恋は盲目、パンチラはガン見〜Ryoji Harada〜

元は旅ブログ、海外行ったり、突然自転車で走り出したり、ちょっと自分でもなにすんのかわかりません。パルプンテ!

吐いた唾飲まんとけよ

2022-11-17 12:59:00 | 日記



さみしいのとさみしくないのはどちらがいいのだろうか。

田舎暮らしの多い僕は1人の時間が多い。
朝おはようを言う相手もいなければ、朝ご飯が美味しいねと伝える相手もなかなかいない。

その代わりと言ってはなんだけれど、1人であればあるほど静かに朝を迎えたり、夜ふと外に出ると流れ星が見れたりもする。

さみしいことは一概に良くないことだと括られがちだけれど、さみしさが貯まれば貯まるほど、人と話す時は饒舌になる。たいていの場合それは楽しいのだけれど、時としてそれは他人との温度差が生じてうまくいかないこともある。

ぽかんと抜けてしまった空洞がそこにある。油断すると僕はそれを本能的に埋めてしまおうとする。

SNSでも、電話でも、映画でも、街に繰り出すでも、空洞を埋めるにはいろんな方法がある。

世間に出るとなぜか空洞を埋めるもので溢れている、僕の空洞に気がつくや否やご丁寧に埋めに来てくれる人なんかもいたりする。

大丈夫だから、埋めないでいいから、そう思ってもなかなか伝わらない、だから。

空洞を空洞のままそっとしておいてくれる人はとても貴重だ。

抜け殻になった命ほど良く鳴る。
だから、その辺に転がっている適当なものなんかで空洞を埋めてミュートをかける必要なんてないのだと思う。

おっと、あぶない。

良いことを言おうとすると後で読み返せなくなる。読み返すと恥ずか死するのだ。(最近覚えた、恥ずか死)

こう言うことを言っちゃったあとは、なんちゃってをしたほうがいい。

吐いた唾飲まんとけ。
なんて言われたってそんなこと僕にはできない。
吐いた唾だってゴクゴク飲むよ。
そう僕はきっと変態なんだよう。

先日、関東に来てはじめて雨が降った。
その雨は朝に降って午後になる頃にはあがっていた。
雨上がりに久しぶりの道を一人で歩いた。

南風を押し返しながらやってきた北風はまだまだ元気で、ヤシの木みたいなやつがわしゃわしゃと揺れていて、銀杏の黄色い葉っぱが紙吹雪みたいに舞っていて、これはなにかの合図なんかなと思って、今振り返ったら映画みたいになるんじゃないかな、なんて馬鹿みたいなことを思って。

デカい肩パッドをして、その上にたくさんの服を重ね着して、そのままフリマでその服を売って、ギターでも弾いて、一緒に歌ったりして。

想像してみたらあり得そうで。
そんな日は二度とないんだろうな。

しまった、なんちゃっての種類を間違えた。

どんなに綺麗な夕陽を見ていようが、満点の星空を見てようが目の前に可愛い女の子が笑ってたらそっちに目が行ってしまうよ。

カッコつけたままなんて土台無理な話だし、いつまでもセンチメンタルなまんまじゃいられない。

嫌いな奴はいつまで経っても嫌いだし、友達は少ないままだ。

結局、大筋はなんも変わらないんだ。













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あっけらかん

2022-11-06 20:28:00 | 日記



一昨日、同じ年に産まれた友人が亡くなった。個人的には、仲の良いと思っている友人だった。

半年くらい前に「会いたい」と連絡を貰っていて、仕事あるからと電話で病気であることを聞いて、やっとこ千葉に来れて会いに行こうと思った矢先だった。

先週までLINEで連絡を交わしていたはずの彼が、今もう既に自分と同じ世界にいない。
これまでと同じ形で彼に会うことは二度と叶わない。一緒に行ったあの場所や、なんとか乗り越えた仕事の思い出や、子供たちの名前や、今の仕事の愚痴のようなものも、聞くことはできない。

わかっていたはずなのに、その事実を聞かされて改めて本当のことは何もわかっていなかったことに気がついた。

恐ろしいことに、その人思えば思うほどに、もういないと実感していく。
頭の中のイメージが色濃くなるほどに、彼がいない、それだけの事実が現実になっていく。そんな感じがしている。

昨晩、共通の友人と彼の写真を見返していた。

酒を飲んだり、ご飯を食べたり、ただそこに立っていたりしているその人を見て、自分にもっと出来ることがあったのではないかと、あまりに愚かで今更な事を思ってしまう。

彼とのLINEは、来週家に遊びに行く約束をしかけたまま終わっている。

その約束で少しは彼の気を晴らせたらよかったのだけれど。どうだろう。
それとも変わっていく自分を見られることに抵抗を感じて、嫌な思いをしなかっただろうか。

今はもう確かめる術もない。

この世界は、昨夜大切な友人の死を知った人のためには回っていない。
テレビをつければどうでもいいことで人が笑っているし、首都高から見える看板には明日を、明るく、元気に生きる人に向けた広告が所狭しと貼り付けてある。

いつだって世界は多い方に流れていく。

それでも世界は回っているし、残った僕らはそこで生きていかなくてはならない。
明日を、明るく、元気に生きる人たちの中でうまく立ち回るには、自分の辛気臭さには蓋をしなくてはならない。誰も悲しい気持ちにはなりたくない、通常人間は明るく、元気に生きていきたいものだ。悲しい人の気持ちは伝染する、そんなものを全面に出している人がいたら普通はみんなそこから距離を取るし、それは当然のことだと思える。

悲しみに蓋をするのは存外簡単で、笑って他人に挨拶もできれば、ご飯も食べることができる事がわかった。

こういう立ち振る舞いが出来ることが大人なのか、
こういう立ち振る舞いをしている振りをすることが大人なのか、

僕はわからない。

これまでに、大切な人を喪った直後に僕と関わった人はどれだけいただろうか、もしかしたら、あっけらかんとした振りをしながら、心は泣いているなんて人とたくさん関わりあっていたのではないか。
そういう事を思っている。

悲しみに蓋をして生きている人はすごい。
悲しいからと喚き散らされてはこちらだって参ってしまう。そう思うと、どんな人にも今、悲しいのにあっけらかんとしている態度をとっている可能性があると思ってしまった。

悲しいのにあっけらかんとできる人を僕は尊敬することにする。

頻繁に会っていなかった友人だが、喪失を実感すればするほどに身体の一部分を失ったような錯覚に陥る。

考えるたびに彼の存在が色濃くなる。頭の中で、彼の存在が色濃くなるほどに、もういない事を実感する。

もっと早く会いにいけなかった事を後悔している。

もう会えない事が寂しい。

残された僕は、生きて生きて生きて生きて最後まで生き切って、いつか会いに行くしかないのだと思う。

あっけらかんとしている悲しみの所有者に、心からの敬意を。

どうもありがとう。








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「あの彼氏はやめたほうがいいよ」と言われたことがあるかい?

2022-10-29 20:13:00 | 日記


今では遥かむかし、付き合っていた女性にこう言われたことがある。

「友達にさ、『あの彼氏はやめたほうがいいよ』って言われたんだよね」


…どないせぇっつぅんじゃ!

そう思った記憶がある。

過去に僕は無意識に人を傷つける、ということがたくさんあったのかもしれないし、これからもあるのかもしれない。

人が人を傷つける時に、悪意が伴っていない場合はきっと多々ある。
悪意が伴っていない相手を責めることはできない、悪意がないのに傷つくのは自分の弱さだ。よって悪いのは自分なんだ。

そうやって傷つく人はどんどんと傷ついていくのだと思う。

ただ、傷つく人は可哀想だという話、本当にそうだろうか。

賭け事に負けた時。
恋人にフラれた時。
恥ずかしい過去を暴露された時。
足の骨を折った時。
会社を辞めた時。
一夜にして大金を失った時。
大切な人を失った時。

人生の転機は大抵最悪の事態から湧いてくる。そういうふうに思っている。
傷つかない環境は安心だ。えてして人間は安心を求める生き物であるからにして、傷つかない環境を見つけてはそこを死守しようとする。

しかし歴史的にも守りに入った側が長続きした例は少ない。土地も権力も藩も幕府も国家も長続きしたためしは少ない、でも徳川幕府は長いこと続いたなと思うから例外もあるし、本当のところはわからない。

歴史的に語られる武勇伝も大きな転換点に集約されている。


例えば、1000万円を貰った人と、1000万円を失った人がいたとして、人として本当の実力を発揮できるどっちだろうかと考えてしまう。

もちろん失った人の悲しみや悔しさは計り知れない。
しかし後になって覚えているのは、失った時の方だと思う。

悲しいことがあった時や大切なものを失った時、僕らは失くしたものばかりに目を向けてしまうけれど、その反面大いなる何かを掴んでいるのではないだろうか。

悲しみや苦しみや痛みにばかり集中していると生きる力がどんどん吸い出されてしまう。

けれど、痛みの中には必ず宝物が埋まっている。
難しいけれど、失ったものの反面には必ず得るものがあって、苦しいだけで得るものなんてなにも無かったなんて事は絶対にないのだと思う。

どんな絶望の中にいても、あなたがまだ生きているのは、その希望を信じているからではないだろうか。そしてそれは絶対にある。


川下りのシーズンが終わる。

いつまでこんな事をやっているんだろうと思う傍で、いつまでもこんな事をやっていたいなと思う自分がいる。

どちらかを選ばなければいけない時、僕はどっちも出来ないかな、と考えるようにしている。

そうやって決めた事はいつでも見切り発車で、出来たこともあるし、出来なかったこともある。

出来るまでやればできるし、途中でやめたらそれまでだったという話になる。

話は戻るが人間が本当に力を発揮する時は、傷つくかもしれない道を選んでいる時だ。

好きな人に好きだと言うこと。
仕事を辞めますと上司に話すこと。
会いたい人に会いに行くこと。

傷つくかもしれない道はその人に新しい人生を届けてくれる。生きながらにして生まれ変わるチャンスを与えてくれる。どこにだって行けるんだという事を思い出させてくれる。
絶望の中にも希望は落ちている。

明日死ぬかもしれないと言う事実が、生きる事をやめる理由にはならない。











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良い塩梅

2022-10-16 23:16:00 | 日記



10月も真ん中を過ぎた。
9月くらいに入ると「もう今年も終わりだねぇ」なんて言う人によく会うが、それが僕にはよくわからない。
いや全然終わってないだろ、まだ半分とちょっとが過ぎた程度じゃないか、と思う。

無いものはどうやったって無いのだから嘆いたところで仕方がない。

残っている月日を、今その手の中にあるものを見なよ。いつまでも失ったものを引きずっている場合じゃないんだよ、失恋じゃないんだよ。

そんなことを思う。




カヌーに人を乗せて僕は今日も舟を漕いでいる。

少し前のような気持ちの停滞感は影を潜めた。何事も心の持ちようだなと思う。

最近舟を漕いでいて思うのは、心にも物理的な重さがあるんじゃないかなということ。

夫婦は軽くて、不倫カップルは重い。
男の一人旅は軽くて、女の一人旅は重い。
大学生は軽くて、中高生は重い。

例外はあるのだけれど、だいたいこういう傾向にある。

「この二人は、不倫だなぁ」なんてとびきり野暮なことを思っても、僕は平然と少し重たくなった舟を漕いでいる。漕いで、そしていつものようにカラスが鹿の糞を鹿の耳に詰める話をする。

軽やかな人だけに伝わる話がしたい訳ではない。できることなら重たい人の琴線に触れるようなことを話したい。

元気な人にだけ届く言葉をいくつ紡いだところで、そんなものはすぐに忘れ去られてしまう。



友人から最近体調が良くないんだ。という連絡が届いた。

人間本気で体調を崩すと、食欲から失っていくのだ。という話を聞いた。

この話を聞いていて、世間では控えめというか、欲望を抑えた人種が賞賛されがちだけれど、欲望があるうちはどんどん要求した方がいいのではないかなと思うようになった。

欲望を失った人間はつまらない。
ただ、誰もが我慢しているようなことを人の気も知らないで言い出してしまう人間もあまり好きではない。自分で書き出しておいてややこしい、良い塩梅というのはどこにあるのだろうか、どこかに売ってないかな、良い塩梅。

乱暴な言葉を使うと、欲望の少ない人間はすぐに舐められる。「アイツはちょっとやそっとのことじゃ動じないから」、「アイツはメンタル強いから大丈夫」。

これらは決して誉められているのではない、舐められているのだと思う。

欲望はどんな形であれ発現させた方が吉。
大事なのはどれだけ愉快に、もとい、どれだけ痛快に発現させるかだ、そんな気がする。

欲望が暴発すると人はキレる。
「ふざけるんじゃねぇ」とか「舐めんじゃねぇぞ」、とかそんなことを言いながらキレる。

キレている間、人はある種の無敵状態に入る。溢れ出る言葉が次々と口をついて出てきて、周りの人は「お、落ち着けよ」なんて言ってなだめようとする。
いじめられっ子がキレて、いじめっ子が狼狽するところを見た人は少なくないのではないだろうか。

キレている人間に死にたい人間はいないんじゃないかな。そんなことを思う。
むしろ、生きたいからキレているのだと思う。
怒りは生きる為に必要な感情なんだと思うし、怒りのトリガーはいつだって欲望な気がしている。

生きたいのなら怒れ、要求しろ、欲望を解放しろ。

嫌いな奴はいつまでも嫌いだし、心なんて一生不安だ。

もう、なにがなんだかわからなくなってきた。
早い話、もっともっと怒っても良いんだよと思った。



みんなそうなのかはわからないが、僕は気がついたら大人になっていたクチなのだけれど、最近恐ろしいほどに思うのが、大人になると誰も本当のことを言わなくなる。

言っても無駄だからと、勝手に距離を置かれる。

そうやって本当のことを言われないで致命的な部分そのままに生きてきた大人が世間には一定数いて、僕自身もその中に入るのかどうかは当の本人にはわからないのがまた恐ろしいところだ。

僕はちゃんと生きてちゃんと死にたい。

そう、怖いのは死ぬことではない。
死ぬ時にちゃんと生きなかったと思うことだと思う。

この文章が読める人に遅すぎることはない。

どうか一緒にちゃんと生きてくれないだろうか。

と、伝えたい。







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ジャネーの法則・改

2022-10-06 23:55:00 | 日記



数年前、友人にランダムにタイトルを提示してもらい、それらしく僕がブログ記事を書くという遊びをしていた時期があって、その時友人がランダムに提示したタイトルの中に「ジャネーの法則」みたいなのがあって、当時僕はジャネーの法則ってなんだろうな、わかんないなと思っていて、そう思ったままろくに調べもせずに雑に当時の記事をまとめた記憶があるのだけれど、最近ふと知る機会があり、あることを知った僕は開いた口が塞がらず、最終的にアゴが外れた。(嘘)

ジャネーの法則っていうのは、早い話が歳を取れば取るほどに時が過ぎるのを早く感じるようになる。ってヤツのことなのだけれど、それはなんとなく知っている。生きてると感じるもんね。小学生の時なんか一年間がめちゃんこ長かったよね。ね?

だから、それはわかる。

僕が驚いたのは下記の考察だ。



「人間の平均寿命で言えば19歳の時点で人生を折り返しています」


……………………はぁ!?


である。


目から鱗がぼろぼろである。


これが本当なら僕はとっくに人生を折り返していたことになる。

終わりは誰にだってやってくる。
しかし多くの場合、人はそれを意識できないらしい。

これは子供の頃からずっと変わらない出来事なのだけれど、定期的に(年1くらい?)僕は夜な夜な無意識に死を意識してしまい、そのイメージはなぜかいつもとてつもなく深いところまで行ってしまい、最終的にすごく怖くなって、布団に向かって叫び、目一杯叫んだらその1分後には寝ている。ということを繰り返している。

ある種の持病のようなものだと思うのだけれど、大人になったら治ると思っていたこれが治る気配はない。きっとこの先も治らないんじゃないかなと思う。ただ、「またか」と思えるくらいには慣れてきたので、「まあいいか」と思うようになった。

そりゃそうか、もう人生折り返してるんだもんな。


綺麗なものを見るとご機嫌になり、醜いものを見ると不機嫌になる。

人間も同じで、美しいもあれば醜いもあるのだと思う。

先日おばあちゃんが足を骨折したと連絡が入った。
とても心配だったが、経過は良好ということで、最近では経過を逐一報告してくれるのが嬉しい。

手術の日が決まった。
無事手術が終わった。
腕の良い先生だった。
リハビリの先生がいい人だった。
今日は100歩くらい歩いた。
明日は1人でトイレに行ってみる。

美しいなと思う。

いつでもどこでも美しいなと思える人はほとんどいない。しかし、それが自然なのだと思う。ずっと美しいなんて難しい。そもそも、醜いがあるから美しいがあるんだと思う。

ただ、ずっと醜い人はいるような気がしている。そういう人は諦めてしまっているのだと思う。

美しいなんて無意味だ、こっちの方が楽だ。
もう歳だから。仕事だから、人生なんてこんなもんだ。
なんて投げ出してしまった時、その人の美しいは二度と顔を出さなくなってしまう。

ずっと美しいは難しい、それでも…

僕はそんな、それでもが好きだ。



1年前にも似たようなことを書いたが、昨今では「メンタルが強くなる方法」がもてはやされている。

「アイツはメンタルが弱いから」はもはや悪口だ。

しかし声を大にして言いたい。

そんなことはない。

メンタルが弱いっていうのは、自分の心の中に強い希望があって、それがうまいこと世間の流れに乗れていなくてつらいのだと思う。自分の希望が世間のマイノリティで、間違っているのは自分なんだろうかと葛藤するのがメンタルの弱い人達なのだと僕は思っている。

本来自分と世間との食い違いは歓迎するべきであって、世間と迎合している人間に面白いと思える人間は少ない。(と、思っている)

メンタルの強い人間ってのは、思った通りのことが起きないと誰かのせいにしたり、怒ったり人の悪口を言ったりして、自分と世間とのズレを力づくで修正してくる。(と、思っている)

両者の最大の違いは目的地だと思う。

メンタルの強い人間は目的地がハッキリしていて、えてしてそのゴールは狭い。

一方メンタルの弱い人間の目的地はだいたいいつもふわっとしている。早い話ゴールが広い。

僕はゴールはふわっと広い方がいいと思っている、その方がみんなで行けるから。

狭いゴールは期待で、広いゴールは希望だ。


…だんだん何言ってるのかわからなくなってきた。

メンタルの弱い人たちへ。

どうかそのままでいてほしい。
その悩みやかなしみはいつか優しさに変わると思う。









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