セネガルの首都ダカールにいる。




時差ぼけという言い訳をかましながら朝起きて昼寝して夜寝るという割と自堕落な生活をしている。
ダカールは建物は低いが密度は濃い、人も家も車もギチギチに詰まっている街だなぁと思う。
それらがギチギチに詰まった通りには砂と排気ガスをいっぱいに孕んだ熱気が立ち込めていてその上空をやたら尾羽の長い鳥が飛び交っている感じだ。
楽園か地獄か、世界は特にどちらでもないのだろうが、心の持ちようでそのどっちにでもなるんだろうな、なんてことを考えた。

日本にいる時、罵詈雑言が止まらない親戚がいて困っている、という話を両親に聞いた。両親の親戚なので自分の親戚でもあるのだが、その親戚は僕も知っていて、彼女は昔から人間と話している気がしなくて苦手だった。
人を罵倒するということは、早い話が自分を憎んでいるのだ、人を否定することでしか成立しない自己肯定はあまりにも悲しい。
自分はこんなに苦しんでいるのに…なんて同情を求めるな、どちらかといえば取りに行くのは幸福じゃなくて不幸の方だ、この世はすでに天国で、たまに地獄がないと退屈してしまう。そんな考えがあってもいいんじゃないだろうか、僕らは幸福になるために生きているのではない、楽しい地獄を味わうために生きているのだ。考えてみれば幸福なんてそこらじゅうに転がっている。だから幸福なんて選ぶな、地獄を選べ。それも、とびっきりたのしいやつを。
以上いきなりですが、昨日「青い鳥」という本を読んだざっくりとした感想です。

地獄が嫌なら生活保護を受けて一日中部屋の中にいればいいのだと思う。
それでも僕らが外に出るのは、世間でよく言われる天国はきっと退屈だからなのだろう。
人間なんて少し前までは、朝起きたらかまどに火をつけて、水を汲みに行って、薪を集めたり、家を直して、道具の手入れをして、獣を狩ったり、果実を採取したり、その地域の資源が無くなれば新たな土地を探し、そこで新規の生活基盤を確立させたりしていたのだろう。
そんなのどう考えてもめちゃくちゃ忙しい、脳みそフル回転で一日が過ぎていくに違いない。
そんな感じで少し前まで容量ギリギリまで頭を使っていた人間が、今では部屋にこもってスマホを見ていても死にはしないのだから脳みそも退屈する。
はぁーあ、地獄でも見に行くか、と思ってもなんら不思議ではない。
天国行きなんて大渋滞で退屈だから地獄行きの激流にでも乗れば?って感じ。

お腹すいてきたので続きは次回。
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