恋は盲目、パンチラはガン見〜Ryoji Harada〜

元は旅ブログ、海外行ったり、突然自転車で走り出したり、ちょっと自分でもなにすんのかわかりません。パルプンテ!

記憶を蓄積する動物と、今を生きる動物

2024-09-05 14:27:34 | 日記

千歳市にいる。



空っぽの心はよく響き、その心の空洞に重たい毛布のような不安をいれるとその大きな音にミュートがかかる。

ふとしたときにはいつも、僕たちは大なり小なり悩みを抱えている。

常に不安を抱えているのは、心が強く響きすぎるのを恐れているから、なのかもしれない。



 

繁忙期のようなものが過ぎて、川下りの途中に落雷があったらどうしようという不安は今年も杞憂に終わろうとしている。

カヌーがひっくり返ったらどうしようとか、増水してたらどうしようとか、お客さんが全然楽しめなかったらどうしようとか、このまま天涯孤独だったらどうしようとか、気がつけばそんな不安を常に抱えている気がする。

情報があふれる世の中は、不安を取り除く方法をありとあらゆる媒体を通して教えてくれるが、僕はこの不安を誰かに譲るつもりはない。


「不安の9割は杞憂に終わる」

手元の黒い物体が映し出すこの言葉には、きっと沢山の人が救われている。

それでも、それをわかっていても僕らは不安になるのだと思う。







この星で一番種類と数が多い動物は節足動物だ、もっと細分化すればそれは甲殻類や昆虫になる。

彼らは大脳(中枢指揮系統と主な記憶を保存する器官)を持たない。※ちなみに記憶がないということはない、学習もある程度する。

大きな指揮系統を持たない彼らは、外部の情報処理を手や足、触覚などの末端器官に依存する。

体全体で捉えた危険信号を、大脳を介さずに各部位の独立した神経節の条件反射で対処しにいく節足動物は、俯瞰的には自分がどんな状況に陥っているのかあまりわかっていない。

そんな彼らには、自分が置かれた現状に対して蓄積された知識を介して不安を覚えることは少ない、ただ来たものや、そこにあるものに対処、処理することに長けている彼らこそほんとうの意味で今を生きているのだ。

 

一方で先祖を重んじて大脳に保存された記憶を頼りに、次へ、次へと(物語を通して)世代を繫いでいく僕たち哺乳類(人類)が、他のどの種族よりも多くの種類を反映させた節足動物に対して、「大脳をもたない」という理由だけで劣等種であると決めつけるのはあまりにも傲慢であるように思う。



 

前置きが長くなったが、不安は哺乳類が獲得した危機管理能力という類の生存技術である。

群れで生活する動物が「寂しい」という感情を発達させるのと同じだ。

 

哺乳類は節足動物より反射神経が劣っている。

だから遅れを取らないように事前に危機を予測する、予測により試算された結果が映像として脳内に映し出される。

 

それが不安の正体なんじゃないかと思っている。

 

 

・・・てな感じで、今は節足動物について調べているのだけれど、この話がどうやったら面白くなるのかを模索しているが、全然わからない。




この情報を羅列されただけの時点で既に面白がれる人は学者気質だと思う。

多くの人はこれを聞いたところで「でぇ?」となる。(気がする)

 

僕たち人間の意識は乱世になればなるほど「今」にフォーカスされ、治安が回復すればするほど「未来」にフォーカスされるようになる。これは歴史を学べばそれなりに伺える。

 

未来にフォーカスしたほうがいい。という話ではない。



今を生きることに集中し続けた節足動物が、5億年の時間を生き続けているので、そっち(節足動物)が正解!と言われても10000年そこそこの歴史しか持たない人類には反論が難しい。

時の洗礼を受けてもなお生き続けるのは、彼らが生物として限りなく優秀な証拠になりえる。

 

僕らは節足動物にはなれない、しかし節足動物にはない喜びもあるに違いない。

 

例えば節足動物には「思い出」がない。

思い出を保存するのに脳の容量が足りないのだ。

 

思い出が作れない彼らには同窓会がない。

そもそも記憶を蓄積する能力が乏しい節足動物たちが長生きするメリットは少ない、高齢者を重んじる文化は、記憶を価値として保存できる生き物ならではであるから、今を生きる彼らは、各個体の寿命が短い。

早い話が節足動物に同窓会をしている暇などないのだ。

 

・・・だんだんわけがわからなくなってきたのでまとめに入る。

1、不安は生きていくために必要な機能で、それが過度に反応して身体を壊してしまうことがあるだけ。つまり正常。

2、哺乳類と節足動物は五億年以上前に袂を分けたかなり遠い種族であり、女子(時々男子)が「やだー、虫キモーイ」というのは、身体の構造から脳の仕組み、行動のきっかけまであらゆるところが違っているせいである。そのことを認識せず、同じ生き物だから、と心のどこかで理解できるかもという可能性を模索しているから、つまりあなたが優しいからだ。(個人の意見です。書いてたら少しずつ違う気もしてきた)

3、同じ節足動物でも甲殻類より昆虫のほうが嫌われがちなのは、昆虫が人間と同じ陸上にいるからだ。やつらは陸にいながらも行動が予測しにくい、なおかつ動きが異様に速い。昆虫でも嫌われるのはだいたい速い奴らか毒を持つ奴らだ。カブトムシが人気なのはそのどちらでもないからだ。甲殻類は水中だとめっちゃ速い。一方でザリガニが子供達に人気なのも、甲殻類の中では比較的動きが遅いからで、もし人間が海の生き物であれば、嫌われるのは甲殻類の方だったかもしれない。

4、ラジオのザリガニ編の台本作りがめっちゃムズいので今回の節足動物ことで「ここ意味わかんなかった」とか言ってくれるとすごく嬉しいです

5、気がついたらこんなことを書いていたが、もともとこんなことを書く予定ではなかった。今月からまた少しずつ時間ができるので、近いうちに今日書く予定だったことはまた書きたい。

6、書かれるはずだったのに、一度は打ち込まれたはずの書かれなかったたくさんの言葉たちが、僕の中には存在している。そんな言葉たちが再び日の目を見るのかはわからない。けれど、そんな「書かれなかった言葉たち」に僕は確実に支えられている。









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なめろう

2024-08-08 21:44:00 | 日記
「なめろうの圧勝だね」


こんなメモが携帯に残っていた。

わからない、いったいなんのことだ?
僕は居酒屋にでもいたのか、その飲み会がつまらなすぎて周りの会話からおもしろワードでも探していたのか。

それは…



心当たりがありすぎる。





前回記事にも書いたが、心が穏やかな夏が過ごせている。こんなのは割と久しぶりだ。

今、心が穏やかであると言うことは、冬の心中は穏やかではないのかもしれないのだけれど、あとで困るんなら、ちゃんとあとで困ればいい。



高く高く、もっと高く!
と上を目指していると、どういうわけか、いつのまにか堕落しているなんてことがままある。
地球上のあらゆるものが、円周運動をしているんだろうな、ということを思う。
上に伸びて堕落するというよりは、上に伸びる時期と、下に伸びる時期、あとはまぁ、横に伸びる時間とかもあるんじゃないかなと思う。

どっちに伸びてたっていいけれど、進んでいる人間はほとんど不平を言わない。


なんの話だったか…

そうだ、なめろうの話だ。

「なめろうの圧勝だね」の話だ。

なめろうの相手はなんだったのだろう、
せっかくなので思い出してみた。
メモの日時から推測するに、そのワードを聞いた会場は昨年の春、釧路の炉端焼きの店で、長野の社長が愛人を連れてきて、その飲み会にドライバーで呼ばれた時だろうな、ということがわかる。

隣の席のサラリーマンあたりが発した言葉なのだろう。
あそこは魚の店だからなめろうの対抗馬はさしずめカツオのタタキあたりだろう。
鶏皮ポン酢ではないことは想像に易い。

なめろうは、千葉県の漁師が大きく揺れる漁船の上で食べやすいように魚を叩き切ってペーストにして、醤油だとこぼれるから代わりにこぼれない味噌を入れたら、皿を舐めるほど美味しかったことに起因する。

なめろうって名前、中学の時にはあまり盛り上がらなかったな、なめこ汁はあんなに盛り上がったのにな。ほんとうに些細な差なんだろうな。


恋は盲目、パンチラはガン見というブログタイトルに変えて7年くらいがたったらしい。

個人的に気に入っているので変えるつもりはないが、定期的に弁解しておかないと僕がパンチラをガン見する変態おじさん(年齢的にもそろそろ本格的にヤバそう)になってしまう。いい機会なのもあってまた書いておく。

パンチラは、神様からの贈り物だが、決して見に行ってはならない。
もっと言えば、見たいだなんて思ってもいけない。
最悪なのはパンチラを見に行くことだ、そんな奴は地獄に落ちればいい。

見に行っていない、見たいとも思っていない、それでも、それでもなんらかの偶然でたまたま、ほんっとうにたまたまパンのつく何かが見えてしまった場合、当然僕らは光の速さで目を逸(そら)さなくてはならない。

それを僕らはパンチラと呼ぶのだと思う。

勘違いしないでほしい。
パンチラなんて、見たくもないんだから!

(というスタンス)


夏は気力を振り絞るようにして、太陽に熱を送る、やがてこの熱は段々秋に吸い込まれていくのだが、それはもう少し後の話になる。

ちがうよ、太陽が熱をたくさん送った土地が夏になるんだよ。
なんて声が聞こえてきそうだけれど、時によってそれはどっちでも良くなる。

僕らは見たいようにしか世界を見なくなる。

きっとそんな周期がたくさんやってくる。

この先ずっと、見たいようにしか世界をみることができなくなっても、なめろうは圧勝するのだろう。

なめろうが圧倒的勝利を飾る時代を生きていられることを、とても嬉しく思う。

















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ラブアンドピーチフラペチーノ

2024-07-31 15:39:38 | 日記

北海道千歳市のスターバックスにいる。

 

一度はスタバでパソコンを開いてみたい、という謎の願望を叶えに来た。

目の前のラブ&ピーチフラペチーノの看板に高揚感を覚える。

 

高揚感だけ味わってプレンドのトールを注文する。

ここは本を読みながら気になったことをメモしていくのには悪くない環境なんだな、ということがわかった。

 

やることが制限される環境では、他にやることがないので集中力が増す。

学校の授業、飛行機の中の読書、風邪で学校を休んだ日のレベル上げ、コロナ禍での筋トレなんかがいい例だとおもう。

 

場合にもよるが、選択肢は必ずしも多ければ良いというわけではない。

少ないほうがいい場合もたくさんあるのだと思う。

 

夏は仕事が忙しいからプライベートな時間が取れない。

今年、そんな生活から半ば強制的に離れた。

なにをもって独立というのかはよくわかっていないが、

それからは独立して不安になることはないのか、という質問をうけることが増えた。

現実では「そこそこ不安ですね」と笑って答えるが、心の内では独立するから不安というより、

独立とかあんまり関係なくいつだって不安なんだけどな、みたいなことを思っていたりする。

 

学生の頃は、たぶん人並みに将来の自分がどうなるのか不安だったし、会社員の頃はこのままこの仕事をし続けてもいいのか不安だった、各地を転々と移動していた頃はいつまでこんなことをしているのだろうなんて不安があったし、去年までは、収入が前年を下回らないかが不安だった。

どこにいてもなにをしていても心なんて一生不安だし、不安じゃないといえばいつだって不安じゃない。

安心か不安かの対極ではなく、安心は不安を、不安は安心を内包している、不安がなければ安心はできない、よって安心するから不安にもなるのだとおもう、盛者必衰とはよく言ったな、と思う。

不安になることが僕らの生存本能である以上、「不安はないのですか?」という質問そのものに大きな意味はないのかもしれない。

だったら「不安です」という答えを聞くことで一時的な安心を得たいのであれば、出し惜しみなんかせずどんどん安心してほしい。

僕はこの先もずっと不安だ。一緒に不安を乗りこなそうぜ。みたいなことを思う。

 

それを踏まえた上で不安を肌で感じている間は、どこかへと進んでいる時間だと思っている。

通ったことのない道を通っているから不安は顕著になる。

逆説的だけれど、通ったことのない道を通っている自分が一番安心なのではないだろうか、みたいなことも思う。

 

昨日聞いた「自然の中に身を置く、ということが流行ったのは大正時代と現代だけだった説」という話が面白かった。

乱世では、そんなものより今すぐパンをくれ、となるだろうから、

いかにパンを美味く食べられるかなんて割とどうだっていい。

とにかくこの命を、国を、種を、より確実に次の世代に繋げ!が至上命題である時代は確実にあっただろうし、

考えよう次第では、現代でもそういう地域があるかもしれない。

 

安定して食料が手に入って初めて、文化が育ってくる。

文化は出汁が飯を美味くすることを覚え、同じ文化を持つものが結束すると強いことを教える。

平穏は新しい出汁を求めて旅に出るものを生み出し、その旅人は見つけた土地の人と争う、いつしか出汁どころではなくなる。

 

命がなくなるのが不安な時代、新しい出汁が手に入るか不安な時代、家族を失うのが不安な時代、国が滅ぶかもしれないと憂う時代、ホモサピエンスが絶滅するかもしれない時代、地球がなくなるかもしれない不安が具現化する時代。

 

いつだって心は不安だから、憂い過ぎも考えもの。

いろんなものが円形運動をしていて、同じところを行ったり来たり。

 

僕は根っこがこんなのだから、せめて目の前の人には笑っててほしいんだ。

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ちっぽけな嘘

2024-07-04 21:15:04 | 日記

日中の最高気温が25度を超え始めた。



騒ぐ胸から吹く風が、

夏の日差しで大きくなって

大人のページをめくっていく。

いつしか風は速くなって

瞬く間に僕らの自由時間が終わっていく、

そんなちっぽけな嘘。




久々に時間をかけてさっきまでもくもくと書いていた文章が、ボタン一つで消えていった。

書いた文章が消えて本当の意味でイライラしたことはない、イライラはしないのだが、多少もったいないとは思うので、せめてひと盛り上がりしたい一心でこのことを今書いている。

文章を自分で消去するたびに書いているが、消去直後でも同じ文章を書けることは二度とない。

良くなっているとか悪くなっているとかではない、感情には周期が色々あって、その小さな周期はものの数分で過ぎ去ってしまうから、同じ気持ちでいることがあまりないのだと思う。

鮭の大漁不漁も周期だし、氷期と間氷期も周期だし、帝国主義と共和制の流行りも周期だとおもう、貨幣経済も、情報社会も、個人主義も全体主義も人口増加も少子高齢化も周期だとおもっている。

今がたまたま、そうなだけなのではないか、極端な話、人を殺してはいけない、なんて思想も周期なんじゃないかと思っている。

ちなみに星のめぐりが〜、とか言うつもりは毛頭ない、星のめぐりなんてクソ食らえだ!

…言い過ぎた、星のめぐりについては知らないだけです、良いのかもしれない。(胡散臭いとは思っている)

 

何が言いたいかって、僕の書いた文章をとっとと返しやがれ!!!!!



(イラついてない)





今のくだりを通して消えた記事で何を書いていたのかはほとんど忘れた、人間の記憶なんて曖昧だ。

とはいえ、さしたる話題もないので前回記事の補足でもしておく。



あのとき何にイラついていたかって、きっと端的に、たいして仲良しでもないおっさんたちとキャンプしながら川下りなんてあんまり面白くないんじゃないか?

という簡単であろう予測が一切できなかった自分自身に苛立ったのではないだろうかと思っている。

 

大学生バックパッカーのように、行ったところをただ自慢してくるおじさんといて疲れたというのは事実だし、そのこと自体はあながち間違えていないのだけれど、ひとつ違っていたかもなと思う所が、そいつといるのが疲れたのではなくて、我慢しているのが疲れただけなんだと思う。

改めて僕は人間嫌いなのかなって思ったけれど、その直後の白老町でのイベントは楽しかった。

きっと人間が嫌いなのではない、我慢するのが嫌いなだけなんだと思う。

 

我慢をしなければ良いのだとおもった、「あなたの話は面白くない」とちゃんと言えればよかったのだと思う。

 

いや、それが言えたら苦労はしない、そんな気の強さを持っていたらこんなブログ書いていない気がする。

もっといえば事はそう単純なことではないのだと思う。

 




人間は社会を作る生き物なので、様々なしがらみの中で生きなくてはいけないのが世の常だと思う。

都会の喧騒としがらみに疲れた若者が田舎に癒しを求め引っ越した結果、田舎のほうがしがらみや監視の目が強いわ、噂は瞬く間に広がるわで疲弊しまくって結局街に帰ってきた、なんて話も聞いたことがある。

田舎のしがらみを逃れる為に都会にやってきた若者の子孫が、都会のしがらみに疲れて田舎を目指すのもなんだかおもしろい。

これも周期なのかもしれない。

 

(ちがうかもしれない)



自分で仕事を始めるとたまに仕事のアドバイスみたいなのをもらうことがある。

「これをしたほうが良いよ」

「あれは儲かるよ」

僕が毎日川を下ったり、収益化していないブログを10年以上書いている話をすると以下のようなアドバイスをいただく。

「10年後にはそれがいくらになるの?」

「早く収益化しないと!」

今日は書いた文章が消えて謎のセルフ免罪符モードなので乱暴な言い方をさせてもらう。

 

 

うるせぇ

 

 

僕の周りの環境なのか、世の中なのか、この国なのか、全世界なのかは不明だが、なんだかよくわからないけれどやってしまうこと、「そんなこといつまでやってるんだ?」と言われてしまうこと、に世間が厳しすぎるように思う。 

いや、でも少しは優しくなってきているような気もするけれど。

 

とかく、謎のアドバイスが蔓延する傾向にある、それがうまいこと行く場合もあるが、それがありがた迷惑となる場合も少なくない、「そんなの無視すればいいじゃない」に関してはこのタイトルを最初から読み直してほしい、こちとらそんなことできたら最初から悩んでなんかいない。

 

アドバイスと当事者の不適合に関しては、おそらくゴールに違いにある。

アドバイス勢のゴールは大抵「収入の増加」である。

それに対するものが抽象的になるが「なんか、この方がいい感じになる気がする」である。

前者は言語化が可能で、後者は言語化ができない、社会的に市民権を得るのは前者となる場合が多い。

 

だが、この「なんかこの方がいい感じになる気がする」を侮ってはいけないような気がしている。

 

勘違いされそうなので書いておくのだけれど、収入の増加は大歓迎だし、利益を求め続けることを否定するつもりは一切ない。

僕だってなれるものならお金持ちになりたい。

ただ、稼げるからという理由で「なんかこの方がいい感じになる気がする」を潰して良いわけではない。

 

そんな気がするけれど、どうなんだろう。

 

わからないな。












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悪くない人生は、悪くない

2024-06-28 05:46:06 | 日記

北海道三笠市の道の駅にいる

カナディアンカヌーの練習をしたいから貸して欲しいと言われ、

言われるがままにしていたら天塩川という川で一泊二日のキャンプ旅みたいなことをオッサン達とやることになった。

結論から言うと、二日間ひたすらキャンプ道具を運び、間にはおっさんの自慢話に付き合わされ、さらに終わる頃にはカヌーをボコボコにされて終わったのだが、ここでイライラしていては男が廃る。ということで、最高の反面教師を見つけたな、ということで自分を抑えることに成功した。

 

そもそもこれは僕の書き方が悪い、これでは完全に被害者ではないか。

被害者は端的にダサい、相手に期待をしている証拠だ。

期待は自分に寄せるものであって他人に寄せるものではない、

誰かに期待をした瞬間にそれは甘えになるのだと思う。気をつけようと思った。

 

人間の行動原理は大きく分けると、愛か恐怖だけなのではないかと思う。

愛を原動力にして動いている人は騙されたとかやられたとか絶対に言わない。

だいたいいつでもニコニコしているし、ニコニコできない場所からはそっと離れる傾向にある。

 

一方で恐れをベースに行動すると、他人を疑いの目で見るようになり、

打算が増え、お金の勘定にシビアになり、少しでも期待を裏切られると、騙されたとか言って騒ぎ始める。

多くの人が得をしようと動くこの世界において、いつ騙されるかわからない恐怖と共に日々を過ごすのはあまりにも酷だ、彼らは結局のところ「愛してちょーだい、愛してちょーだい!」と叫んでいるのだと思う。

叫びまくった結果愛してくれなかった人を人は憎んでしまう傾向にある。

しかし、憎しみで憎しみを洗うことはできない。

憎しみを抱えている人は孤立している。「どうして俺だけ」「なんで」「どうして」が止まらなくなる。

その逆は「全体に溶け出している」だと思う。

山を歩いている時、1人で川を下っている時に「俺が俺が」となることはほとんどない。少しオカルトな言い方になるが、自分が世界と一体となっている時に憎しみの感情は生まれない。

憎しみも浮き彫りにしてしまえば、あとは愛情なりなんなりで包み込んで仕舞えばいいのだと思う。

気をつけようと思った。(2回目)

そんなわけでここからは出来るだけ憎しみを取っ払って書いていきたい。

天塩川に同行したのは同業のオッサン2人だったのだけれど「これをやったら稼げるとか」「同じことをやっていたら飽きちゃうよ、そんな人生つまんないんだよ」みたいな講義と、あとなんか酒を飲んで政治の話をしていた気がする。

 

お金の稼ぎ方や守り方を語る人は多いが、お金の使い方に言及する人は少ない。

健康を維持する方法に詳しい人は多いが、健康な身体の使い方を語る人は少ない。

命も健康も守るためにあるんじゃなくて使うためにあるんだと思った。

健康を守るのが悪いことなのではなく、順番が逆なのだと思う。

使うが先にあって、守るが後のような気がしている。

 

同じことを繰り返す毎日を否定する人はHUNTER×HUNTERのネテロ会長の正拳突きの所を読んでほしい。漫画なのでフィクションだが、同じことを毎日するパワーは半端じゃない。

一つのところに留まる相手をリスペクトができない人は、移動した先で親切にされる意味を理解していないのだと思う。

そのオッサンガイドは「僕は地元じゃないから、何か言われそうになったら離れるんだよ」みたいな事を言っていた。これでは地元へのリスペクトが皆無だ。上手いこと地元の皆さんとバランスをとって大切に事業にしてきた人たちへの冒涜と取られてもおかしくない。

同じことを続けることで掃き溜めの汚いところが見えてくる、汚いところをさらによく観察すると、それは汚いではなくて、栄養がたくさん詰まって微生物がたくさんいるところでした。なんてことがたくさんある。

上辺の綺麗なところだけを掬って見せるだけの人間にはなりたくない、もっと深く潜ろう、汚いものの先を見に行こう、それが本当に汚かったとしても、そこの解像度の違いはいつか自分を救ってくれると信じている。

と、ここまで書いてからの違和感がすごい。

批判は良くないと書いてからの謎の批判パートを挟んでいる。

あとで読んで恥ずかしくなるやつだが、後学のために残すことにした。

ここから内省に向かいたい。

 

批判の多くは嫉妬が原因で、特に多いのは「自分は〇〇してるのに〜」という類の嫉妬がとても多い。

自分の方が詳しいのに、自分の方が勉強しているのに、自分の方が長い時間をかけているのに、相手の方が得をしているように見える。

これをなんとか否定したくて批判をする。

しかしこんな生き方は猛烈にダサい、ダサいとわかっていてもやっている自分はもっとダサい。ただ、これを辞めようとは思わない、おそらく人間という種としてこの機能はある程度実装されているのだと思う、どうしてもやってしまうダサいこと、ダサい直後の動きが大事だ。

他人を批判して、誰かが得をすることはほとんどない。選挙のニュースを見ていても本当にそうだなとおもう。速い話が他人の不幸を望んでいるのだ、しかし、他人の不幸なんてものを望んだ時点で、精神的に下劣な存在に成り下がる。

そんなことよりも自分に集中しよう、自分で自分の価値を下げる必要はないのだと思う。

 

朝の水気を含んだ重たい空気が、朝日に温められて生ぬるい。

朝からいろいろ胸くそ悪いことも書いてしまったかも知れない。

なんだかんだ言っても自分のドロドロしたものを吐き出すことは大事だと信じている、ハイセツアイサツヨリタイセツの精神で行きたい。

あらゆる欲望を抱えながら今日も一定数の人が最高の人生を歩みたいと願っているんだと思う。

ただ、よく考えると最高の人生がどんなものなのか知っている人はいないのではないだろうか、人生の二周目みたいなのがあるのかは知らないが、基本的にはみんな人生のアマチュアだ、自分にとって最高な物をみつけるのと同じくらい、自分にとってどうでもいいことを知ることも大切なことなんじゃないかと思う。

つまるところ最高の人生ってよくわからないから歩めるかわからないな、と思っているのだけれど、悪くない人生なら歩める気がしている。

そして悪くない人生は、悪くない。

悪くないの中にいろいろ入っているのだ。

昨日と一昨日のあの出来事を、僕は、悪くない人生の箱に大事にしまっておこうと思う。

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