもいません。荷物はそれなりに持ってきてます。隣にはきれいな人がいます。いつだって甘いお菓子をほおばって、無邪気なもうすぐ29になってしまう人です。何だってお見通されてしまわれます。そういうのを今までずっと求めてきました。ちょっと恥ずかしいですね。まぁそういうわけです。

言葉がないものに、言葉を感じること。僕にとってはそのことがすべてのような気がしています。今までどうもありがとうございました。「さようなら」はあまり言いたくないですね。だって君のことは忘れることなんかないんだから。それでは。

憂鬱さへの軽い眼差し

2007年01月10日 12時21分20秒 | Weblog
比較的、落ち着いた日々が流れているように思う。いくつかのことが流れるままに、吹かれていった。憂鬱さを隠すことのできなかった、一年もの前の回想に親しみはもう感じない。あれほどまたわりついていた虚構にもすでに愛着はない。苦しみが消えたことは決してない。それの一部が偶然を伴い、いや、単なるいたずらでもあるが、ある意味隠し持つことさえ厭わなかった憂鬱が昇華し、消えてなくなったように思えるのである。

私は私に埋め込んだ希望という悲しみに、嘆き苦しんだ。そのときの友は闇に喰われて、狂ってしまった。自らも飲み込まれることを曝け出していた私は結局、私に救われたようだ。ついに己の肉体から、発情した。未来への布石となっていた吐き気が闇に軽蔑さを塗りたくった。

狂うことにはならなかった。

墜落したのに、海の上で目が覚めた。辺りには破片が散らばる限り、散らばっていたのに。

今、確信しようと考えている。危険なことはするべきだというのが、私を救った彼と彼女であるから。

温かさには決して遠くはない。

また虚構に溺れる 憂鬱さが差し出す苦しみ 

再び訪れるべきその日に、また私は立ち向かうため、今を確信しよう

そうすることがある意味、証明なんだ。

心深まる嵐

2006年12月18日 22時34分38秒 | Weblog
自らの魂に傷をつけても、君と上手くやりぬきたいと考えている今日この頃。

想いが勝手に飛び立って行くことを願いつつも

誰とも知らぬ人との誘惑に負けてしまわないように

頭を放心させて

ひたすら待つつもりだ


ひさびさの恋愛感情は無駄にはしたくない

明日のことも考えずに、ただただ没頭してみたくなるのはそんなに望まない



口惜しくにも、なってみたいものだ

あれこれ言うのは、すべてが終わってからにしよう

かつてない程の傷跡を残すことになるだろうが、それはそれで忘れてはゆけない



ただただ感じてみたいんだ。

自分がどれだけ未熟かというのを

そして

自分がどれだけ若さを持ってゆけるのかというのを


頼むから、壊すのを止めないでくれ。

嵐は過ぎ去る前が最も似合うんだから。

自殺願望への気遣い

2006年12月09日 11時14分47秒 | Weblog
手を切りすぎたことによって、初めて錯覚だと妄想し始めた私は痛みの回想に苛立ちを感じて起き上がった午前四時。

穏やかに暖かい、死の誘いは興味を心からひかれて

吐血を催す

真っ白に見える。愚かしい、そんなすべての悦楽がハシャギ足りなかったことを懐かしむ、彼の狭い生い立ちに凪ぐ攻め新しい日々に存ずるリアリティに思いつかない。

そう。思いつかなかった。でも私にだって考えがあるわ。



これは、この死に行きたいという欲求は、恐らく自殺願望からではないわ。

やがてくることへの「用意」なのよ。


私はきっと、悔しいのよ。今までのあたしを、これからのあたしに上手く繋げたいの。つまりは結局、あなたに関する感情めいたものも、あたしが持っているものから発生したものなの。だから私がというわけではなくて、あたしがということなの。あなたの前のあなたにのような人が私に植え付けたあたしが、あなたを求めたのよ。

そう。私はどちらかといえば、死にたいわ。それは恐らくもう変わんないことのような気がする。でももし、私自身が生んだ、あたしを、もし、私が生かそうとするならば、私も死にたくなんかないの。そういうことなの。だから私はあたしでしかいないわ。誰がなんと言おうと。その結果からの虐待なんかに、決して認めないわ。

だから自殺願望は、際どい瞬間にやってくるの。

でもそれをブレイクスルーすることが、あなたへの私の感情のある種の証明になるんじゃないかしらって必死に考えちゃう。


でも、もしものときは、ごめんね。そうなると、すべてがあなた次第になってしまっちゃうから。


その点で、私はまた自己嫌悪のいかにもループらしいループに埋没してしまうね。それを制御する回路の発達は決して遅れているわけではないんだけど、いかんせん対処には時間がかかってしまうのよ。でもこれは、私でなんとかするわ。それだけが私にとっての、私があたしにできる、優しさのようなものだと考えているから。


いつまでこれが続くんだろう?それについては考えてたくない。いつか夢の世界にダイブできないかなって、ある意味真剣に考えているかな。でもそれは、死ぬことではないようなことではないと、最近わかってきた気がする。

私は重い人間だっていうのは、わかっているよ。でもそれはどうしようもないことかどうかっていうのは、もうわかんない。結局あなたに対する想いをあなたに言うのも、そう感じるのも私しかいないんだから。


私が誰かを救えますように。私の感じた苦しみや狂気、死への愛憎が正しい方向に向かい、誰かを誰か自身から許されますように。そんなこれからが送れたら、私の今まではきっと無駄じゃないことになる気がする。


この季節はやはりこんなことを考えてしまう。僕は大丈夫だろうか?それは僕自身が知り、その行くべき先を、僕が自らが行けばいいのだ。では今なにを考えようか?そうやって今までやってきたような気がする、ある意味最後の瞬間間際だな。


自殺願望ねぇ。これもまたやっかいだな。でもこいつとモンスターは実は相反するものだってことは知っているよ。

朝はまだしも夜なんだ。

2006年09月06日 12時20分51秒 | Weblog
降り続く雨はまるで全てを夜に、僕を舞い戻らせたように、ニヒリズムを隠すことのできない笑みで豪華な椅子に座ってい続ける。まだまだこれは休まることはないだろう。しかし僕はこれを望んでいるようだ。

まだ明るみに我が身を曝すのは、時期尚早に、つまりは納得がゆきそうもない。それは自分が内的に、右であることのためだ。不愉快にも自己の衝動は、知らぬ間に恍惚感に歩み寄ってしまい、それによって、内乱を不自然とも言われる形に常に収束させていっていた。しかしこれはどうにも抑えようがない。これは性癖なのだ。

だがこの性癖に赴くままの現実は、放っておくと外的にも、立派な右と成らざる得ないだろう。確かに、今でさえも、思想の体系的な左のやつらにある種の絶望感を強制的にねじ込んでやろうとしているのだから。

しかし、こういう風な先を僕は望んでいない。僕は外的にも右となることを決して望んでいない。左になることを渇望する。内的には右のまま、外的には左に転ずる。いや、むしろ左を構築するのだ。僕が持つそれぞれの関係において、独立し、それぞれが特異である、空間を。左としての空間を。

でも現時点では、それは不可能に近い、奇跡のような夢のようなものだ。何故なら、今の自分は、やはり自己同一視できない他を殺しに、いやむしろ自己同一視できない他の死を望んでいるからだ。つまりはそれが右そのものなのだ。だから結局のところ、無関心の態度も他を認めないとういう点において、限りなく右なのだ。そういう意味でいえば、ほとんどは左を装っていながら、意識はしない右をあからさまにやっていやがるのだ。僕はそれに非情な嫌気がさしている。

だから今はある試みをやろうと試みている。それは、自己の中に様々なものを乱立させるということだ。それぞれが独立性を許された空間。そう独立しているのだ。他に駆逐されるのではなく、常に生存が保持されている状態。そして、そのおのおのがそれぞれに関係を持つように、深く入り乱れた、平衡な世界。今、自分はそれを構築するシステムを自己の中に持ち込みたいんだ。一つの力が強靭なモンスターを心の中に産み落としてしまうような、立派な右には成りたくはない。モンスターはとても恐ろしいのだ。それは、他も自己も喰ってしまうものなのだ。そうしてやがてはモンスターの獰猛な刃で、自己は友を喰いちぎってしまうだろう。おびただしい血と何十年にも渡る不可解な生活と癒されることのない憎しみがあきれるほどつまったスープを、俺は飲み干したくはない。けれど、モンスターはそれを渇望するのだ。だからモンスターを産み落としてはいけないんだ。

ここから先は、未だ先の見えない状態が続いている。果たして自分がこの試みに成功を収めるのかどうかは自信がない。けれど、今やらないとモンスターはまた生まれてきてしまう。だから、朝はまだ夜なんだ。降っている雨はまだ止まない。

いや、まだ夜であってくれ。雨よ降り続いてくれ。

まだモンスターがすぐそこにいるんだ。

蜜との囁きあい

2006年05月24日 14時07分09秒 | Weblog
鬼畜な人々よ 我はもう立ち上がることもできやしない

甘さに釣られて、生命の揺るがなさを肯定しようとするのは、致し方ないと思う影に身を包まれはしないかと恐れを抱くかよわい蝶。それは多くの巨大なモノが重なりあった世界で、常に彷徨い続ける。しかし、そうでもしなければ無理なんだ。探し物が見つからない。そう彷徨うことも、少なくとも前衛さを保つ結果ということだ。

浅はかさからの心の痺れがきつくなりかけたことから、羽ばたかせる勢いもどこか心もとのなさがおぞましく感じられる一刻前からの駆け落ちの案内状が急に届けられた。まるで腱がちぎれそうだった。そう発見をしたのだ。深く落ちそうな麓に、妖しく光る蜜。それは生命そのもの。彼らのためだったならば、なんだってしてやる。だって彼らは私の命なんだもの。

もう止まらない。神経が越えすぎた結果の、反動を気にすることなんか目にも留めない衝動さはあざとくすべてを蝕む。不安によって極度に押さえつけられていた自己への哀れみが、縄を喰うように刻み切る。何度も堅く忘れられるように結ばれていたはずなのに、幾重にも獰猛に喰いちぎられる。ついには動脈にさえ達し、おびただしい血が中を舞い踊った。

蝶は飲み込まれる。いや、飲み込まれたというよりも、飲み込まれに向かったのだった。不実の甘さだった。あらゆるすべての慈しみよりも、はるかに得られる歓喜と興奮。もっと包み込んで、そうしてすべてをいっぱいにしてちょうだい、そう願いをただただ叫んで、蝶は生を感じていた。





まるで耽った行為の後のどこかに置いていかれたあの感じのような気がただただした。

なんだか悲しい。それが生きることならば。

それでもそれも重要で、なにかしらの解決になるんじゃないかと思う。そうやって過ごしている。何故だか感情の統一さが一向に見られないのが情けなくて、しかし欲望にはどうしてもドアを開けてしまう。

日々の流れがもっとゆっくりだったならば、もっと変わったのか?

哀れにも思うがもう追随するだけの力が残ってないのかもしれない。それも認めていかなければいけない。限界さは常に訪れてしまうものだから。だから、こうも考える。限界の合間を縫ってやろうとも。そうして形作ってやろうとも考えてみたりしたんだ。