北海道苫小牧市にいる。
いつから書いてなかったのだろうかと前の記事を読んだら昨年末でアゴが外れかけた。
半年近くご無沙汰しているからか、何を書けばいいのかなかなか思いつかない。
今年のはじめはセネガルで兄の和食屋の内装を作っていた。
気がついたら色んなところで大工仕事をするようになっていたが、未だにまともにお金をもらって大工仕事をしたのは9年くらい前に長野県の斑尾高原で立ち上げるバーの内装工事を手伝った時だけで、それ以来大工仕事で給料を頂いたことは一度もない。かく言うこの時がうまれて初めて大工仕事をした時なので、一番腕が悪いときにお金をもらうのもなんだか不思議なものだなと思う。
くれるものは貰うし、くれないのなら別に構わないと、終わってからとやかくは言わないようにしている。
それが原因で疎遠になることはあったかもしれないけれど…
前回の記事でミミズについて調べた、なんてことを書いたが、今回自分で仕事を始めるにあたってつけた屋号がミミズ(厳密にはミミズを意味するアイヌ語)であったことに何故か自分で驚いている。
屋号は「トイモク」といいます、漢字では「問木」と書きます、子供の頃によくつぶやいていた謎の単語、問いと木が好きなこと、アイヌ語で「ミミズ」であることなどが由来です。どうぞよろしくおねがいします。(急に…)
3月に日本へ帰ってきてからは、物件探しと、職場探しに明け暮れていたように思う。
お陰で手頃な物件と、良い川(職場)が見つかったと思う。偉いぞ自分。
空いた時間は小説と抒情詩を読みふけっていた。
世に出ている良い作品の多くは、これでもかというほどに自身を掘り下げては広げ、別のところからまた掘り下げては広げ、それを何度も繰り返しようやく爪の先が触れるようなかすかな感触を見つけて、慎重に手繰り寄せて、丁寧に洗練してようやく完成するような、こんな陳腐な表現では到底物足りないような境地から書かれているように思う。
なんて卑屈になっても何も起こらないのだけれど、それほどまでに圧倒されてしまう作品が多いのは確かだ。
中には「どうしても受け入れられない作品」のようなものもあるのだけれど、受け入れられる作品とそうでない作品の境界線がよくわからない。
どうしても受け入れられないのなら、どうしても受け入れられないまま行くしかないとは思うのだが、人間欲張りなもんで、どうしても受け入れたくなってくる。なのでその本をもう一度読む、ダメだ、受け入れられない。
そんなことを悶々と繰り返しながら、気がつけばゴールデンウィークが終わっていた。
一人でいるのはさみしい、
さみしいは必要な感情だ
一人だと何にもありつけない、
だから探しに行く
一人にならない方法を、
さみしいのは嫌だから
群れから追い出されたオオカミは遠吠えをする
群れのオオカミはそれに誰も応えない
それでもオオカミは遠吠えをやめない
さびしいのは嫌だから
ある晩、同じく群れを追い出された別のオオカミから遠吠えが返ってきた
オオカミたちはさみしいがあるから出会えた
こんなことを深夜のテンションで勢いまかせに書くからあとで「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」となるのだ。
こんなの勢いで投稿するしかない。
いっけぇ!!
何も見えない
人はものが見えているときは
光の存在に気が付かない
光こそ、、、神様のようです
光のある風景は
光の神様が選んだ言葉
光で描いた風景の詩集
ページをめくると
風景言葉が、、、
胸から胸へと
差し込んできます、
人は、、、、自分と光だけ
もっと光を!